テレホン法話 一覧

【1307話】 「揺らがず大遠忌」 2024(令和6)年4月11日~20日

 お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第1307話です。

 たとえばですが、「正月の元旦に地震の避難訓練をします」と言われて、参加しますか?正月早々とんでもないと、誰でも思います。しかし無常なる自然は、正月とか人間の都合に忖度しません。能登半島では元旦にとんでもない地震が起きたのです。

 実は能登半島は曹洞宗にとっては聖地です。曹洞宗には本山が2つあります。福井県の永平寺と横浜の總持寺です。元々總持寺は輪島市の門前町(まち)に、今から703年前の1321年に、瑩山禅師が開かれました。その後、明治31年(1898)に大火でほとんどの伽藍を焼失。それを機に明治44年、新しい時代の発展を願って、現在の横浜に移転しました。そして能登の總持寺は別院という位置づけで、總持寺祖院と称され、往時の姿に再建されました。

 聖地なる由縁は、永平寺を開かれた道元禅師の時代は、まだ曹洞宗という名称は用いられていません。瑩山禅師が後醍醐天皇から「日本曹洞宗出世第一道場」の綸旨(りんじ)をいただき、以来曹洞宗の中心道場となりました。それというのも、瑩山禅師は能登に良港があることから、海上交通を利用して、曹洞宗の教えを全国に発信したのです。

 その元になったのは、本山の住職が短期間に交替し、寺院の発展・護持に努める「輪住制」です。多くのすぐれた僧侶に活躍の場を与える機会にもなりました。全国の僧侶が住職に指名されると、おつきの僧侶をはじめ、本山を維持するのに必要な人材、物資等と共に、船で本山に上りました。こうして、總持寺が横浜に移転するまでの570年余りにわたって、曹洞宗の教えは、能登より発展していきました。同時に能登は全国との交易が盛んになり、輪島塗などの文化も全国に広まったのです。

 さて、亡くなってから50年毎に、宗派を開かれた祖師などの功績を偲んで行う法要を遠忌と言います。そして瑩山禅師は、今年700回大遠忌に当たります。曹洞宗では全国を挙げて4月1日から21日まで、大本山總持寺で法要を営みます。よりによって50年に一度というときに、能登半島地震をどう受け止めたらいいのでしょう。

 瑩山禅師のお墓である祖廟・伝燈院は能登の總持寺祖院にあります。祖院では平成19年の地震でも甚大な被害があり、3年前に復興したばかりでした。この度も前回にも増して、大きな被害を受けました。しかし伝燈院は明治の大火でも、平成・令和の地震でも難を逃れました。瑩山禅師曰く「無常を観ずることを忘るべからず。是れ探道の心を励ますなり」。探道とは道を探すと書きます。無常なる自然は常に揺らいでいます。そのことを忘れずに心を励まし修行に打ち込むべしということでしょう。どんなことがあっても坐禅修行する時のように動じない大切さを伝燈院は訴えています。私たちは700年の教えの燈を受け伝えていかなければなりません。それは能登半島復興への道でもあります。
 
 ここでお知らせいたします。3月のカンボジアエコー募金は、1,136回×3円で3,408円でした。ありがとうございました。それでは又、4月21日よりお耳にかかりましょう。

【1306話】 「シッダールタ」 2024(令和6)年4月1日~10日

 お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第1306話です。

 「文殊丸」「行生」という2人の名前で、どなたかわかりますか。ヒントはどちらも曹洞宗に関わる方です。文殊丸は大本山永平寺を開かれた道元禅師、行生は大本山總持寺を開かれた瑩山禅師の幼名です。昔は幼い時に仮に名付ける名前や元服以前の名前を持つことがあったようです。

 さて、4月8日はお釈迦さまがお生まれになった日で降誕会(ごうたんえ)と言います。今から2500年ほど前の紀元前463年、現在のインド国境に近いヒマラヤ山脈の麓のカピラ国のシャカ族の国王スッドーダナとその妃マーヤーの間に生まれました。マーヤー妃は出産のため里帰りの途中、ルンビニの花園でお釈迦さまをお生みになりました。花咲き乱れる中で誕生したので、「花まつり」と称してお祝いされます。

