テレホン法話
~3分間心のティータイム~

【第844話】「天明から平成を観る」 2011(平成23)年6月1日-10日

住職が語る法話を聴くことができます

 お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第844話です。20100601-02.jpg
 徳本寺は今からちょうど570年前の嘉吉元年(1441)に開かれましたが、現存する過去帳で一番古いのは、227年前の天明4年(1784)のものです。そしてこの年が年間の死者数が一番多いのです。314人を数えます。戦死者が多かった昭和20年でも201人ですからかなりの数と言えます。日本の近世史上では最大といわれる天明の大飢饉があった年です。
 
 天明3年に岩木山や浅間山が噴火し、各地に火山灰を降らせました。更に日射量の低下で冷害となり、壊滅的な被害をもたらしました。東北地方の農村を中心に、全国で数万人が餓死したと伝えられています。しかし、実数は1ケタ多い十万人単位の死者が出たようです。徳本寺の過去帳によれば、この天明4年の正月から毎月20人から50人を超える方が亡くなり、半年間で278人に上ります。その後の半年は、月数人の死者です。前半の半年はほんとうに異常な死者の数です。
 そして、今年平成23年の徳本寺の過去帳も、歴史に残るような異常さがあります。同じ命日の方が、百人を超えているということです。5月末現在で、3月11日を命日とする方は、113人です。東日本大震災の犠牲者の方々です。天明の飢饉の時でも、一日に何十人も亡くなっているということはありませんでした。それが、この度は一日というより、僅か数十分の間に、多くの命が失われたのです。全国で1万5千人を超え、我が山元町でも約670人の遺体が確認されています。ほとんどの方が、3月11日が命日となるのです。天明の飢饉の時は、毎日命日を迎える人が絶えなかったことでしょう。今回の大震災はその1日を、あまりに多くの方が同じく命日としなければならなかったという異常さを示しています。
 改めて思うことは、いつの時代にも、想像を絶するような惨状は繰り返されてきたということです。そして、誰もがそのことに納得できなかったはずです。それでも、227年前の天明の飢饉の惨状を今の私たちは想像もできないないほど、現在の繁栄を目の当たりにしてきました。地獄のような惨状をほんとうの地獄にすることはなく、少しずつ立ち直ってより豊かな故郷を先人は築いてきています。それは前に進もうとする気持ちがあったからなのでしょう。納得のいかないことを少しずつ受け容れることで、前に進む力が出ると信じます。
 3月11日の命日の方は、6月18日に斉しく「百か日」を迎えます。「百か日」は「卒哭忌」とも言います。「卒業」の「卒」に「慟哭」の「哭」と書きます。慟哭することを卒業する、悲しみが少しは和らぐという意味があります。天明の人々もその日を迎えたことでしょう。ここに至り、即刻卒哭忌」となるのが天命と信じて精進すれば、百年と言わずに復興の姿を描けるはずです。数え切れないご遺族の方々が、この日を揃ってひとつの節目のスタートにできることを切に願うものです。
それでは又、6月11日よりお耳にかかりましょう。

最近の法話

【第1351話】
「明月院ブルー」
2025(令和7)年7月1日~10日

お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第1351話です。 「紫陽花や きのふの誠 けふの嘘」正岡子規の句です。紫陽花の色の変化を、人の心の変わりようや迷いに喩えているのでしょうか。紫陽花の季節、アジサイ寺・鎌倉の明月院を拝観する機会がありました。 山門に至る緩やかな石段の両脇に咲く夥しい紫陽花に迎えられました。境内も紫陽花の海という感じです。「明月院ブルー」と称される... [続きを読む]

【第1350話】
「欲と水」
2025(令和7)年6月20日~30日

住職が語る法話を聴くことができます お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第1350話です。 46億年前、地球ができたころ、まだ海はありません。3億年ほど経って、地球の表面が冷めると雨が降り始めました。何と千年間も降り続けたそうです。現在のような海になるまでには、更に7億年を要します。こうして36億年前に生命の起源が海に生じたと考えられます。ヒトの出現はずっと後のことで... [続きを読む]

【第1349話】
「背番号3の背中」
2025(令和7)年6月11日~20日

住職が語る法話を聴くことができます お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第1349話です。 好きな数字はと訊かれたら、迷いなく「3」と答えます。勿論長嶋茂雄さんの背番号だからです。小学生の頃その背中に憧れました。ユニフォームなど買ってはもらえないので、「3」という背番号を手作りした覚えがあります。 当時まだテレビはなく、たまにラジオで野球中継を聴くぐらいでした。そし... [続きを読む]