テレホン法話 一覧

【第848話】 「水を差す」  2011(平成23)年7月11日-20日

IMG_2609_1.jpg お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第848話です。
 我が山元町内にある中浜小学校は、その名の通り海岸から300メートルのところにあり、児童数59人です。東日本大震災が発生したとき、職員室のテレビは津波到達時刻を10分後と伝えていました。高台にある中学校への避難は間に合わないと判断し、校内の全員は屋上に避難することにしました。近所の人たちも加わり、90人が屋上に。第1波が浜辺の松をなぎ倒したのを見て、屋上にある屋根裏部屋に全員移動しました。更に巨大な第2波・3波と校舎の2階に達し、しぶきは屋上に降りました。そこで一夜を過ごし、翌朝自衛隊のヘリコプターで全員が救助されました。
 さて7月5日、被災地での放言が批判を浴びた松本龍復興・防災担当大臣は、就任わずか9日目で辞任しました。今回の復興大臣前に、震災当時は環境・防災担当大臣だったのでしょうが、その辞任の会見でこう述べています。「300日余りの大臣でしたけれども、環境と防災というたいへん大きな仕事を任された。それぞれ奇跡を見たり地獄を見たりした。石巻の大川小学校で手を合わせたりした。山元町の中浜小学校では孤立していた90人の児童を救えた。私も少しは役に立ったのかなとあのとき思って涙が出た」。
 まさに中浜小学校に自衛隊のヘリコプターを派遣するのに、当時の防災担当として陣頭指揮をしたのかもしれません。その同じ人が復興政策の責任者として被災地に来ておいて、自分を「お客様」呼ばわりして、「知恵を出さないやつは助けない」などと、まるで被災地の人々を切り捨てるかのような発言に、第4波の津波に襲われたかのようなやるせなさが募ります。
 もう一度、辞任会見を振り返るとこうも言っています。「一番お世話になったのは妻と子ども。感謝を申し上げたい」。確かにそうなのかもしれませんが、公人の発言とは思えません。そういうことは他人に聞かせることではなく、お家でゆっくり申し上げていいことでしょう。中浜小学校の屋上に避難した校長先生はじめ、教職員の方、近所の方、誰もが子どもたちを守ろうと必死で恐怖と闘っていたはずです。他にも今回の震災で、多くの方が自分や家族を顧みず、他の人のためにと献身的な働きをしています。
 お釈迦さまの言葉「法句経」に「おろかびとは この世間(よ)に溺るれど 心あるものには いかなる執着(まよい)もあるなし」とあります。津波のしぶき一滴も受けずとも、大臣という世間的な波に溺れたかのような発言でした。そして、津波でずぶぬれになりながら、心ある人は迷わず、自分も他人もなく手を差し伸べています。大臣の辞任如きで、これ以上復興に水を差ささないでもらいたいのです。被災地は十分に水浸しになっているのですから。
 ここでご報告致します。6月のカンボジア・エコー募金は、261回×3円で783円でした。ありがとうございました。
 それでは又、7月21日よりお耳にかかりましょう。