 シャカ族では、王子となる男の子が生まれたので、国を挙げての祝福に包まれました。父である国王は、賢そうな王子を見て、国一番の占い師アシダ仙人に将来を占ってもらいます。すると「将来は全世界を支配する王となるか、無上の悟りを開かれる仏陀となられるでしょう」と告げられました。そして「シッダールタ」と名付けました。「目的を達成する者」という意味があります。因みに姓は「ゴータマ」です。「ゴータマ・シッダールタ」がお釈迦さまの幼名です。

 しかし現在ではお釈迦さまの幼名は、あまり馴染みがないかもしれません。無上の悟りを開かれてからは、シャカ族のお生まれなので「お釈迦さま」と親しみを込めて呼んでいます。正しくは「釈迦牟尼仏」と言います。「牟尼」とは「聖なる人」という意味です。または悟った人ということで「仏陀」ともお呼びします。私たち僧侶は、降誕会などの法要の時には、最尊最上の人類の師と仰いで「大恩教主本師釈迦牟尼仏」とお唱えします。

 文筆家の平川克美はこう言いました。「人生の中で 誰もが一度だけ詩人になると 聞いたことがあった 生まれてくる子どもの名前を考えるときである」。生まれくる者は誰でもその将来が明るく豊かで幸多かれと願われているはずです。その願いを言葉として詩のように凝縮して贈られるのが名前であるというのでしょう。

 お釈迦さまは、いただいた幼名の如く目的を達成されました。まさに悟りを開き人々を導かれました。お釈迦さまの言葉を詩のように綴られた『発句経』に次の一節があります。「ささやかなる 楽しみを棄てて 若し 大きなるたのしみを得んとせば かしこき人は 彼岸(さとり)の大楽をのぞみて 小さきたのしみを すてさるべし」。お釈迦さまがシャカ族の王子という地位を捨て求めた誠の幸せとは、地位や名誉やお金という「小さきたのしみ」ではなく、全世界の人の心の安らぎという「大楽」なのです。

 それでは又、4月11日よりお耳にかかりましょう。

 

【1305話】 「雪の行脚」 2024(令和6)年3月21日~31日

住職が語る法話を聴くことができます

 お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第1305話です。

 わが山元町は「東北の湘南」などと呼ばれることがあります。宮城県の最南端で太平洋に面しています。温暖で大きな台風もほとんどありません。積雪は年数回程度で、いちごやりんごが名産です。しかし、町の東側約12キロはすべて沿岸部です。それが災いし、東日本大震災の大津波は町の40%を襲い、甚大な被害をもたらしました。以来「東北の湘南」とは言い難くなりました。

 637人の犠牲者の霊を追悼すべく、3月6日に青年僧侶と共に慰霊行脚をしました。なんとその日は雪に見舞われました。「東北の湘南」を自負する者にとって、よりによってこの日に降らなくてもいいではないかと、天を恨みたくなる気持ちでした。しかし、元旦に発生した能登半島地震を思えば、自然界の無常なる振る舞いは、誰に忖度をするわけでもなく、極めて自然な姿なのだと納得せざるを得ません。

 ともかく、大津波で本堂などすべてが流され、その後復興した徳本寺末寺の徳泉寺で、般若心経を唱えて出発です。ゴールは5キロ先の千年塔です。それは徳本寺の中浜墓地跡に建つ日本最大級の古代五輪塔の慰霊塔です。中浜墓地も津波で壊滅状態になり現在は移転しました。途中防潮堤を兼ねた嵩上げ道路を通りました。あたりに民家はなくなり、広大な農地が見渡せます。しかし、その農地のそこかしこで、多数の犠牲者が発見されたのです。唱えるお経にも気持ちが入ります。

 行脚中に唱えるお経は、般若心経が一般的です。「摩訶般若波羅蜜多心経」が正式名称です。「波羅蜜多」とは「パーラミター」で「彼岸に到る」という意味です。彼岸とは悟った人が行くところです。その悟りの内容を般若心経は説いています。「五蘊皆空」すべてのものは空であると言っていますが、空は空っぽということではありません。固定した実体はなく全ては変わっていくものと捉えるべきです。まさに時が過ぎ、形あるものが少しずつ変化する無常のことを言います。