【第847話】 「夏草や」  2011(平成23)年7月1日-10日

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 お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第847話です。
 平泉が国内で16件目の世界遺産に登録されました。平安時代末期以降に奥州藤原氏が建立した中尊寺や浄土庭園がある毛越寺(もうつうじ)などが、浄土の世界を現世に表現したものとして評価されました。11世紀東北地方では、戦乱が続き多くの命が失われました。初代清衡はその魂が、仏が住むという浄土に導かれるようにという願いを込めて、中尊寺金色堂を建てたといわれています。東日本大震災が発生したこのタイミングで、平泉が世界遺産に決まったことは、みちのくの復興の足がかりとなることを期待されてのこととも思えます。
 この度の大震災では、我が山元町でも死亡・行方不明者数は700名を超えています。その事実を目の当たりにし、平泉の世界遺産で復興という思いを汲むなら、多くの犠牲者の魂を浄土に導くために何かできないものかと願うものです。震災発生当時の惨状を見て、誰もが地獄のようだと思いました。しかし、そこを地獄にしては亡くなった人が浮かばれないではないかとも思いました。栄華を極めた藤原氏程の力がない者にとって、金色堂の建立は無理としても、鎮魂の心は千年の昔とも変わらないと信じています。
 震災から確実に時は流れました。ひと度は、瓦礫とヘドロに覆われた大地ながら、瓦礫の撤去も進み、大分緑の色が目につくようになりました。草が生えてきたのです。雑草などと言ったら叱られそうな、草の生命力のたくましさです。タンポポの花も見つけました。あの時は、田畑で作物を育てることができないばかりか、草一本生えないのではないかとさえ思ったことが嘘のようです。
 さて、お釈迦さまが何人かのお弟子さんと野の道を歩いておられた時のことです。花が咲いている丘に立たれたお釈迦さまは、足元を指さしておっしゃいました。「ここにお寺を建てるがよい」。するとお伴をしていた帝釈天(お釈迦さまに帰依した仏法の守護神)が、一本の草を手折りお釈迦さまが指さされたところに挿し、「お寺が建ちました」と申されました。お釈迦さまは満足気に微笑まれたというのです。
 何がしかのお堂を建てて供養をすることは貴いことではあります。しかし、お釈迦さまが言わんとするところは、ここという時ここという処に、たとえ草一本でもそれを標(しるべ)として、まごころ込めて供養するなら、意は通じるということではないでしょうか。迷いに迷って、いつかどこかにと思っているだけでは、柱一本建てることはできないでしょう。
 今この時に、あの時の地獄のような大地から生えた草の緑は、金色堂に勝るとも劣らぬ眩しさがあります。一本の草でも十分に大伽藍に匹敵する存在感です。そこに挫けない命を感じるからです。そして私たちが今この時この処で迷わずに成すべきことを成し遂げ生きていくことが、この度犠牲になられた方への何よりの供養でしょう。そこが浄土です。―夏草や津波に負けぬ涙跡―
それでは又、7月11日よりお耳にかかりましょう。

【第846話】 「不動心」  2011(平成23)年6月21日-30日

201106210-2.jpg お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第846話です。
 阪神大震災はマグニチュード6・9、関東大震災は7・9でした。この度の東日本大震災は9・0です。今思っても、あの時はとても室内にいられる状況ではありませんでした。慌てて外に出たものの、何かにつかまらなければ立っていられない程でした。
 揺れが収まってから、おそるおそる徳本寺の本堂の中に足を踏み入れました。白壁が落ちて堂内は埃だらけでした。落ちそうなものはちゃんと落ち、傾くものは見事に傾いていました。特に須弥壇のところが悲惨でした。文殊菩薩像・普賢菩薩像や金蓮華・灯籠・位牌などが傾いたり、須弥壇から落ちて自らも怪我をし、他も傷つけるという有様です。しかし、不思議なことにご本尊のお釈迦さまだけは、1センチも動いていませんでした。
 もうひとつの住職地である徳泉寺は、海岸線から数百メートルのところに位置していました。真っ先に大津波に呑まれたようです。本堂も庫裡も建物ごと流され、中にあった仏像仏具あらゆるものの影も形もありません。残ったのはコンクリートの土台だけです。落ちるものも傾くものもなく、ただ気落ちし、心が傾くばかりでした。ところが、震災から24日経った4月3日に、徳泉寺のご本尊であるお釈迦さまが戻って来たのです。数キロ離れた田んぼにあった仏像を見つけた檀家さんが、届けて下さいました。台座や光背はありませんでしたが、ご本体が多少傷んだ程度で、その輝きも失せていませんでした。
 今1センチも動かなかったご本尊さまと、流れ流されても無事戻られたご本尊さまに日々手を合わせながら思っています。ご本尊さまは、こういう時だからこそ私を拝みなさいと仰っているのではないかと。ふたつの寺合わせて約200名の犠牲者がおり、家や田畑を失った方は何百軒にも及びます。混乱するなという方が無理です。しかし、世の中みんなで混乱していては、先が見えません。誰かが鎮めなければなりません。
 仏さまを拝むということは、救いを求めるということではありません。よく、どうか私たちをお守り下さいと言って手を合わせる方がいますが、自分は何もしないで、限られたお賽銭をあげただけで、願いだけは叶えてもらいたいというのは都合のいい話です。仏さまを拝むとは、仏さまの教えを学ぶということです。その教えのように生きていきますから、そんな私をお見守り下さいということなのです。「交通ルール守るあなたが守られる」と同じことです。
 揺れようが動かず、流されようが留まったご本尊さまは、無常の世にあって、不動の心の大切さを示して下さっています。それはどんな時も見失ってはならない「信じるという心」です。仏を信じ人を信じて、初めて自分を信じることができます。自分を信じる人はどっしりとして、うろたえません。今こそほんとうの不動心をマグニチュード9・0並みに、奮い起こすときです。
それでは又、7月1日よりお耳にかかりましょう。

【第845話】 「生きて花なれ」  2011(平成23)年6月11日-20日

 お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第845話です。20110611.jpg
 東日本大震災から3ヵ月が過ぎました。この間数え切れない犠牲者の方の葬儀をお勤め致しました。震災間もないころの葬儀では、喪服ではなく普段着で参列されている方もかなりいました。無理もありません。着の身着のままで、やっと命だけは助かったのですから。最近ではきちんと喪服を着ている方ばかりです。しかし、喪服を着ようが着まいが、これまでの葬儀とは少し違うところがあります。それは喪主の挨拶です。喪主の方が、男性であれ、女性であれ、年齢を問わず型通りではなく、その方しか言えない内容のご挨拶をなさいます。
 
 父を亡くした息子さんは「津波が来たとき、亡くなった父は庭にいました。家にいた私たちに大きな声で『津波だ、二階へ上がれ』と叫ぶ声に二階に上がると、二階から父が波に流されていくのが見えました。その時、父と目があったのです。父は何を言いたかったのでしょう」と涙しました。
 また夫と子どもを亡くした奥さんは「夫はいつも優しくしてくれました。家族は僕が守るからと、夜中に地震がある時など、私と子どもに覆いかぶさって危険を防いでくれました。その日も、地震後すぐに保育所に子どもを迎えに行き、私の職場や親戚の家を廻り、みんなの無事を確認して家に戻ったところを、津波に襲われたようです」と気丈に仰います。
 両親を亡くした息子さんは「地震があった時、すぐに電話をしました。家の前のマンホールが盛り上がって車が出せないと言う声。とにかく歩いて誰かに助けを求めるようにと言っているうちに、電話が切れてしましました。その時津波が来たのかもしれません」と、助けてあげられなかった無念さを語ります。
 奥さんと一緒に津波に流され、自分は何とか助かった檀那さんは「あの時、妻の手をもっとしっかりと握って離さなければ良かったのですが、どうしようもありませんでした。悔しいです」と落胆されます。
 どのご挨拶を聞いても胸が詰まり、言葉を失うばかりです。そんな中で救いは、どなたもが「いつまでもうつむいてばかりはいられません。前を向いて歩いていこうと思います」と結ばれることです。
 人は自分の思いを口に出し、誰かに聴いてもらうことにより、その境遇を納得できるのかもしれません。葬儀の後、喪主の方の表情が、それまでとは明らかに違って落ち着いて見えます。そして、無念の思いで亡くなった方が、生きていたら様々な花を咲かせただろうことに、思いを馳せているかのようです。その分、生きている私たちが、一時は瓦礫に覆われたこの大地に、再び花を咲かせようという気持ちになっていることが伝わってきます。「花が咲こうと咲くまいと 生きていることが花なんだ」(アントニオ猪木)
ここでご報告致します。5月のカンボジア・エコー募金は、274回×3円で822円でした。ありがとうございました。
それでは又、6月21日よりお耳にかかりましょう。

【第844話】 「天明から平成を観る」  2011(平成23)年6月1日-10日

 お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第844話です。20100601-02.jpg
 徳本寺は今からちょうど570年前の嘉吉元年(1441)に開かれましたが、現存する過去帳で一番古いのは、227年前の天明4年(1784)のものです。そしてこの年が年間の死者数が一番多いのです。314人を数えます。戦死者が多かった昭和20年でも201人ですからかなりの数と言えます。日本の近世史上では最大といわれる天明の大飢饉があった年です。
 