 その空や無常を、腹の底から納得しないと、つい愚痴がこぼれます。どうしてこんな時に雪が降るのと思いながら行脚しては、慰霊にはなりません。「心無罣礙」とらわれない心でひたすらにお経を唱え、歩かなければならないのです。その時「能除一切苦」よく一切の苦しみを除くことができるのです。もがき苦しみ犠牲になられた方へ少しでも慰めの心が届くと信じて行脚すれば、私自身も仏の道を歩んでいると実感できます。

 般若心経の最後は「羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶(ぎゃてい ぎゃてい はらぎゃてい はらそうぎゃてい ぼうじいそわか)」という呪文で結ばれます。意訳すれば「行こう 行こう 彼岸へ行こう 共に悟りの道を開こう」となります。行きつく彼岸は湘南のような気候のところでしょうか。いやいやそれにとらわれては、また自然に足を掬われてしまいます。暑さ寒さも彼岸から始まると心することも必要です。

それでは又、4月1日よりお耳にかかりましょう。

【1304話】 「震災忘れじ」 2024(令和6)年3月11日~20日

 お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第1304話です。

 私は11月生まれです。よく母は「お前が生まれた日は寒かったのよ。柿もまだなっていてね」と言っていました。当時は病院ではなく、自宅で産婆さんに取り上げてもらったとか。自分の生まれた時のことなど、誰かに教えられなければ、知る由もありません。

 東日本大震災発生から13年を迎えるにあたり、地元紙河北新報は小学6年生を対象に震災の認知度を調査しました。現在の6年生は震災時には生まれていなくて、その後間もなく誕生した子どもたちです。お母さんに聞かされていた話として、「私がおなかの中にいた時に地震が来たから避難がたいへんだった」とか「おなかの中にいる私とベビーカーに乗っている姉を必死に守ってくれた」などを挙げています。勿論、津波で人が流されたことや、水道や電気が止まって、たいへんだったことも間接的に語っています。

 調査では震災発生日を尋ねていますが、82.3%が「2011(平成23)年3月11日」と正解できたものの、17.7%の児童は正しい回答ではありませんでした。正答率の地域別比較では、沿岸部の方が内陸部より少しいいようです。直接被害を受けた沿岸部では、震災関連の行事や情報に触れる機会が多いからと思われます。そして、「震災について家族と話すことはあるか」という設問では、「ほとんどない」「たまにある」がともに40%で、「よくある」は10%に達していません。ただ、「よくある」とした児童の震災発生日の正答率は90.9%と高くなっています。身近なところからの情報は、子どもたちに影響を与えていることがわかります。

 さて冒頭で自宅でのお産の話をしましたが、少し前まではご法事も自宅で行うことが普通でした。当然子どももいるわけですが、当主は親戚やお客さんに気遣って、「子どもはうるさいから向こうに行っていなさい」というお宅もありました。確かに子どもにとっても、大人に取り囲まれて、訳の分からないお経を、おとなしく聞いていられないかもしれません。でも、子どもは法事という非日常の雰囲気の中で、妙に印象に残るものがあったりします。大袈裟に言えば生きる死ぬという人生の一端に触れるいい機会なのです。やがて自分が当主の立場になったとき、先祖に対して素直に手を合わせられるようになるはずです。その先祖はあなたかもしれません。

 そのように、震災のことも、次世代に語り継ぐ事が必要です。人間は忘れることが得意です。私も毎年3月11日をお互い忘れないよう震災法要を営み、そのための大きな立て看板を書き、思いを新たにしています。
〈忘れじと太き筆書き立看板 復興法要十一年目〉文明。 一昨年3月河北新報の歌壇に掲載していただいた歌です。看板倒れとならぬように、これからも震災を忘れず精進いたします。

 ここでお知らせいたします。2月のカンボジアエコー募金は、1,207回×3円で3,621円でした。ありがとうございました。
 それでは又、3月21日よりお耳にかかりましょう。

【1303話】 「往生際」 2024(令和6)年3月1日~10日

住職が語る法話を聴くことができます

 お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第1303話です。

 「畳の上で死ぬ」とは、事故などではなく、家で穏やかに死ぬことを言います。更に長生きであれば、「畳の上で大往生」となります。そして、いくら長生きをしても、事故や災害で亡くなった方に、大往生とは言い難いものです。

 東日本大震災の時、私は217人の檀家さんをお見送りしまた。5歳から96歳まで年齢は様々ですが、死亡年月日と死亡原因は、みなさん同じです。震災関連死の数人を除いて、等しく平成23年3月11日午後4時頃、溺死と、遺体検案書には記されていました。つまり大津波に飲み込まれての最期だったのです。ある女性は、沿岸部の自宅で被災し、遺体が発見されたのは、地元の山元町から100キロ以上も離れた、福島県いわき市の塩屋崎沖でした。引き波で海に運ばれ、そこまで流されたのです。震災1カ月後に発見されていたものの、身元不明扱いでした。DNA型鑑定の結果、本人確認ができたのは約半年後でした。13年経った今も行方不明者は9人います。みなさん「畳の上」とは程遠いところで、無念の死を迎えたのです。

 また、1月30日時点での能登半島地震の死者238人のうち、関連死などを除く、222人の遺体の死因が発表されました。「圧死」が92人、「窒息・呼吸不全」が49人、「低体温症・凍死」が32人、「外傷性ショック等」が28人、他に輪島市の大火による「焼死」が3人、「原因不明等」が18人です。死因も死亡日時も一定ではありません。特に「低体温症」とされた中には、建物倒壊後もしばらくは生きていたとみられる人もいました。救助が間に合えば助かったはずです。もしそこが「畳の上」だったとしたら、何という理不尽で非情なことでしょう。

 さて「往生」とは、往復切符の「往」つまり「往く」と「生まれる」と書き、この世を去って、他の世界に往って生まれる、つまり死ぬことをいいます。「極楽往生」なら、死ぬことの恐れはないでしょうか。しかし「立ち往生」となれば、手の施しようがなく、困った状態を意味します。往生は時にはあきらめることをも言います。突き詰めて言えば、私たちが生きていくという事は、ほんとうの往生の時が来るまで、往生際悪く、もがきながらも、あきらめず力を尽くす事なのでしょう。

 震災などで不慮の死を遂げた人の往生を思うとき、亡くなったとはいえ、その人が往った先は、私たちの心の中ではないでしょうか。そこに生まれているのです。つまり私たちは何年経とうがその人を忘れずに、又震災を風化させない往生際の悪さが、その人を生かし続けます。フランスの劇作家ガブリエル・マルセルは言いました。「人を愛するとは、その人に向かって『あなたは決して死なない』ということだ」。大切な人があなたの中で大往生できるまで、死なせてはなりません。

 ここでお知らせいたします。3月10日(日)午後2時徳本寺にて、大友憧山尺八コンサートと東日本大震災復興祈願並びに追悼法要を行います。どなたでも参加できます。

 それでは又、3月11日よりお耳にかかりましょう。

【第1302話】 「奇跡の救出」 2024(令和6)年2月21日~29日

 お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第1302話です。

 1年ほど前の昨年2月6日に、トルコ南部とシリア北部で大地震が発生しました。1回目は午前4時17分にマグニチュード7.8で、2回目は同じ日の午後1時24分にマグニチュード7.5の地震でした。両国の死者は4万1千人を超えました。そのような中で、日本の救助隊が派遣されているトルコの現場で6歳の女の子が救出されました。日本の医師の診察で無事が確認されたのです。何と地震発生から130時間後の救出でした。現場では拍手が沸いたそうです。

 その後も地震現場では、10日も過ぎてからも、248時間後に17歳の女性、258時間後に48歳の女性、260時間後には12歳の少年が救出されています。大災害などに遭った場合、「発生後72時間」が経つと、生存率が急低下するといわれています。たとえ無事な身体であっても、瓦礫の下敷きとなり、全く外部との連絡が途絶えて、3日間を耐え忍ぶのは至難なことです。昼の間は捜索隊が来るかもしれないと希望を持てたとしても、夜になれば不安と絶望にさいなまれます。そんなことを1週間も10日間も絶えられたのは、ほんとうに奇跡としか言いようがありません。

 さて、1月1日に発生した能登半島地震でも奇跡はありました。石川県珠洲市で発生後124時間後の6日の夜、4時間がかりで救出された女性は93歳でした。自宅の1階部分が崩れ、左足首が梁と畳に挟まれて身動きが取れない状態でした。救出されたときは、はっきりと受け答えができたそうです。発生後の救出活動は、雨やひょうで一時中断するなど、難航していました。93歳の女性は、崩れた家の中で寒さ痛さ不安をどのようにして耐えたのでしょうか。