 天明3年に岩木山や浅間山が噴火し、各地に火山灰を降らせました。更に日射量の低下で冷害となり、壊滅的な被害をもたらしました。東北地方の農村を中心に、全国で数万人が餓死したと伝えられています。しかし、実数は1ケタ多い十万人単位の死者が出たようです。徳本寺の過去帳によれば、この天明4年の正月から毎月20人から50人を超える方が亡くなり、半年間で278人に上ります。その後の半年は、月数人の死者です。前半の半年はほんとうに異常な死者の数です。
 そして、今年平成23年の徳本寺の過去帳も、歴史に残るような異常さがあります。同じ命日の方が、百人を超えているということです。5月末現在で、3月11日を命日とする方は、113人です。東日本大震災の犠牲者の方々です。天明の飢饉の時でも、一日に何十人も亡くなっているということはありませんでした。それが、この度は一日というより、僅か数十分の間に、多くの命が失われたのです。全国で1万5千人を超え、我が山元町でも約670人の遺体が確認されています。ほとんどの方が、3月11日が命日となるのです。天明の飢饉の時は、毎日命日を迎える人が絶えなかったことでしょう。今回の大震災はその1日を、あまりに多くの方が同じく命日としなければならなかったという異常さを示しています。
 改めて思うことは、いつの時代にも、想像を絶するような惨状は繰り返されてきたということです。そして、誰もがそのことに納得できなかったはずです。それでも、227年前の天明の飢饉の惨状を今の私たちは想像もできないないほど、現在の繁栄を目の当たりにしてきました。地獄のような惨状をほんとうの地獄にすることはなく、少しずつ立ち直ってより豊かな故郷を先人は築いてきています。それは前に進もうとする気持ちがあったからなのでしょう。納得のいかないことを少しずつ受け容れることで、前に進む力が出ると信じます。
 3月11日の命日の方は、6月18日に斉しく「百か日」を迎えます。「百か日」は「卒哭忌」とも言います。「卒業」の「卒」に「慟哭」の「哭」と書きます。慟哭することを卒業する、悲しみが少しは和らぐという意味があります。天明の人々もその日を迎えたことでしょう。ここに至り、即刻卒哭忌」となるのが天命と信じて精進すれば、百年と言わずに復興の姿を描けるはずです。数え切れないご遺族の方々が、この日を揃ってひとつの節目のスタートにできることを切に願うものです。
それでは又、6月11日よりお耳にかかりましょう。

【第843話】 「まけない!タオル」  2011(平成23)年5月21日-31日

 お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第843話です。20110521_1.jpg
 日本語はおもしろいです。「まけない」といったら、みなさんは何を思うでしょうか。今なら東日本大震災に遭遇して、それでもこの悲惨な状況に負けずに生きていこうと誰もが思うことでしょう。その通りでが、首にタオルを巻く、巻けないの「まけない」という言葉もあります。ということで「まけない!タオル」なるものを発案した方がいます。
 山形県の曹洞宗松林寺住職三部義道さんは、大震災の被災地にいち早く乗り込んで、ボランティアの先駆として活動していました。そんな中で、普通のタオルよりちょっと短めで、青地に白抜きで「まけない!」と書いたタオルを考えました。首にも頭にも巻けない、だけど、大震災にも負けない、私は負けないという思いを込めたものです。おやじギャグと言うなかれ。ただ「負けない」と言っても、言葉だけでは説得力に欠けます。首に巻けないけど、私も負けないとそのタオルを手に持って、意を強くしていただきたいという願いがあります。このタオルの支援金で、被災地にタオルと炊き出し等の支援を直接届けることができます。被災された方と支援者をつなぐメッセージにもなります。
「頑張ろう」という言葉は、巷に溢れていますが、被災している方にとって、ギリギリのところで精一杯やっているのに、これ以上何をどう頑張ればいいのと思う方もいます。そこに「まけない!タオル」の案内が届きました。「頑張る」は「我を張る」が語源だそうですが、それよりは「負けない」には「自分はこれ以上へこたれないぞ」という緩やかな力強さが感じられます。迷わず賛同の意思表示をし、ついでながら、この運動のテーマソングもあった方が、より広がりが期待できるのではと、思いつきで書いた歌詞を三部さんに送りました。
 つながりはあるものです。この運動にいち早く賛同していた奈良県の浄土真宗教恩寺の尼僧さんでシンガーソングライターのやなせななさんが、この歌詞を見るや、24時間もしないうちに曲をつけて素敵な歌に仕上げて下さいました。
         ♪まけないぞ まけないぞ 首にも頭にも
           まけないタオル 半端じゃないぞ
           泥にまみれて 明日が見えなくなっても
           まけないタオルが 拭ってくれる
           ほら 笑顔と一緒に明日が来るのさ
           まけないぞ まけないぞ 夕陽にまけない
           紅い血潮が 流れている限り
 大津波に襲われた我が山元町も、空の青さを感じられるようになりました。ヘドロで黒々としていた大地も地肌が見えるようになりました。それに比例して、集められた瓦礫の山が日々高くなっていきます。これまで我々が頑張って築いてきたものが、これなのかと思うと、頑張るという言葉に、虚しさを覚えます。でも、命あって、身体中を流れている血潮を感じる時、ご先祖さまから「しっかりせよ」と言われているような気がします。今こそ、千年に一度の「なまけない」精進を致しましょう。
 それでは又、6月1日よりお耳にかかりましょう。