 失礼ながら年齢を考えれば、肉体的な限界はとうに超えていたと思われます。奇跡を呼んだのは強い心の支え、たとえば家族であったり、あるいは信仰心かもしれません。普段から何かを信じるという生き方をしていれば、少々のことには動じない胆力が具わるはずです。助かると信じ絶望せず諦めない気持ちです。敢えて、キリスト教の修道士の言葉を紹介します。「信仰は、困難と病気を治すのではなく、それを乗り越える力を与えてくれる」

 93歳の女性は残念ながら、救出から約1カ月後の今月8日病院で亡くなられました。左足の切断手術も考えられたのですが、高齢のため見送られたということです。その息子さんはこう言っています。「救出後、会話もでき、布団の上で最期を迎えられたのは救いだった。救出してくれた方には感謝の気持ちです」

 地震と言う無常なる出来事の中で、無常を生き抜いた人間の命の計り知れない底力に胸打たれます。「死と同じように避けられないものがある。それは生きることだ」チャップリンの言葉です。

 それでは又、3月1日よりお耳にかかりましょう

【第1301話】 「逃亡の果てに」 2024(令和6)年2月11日~20日

 お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第1301話です。

 子どもの頃かくれんぼで、すぐに見つからないよう工夫しました。かといって、いつまでも見つからないと、自分一人置いてきぼりになったのではと、不安になるものでした。

 この人は隠れていたと言えるのかどうか。ともかく見つからなかったのです。しかも49年間もです。1974、75年に起きた連続企業爆破事件の桐島聡容疑者です。東京などで9カ月間に12カ所のゼネコンなどに相次いで爆発物が仕掛けられました。死傷者も多数出て、世の中を震撼とさせました。これまで警視庁は過激派集団メンバーの9人を逮捕、2人は国際手配中です。桐島容疑者も当初から全国に指名手配されていました。その手配写真は、駅や郵便局でよく見かけました。

 1月25日神奈川県の病院に末期がんで入院していた男が、「自分は桐島聡だ」と名乗ったと言います。しかし、その4日後の29日に死亡しました。わずかの間の事情聴取やDNA鑑定で、本人と特定するに矛盾はないとの結論に至りました。

 事件後は「内田洋」の偽名を使い、川崎市内で日雇いの仕事や、藤沢市の土木会社に住み込みでの働きが、入院するまで約40年間続きました。他のメンバーとは接触せず、ずっとひとり暮らしでした。事件のことは後悔していたようで、「最期は『桐島聡』で死にたい」と話したそうです。すでに70歳にもなり、死を目前にして、本来の自分に戻りたかったのでしょうか。隠れて見つからない間は、怯えはあっても安らぎはないはずです。人を欺き自分を偽る生活から解放されて初めて、真の安らぎはあります。

 さて、お釈迦さまは今から2500年前の2月15日に亡くなられました。そしてお釈迦さまは臨終に際し最期の説法をなさいます。その中で次のようにお示しです。「瞋恚(しんい)の害は即ち、諸(もろもろ)の善法を破り、好名聞を壊(え)す。今世後世(こんせごせ)の人、見んことを喜(ねが)わず。当に知るべし、瞋心(しんじん)は猛火(みょうか)よりも甚だし」(怒りの心を起こせば、これまでの功徳や名声もすべて台無しで、今の人も後の人も相手にはしない。怒りの炎は燃え盛る炎よりも激しく、一切の善事を亡ぼしてしまう)

 50年前に怒り狂って、自分勝手な正義を振りかざして社会へ挑戦し、「隠れ」続けた男は、今世後世の人に相手にされず、一人置いてきぼりになってしまいました。隠すべきは、平気で世を欺く心でしょう。お釈迦さまは「お隠れ」になって尚、そのみ教えで人々を導いて下さいます。曰く「忍の徳たること、持戒苦行も及ぶこと能わざる所なり」忍耐は戒を守ったり苦行するよりも徳があるとのお諭しです。長い逃亡生活を送るほどの忍耐が、50年前にあったらと思わずにはいられません。

 ここでお知らせいたします。1月のカンボジアエコー募金は、1,084回×3円で3,252円でした。ありがとうございました。

 それでは又、2月21日よりお耳にかかりましょう。

【第1300話】 「B級法話」 2024(令和6)年2月1日~10日

住職が語る法話を聴くことができます

 お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第1300話です。

 宮城県でいえば「気仙沼ホルモン」、お隣り福島県は「浪江焼そば」、山形県は「冷たい肉そば」など、いわゆるB級グルメは各地で花盛りです。高級な食材で一流のサービスで提供されるA級グルメに対して、地元に人気があり、安くて庶民的な美味しい料理をB級グルメと称しています。

 ということでいえば、このテレホン法話もB級法話でしょうか。勿論法話にA級やB級の区別はありません。ただテレホン法話は、かしこまって聴いていただくような内容ではなく、短くて庶民的な面白い法話という意味でのB級法話です。

 その気軽さ故か、この度の法話で1300話になりました。昭和62年12月に前住職から、突然やってみなさいと無茶振りされたのが始まりです。以来37年間10日に一度つまり、月3回の更新を休みなく続けてきました。これはひとえにお聴き下さっているみなさまのおかげです。始めたばかりの頃は、10日間で数回しか電話が鳴りませんでした。少しずつ回数が増え、数十回になり、現在は数百回を数えます。年間では1万3千回を超えるまでになりました。

 さて、映画「独裁者」「ライムライト」「モダン・タイムス」などを手がけたチャップリンは、「あなたの最高傑作は?」と聞かれると、常に「次回作だ」と答えたと言います。一般的には毎回最高傑作を発表しているように思えますが、本人にとっては、次はもっとすごいものを世に出すのだという強い決意と並々ならぬ自信があったからなのでしょう。その上で「完璧以外に正しいものはない」というほどの完璧主義者でした。それほどの人でも、常に最高傑作には至っていないというのですから、恐れ入ります。

 私も「1300話のテレホン法話の中で最高傑作はどれですか」と聞かれたら、「次回作です」と言いたいところですが、まさかです。傑作云々はともかく、次回作を意識できないのです。一話終わるとまっさらになって何も残っていません。それほど余裕がないからです。裏金も中抜きもなく、正真正銘、法話の貯えがないのです。次の10日まで自分の命も含めて、世の中どうなるかわかりません。今回のテレホン法話を精一杯勤める、ただそれだけです。

 「吾れ常に此に於いて切なり」という禅の言葉があります。常に自分を無にして、今ここを精一杯生きるということです。切とは大切の切で、ひたすらなさまをいいます。それほど高い志を以ってテレホン法話を続けて来たわけではありませんが、余裕がないということは、何とか一言半句を絞り出そうと努力はします。余裕がないからこそ、切なる機会を与えられているのかもしれません。そしてB級グルメのように、みなさんに親しんいただけるB級法話をこれからも目指してまいります。B級にはもう一つの意味があって、それは私の名前「文明」のBです。

 それでは又、2月11日よりお耳にかかりましょう。

【第1299話】 「恩送り」 2024(令和6)年1月21日~31日

住職が語る法話を聴くことができます

 お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第1299話です。

 「恩返し」の恩という字は、原因の因に心と書きます。因は「くにがまえ」が布団で、中の「大」という字は人を表わしています。大きな布団を敷いて、大の字に乗ることを示しています。よって恩という字は恵みを与えて、ありがたい印象を心にしるしたということです。

 能登半島地震の被災者は、寒さの中、避難所で不安と不自由な暮らしを余儀なくされています。せめてふかふかの布団を敷いて、大の字に寝ることができたらと思わずにはいられません。そんなことができるお手伝いにということで、全国からボランティアが集まっています。特に、神戸や宮城県から派遣されたボランティアは、自分たちが震災で辛い思いをしたときに、全国の方から支援していただいたので、その恩返しの気持ちも込めてと能登に向かっています。

 そして阪神・淡路大震災発生から29年となった1月17日、神戸市中央区の公園には、約7千本の竹燈籠などに灯がともされ、「1995 ともに 1.17」の文字が作られました。発生の日付に加えて「ともに」いう文字は、一人ではない、ともに助け合おうという能登のみなさんへのメッセージでもありました。

 神戸も宮城も震災からの復興は、険しい道のりでした。しかし5年10年という歳月をかけて辛さに耐え、悲しみを乗り越えてきました。それもこれも自分たちだけの力では叶わないことでした。見ず知らずの方も含めて、実に多くの方々が手を差し伸べ、励ましの声をかけてくださいました。そのおかげでここまでたどり着くことができたのです。まさに「ともに」の有り難さです。

 たとえば、徳本寺もその末寺の徳泉寺も海のそばに墓地がありました。大津波で墓石がなぎ倒され、骨堂が抉られ、遺骨は流出して、墓地全体が砂に埋もれてしまいました。その砂の掻き出しに汗を流してくださったのは、神戸の方々でした。私も神戸に震災の炊き出しで伺ったことはあるものの、当時からすれば15・6年も前のことです。直接お会いしている人などはほとんどいません。ただ、被災した人はその辛さや支援の有り難さが身に染みています。だから、よそで起きた災害でも、我がこととして捉えることができるのです。

 世間には「恩送り」という言葉があるそうです。人から受けた恩に報いる「恩返し」よりは、少し広い意味があるようです。作家の井上ひさしさんは次のように書いています。「誰かから受けた恩を、直接その人に返すのではなく、別の人に送る。その送られた人がさらに別の人に渡す。そうして、『恩』が世の中をぐるぐる回っていく」

 神戸から宮城へ、そして能登へと、被災者のみなさんが暖かい布団の上で大の字に寝そべられる日が、1日も早く訪れますように、みなさんのできる範囲で恩送りをしましょう。さあ「スイッチON(恩)!」

 それでは又、2月1日よりお耳にかかりましょう。

【第1298話】 「希望という一里塚」 2024(令和6)年1月11日~20日

 お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第1298話です。

 「路面には農機具や洗濯機、おせち料理用に用意されたと思われる重箱も散乱していた」この新聞記事が、この度の能登半島地震の非情さを象徴しています。地震や災害が頻発する我が国において、いつどこで起きても不思議はないと誰もが思っています。同時に誰もがここではなく、今ではないことを願っています。それは全く人間の都合であり、自然の営みは、時ところを選びません。

 それにしても、年が明けて16時間10分後のお正月気分のさなかに、最大震度7の地震が起き、津波が襲ってくるとは、神も仏も与り知らぬことでしょう。普通は正月早々縁起でもないことは、口に出す事さえ憚られます。初夢を見る前に悪夢以上の現実を見せつけられるとは、かける言葉がありません。

 東日本大震災の時は、「想定外」という言葉が使われました。確かに人知を超えた惨状でした。あの時も、路面には靴や人形、アルバムや通帳、自転車や農機具、自家用車など、ありとあらゆる日常生活を彩っていたものが、泥にまみれで散乱していました。当たり前に身につけ愛用し役に立っていたものが、一瞬にして瓦礫と呼ばれてしまったのです。

 能登の被災地では、正月ということもあり、帰省していた家族や、親戚の人が集まり、新年を祝うという当たり前のひと時を過ごしていたことでしょう。そこで被災してしまった人も少なくありません。日を追う毎に行方不明者が増えているのは、普段はそこに住んでない人の存在を、すぐには確定できないからかもしれません。「あけましておめでとう」と笑顔で挨拶を交わしてほどなく、団欒の場が暗転するとは、夢にも思わぬことです。

 さて、その昔の京都の正月、みんなが着飾って楽しそうに賑わっていました。その人込みの中、杖を持った薄汚い坊さんが、「御用心、御用心」と言って歩いていきます。杖の先にぶら下がっているものは、何と髑髏(しゃれこうべ)です。それに気づいた人は驚き「縁起でもない」と言って、見て見ぬふりをして遠ざかります。怯まず坊さんは言います。「正月だからと言って浮かれているではないぞ。やがては誰もがこうなるのだ。各々方用心なさるがよい」その坊さんこそ、あの一休さんです。「門松は 冥土の旅の 一里塚 めでたくもあり めでたくもなし」という歌を残しています。

 正月にしゃれこうべは一休さんの究極の皮肉ですが、無常の本質を伝えています。お正月に大震災は厳然たる事実で、無常非情の極みを刻印しました。諸行無常を英語では〈Everything is changing all the time〉、全てのものは常に変化し続けるということです。必ず変化できます。変化しなければなりません。どうか希望を捨てないでください。「希望とは 復興の旅の 一里塚 めでたき日々の 来ると信じて」

 ここでお知らせいたします。昨年12月のカンボジアエコー募金は、1,499回×3円で4,497円でした。ありがとうございました。それでは又、1月21日よりお耳にかかりましょう。