【第842話】 「仏の子」  2011(平成23)年5月11日-20日

 20110511-6.jpg お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第842話です。
 山元町を襲った東日本大震災の大津波は、ここまでも来るのかというところまで、その牙をむき出しにしました。海岸線から約1.5キロにあるその幼稚園は、駅にも近く普通の住宅地の中に位置していました。地震発生時の午後2時46分は、2台のバスで園児を送り届けようとする時でした。園児たちをバスに乗せたところで、津波が園庭に流れ込んできました。バスは津波に押されたものの、ブロック塀で止まりました。バスの天井近くまで濁流が達し、職員はドアを開け、次々園児をバスの屋根に上げました。しかし、8人の園児と1人の職員が犠牲になりました。
 「娘は僅か1,716日生きただけで大津波の犠牲になってしましました」。その幼稚園の送迎バスで4歳の愛娘を失った父親は葬儀で泣きながらそう挨拶をしました。娘さんにとっては、幼稚園はとても楽しいところ、送迎バスの中だって同じくらい楽しい時間だったはずです。そんなところに津波が襲ってこようとは、子どもたちは勿論、大人も誰一人として想像だにしなかったでしょう。
 またその母親は、葬儀の前に寺に来られ、「娘はまだ右も左も判らないままで亡くなってしまいました。ひとりであの世に行っても大丈夫でしょうか」と問いかけてきました。「大丈夫ですよ。仏さまに導かれて行くのですから、あちらのことは仏さまにお任せしましょう」と、答えるのが精一杯でした。両親は、なにも判らない我が子だから、どんなときにも付き添っていなければならない。それができなかったばかりに、災難から逃れることができなかったという思いもあったのでしょう。しかし、今回ばかりは、その大人の想定をも超えた自然の猛威としか言いようがありません。
 さて、仏さまの世界では、右も左も判らない子どもこそが、最初に仏さまになることができるような気がします。右や左が判るばかりに、仏さまから何か言われても、比較をして判断に迷いができたり、自分の都合を優先して、素直に聞き入れることができないということもあります。私たちがこの度の津波に際し、いささかの知識があって、まさかここまでは来ないと思い込んでいた節があったように・・・。ところが子どもは何も判らなくても、聞く耳は優れています。素直にそのまま聞くから、迷うことはありません。
 「子どもは3歳までの可愛さで一生分の親孝行をする」といった人がいます。迷いなく素直だからこその可愛さなのでしょう。1,700日余りで亡くなった子どもは、迷いなく可愛い盛りだったことでしょう。これからは更にずっと迷いのない仏の子になるのです。その仏の子を拝むことで、親も迷いが少なくなり仏の道に導かれるとすれば、それは亡き子どもの親孝行とは言えないでしょうか。
 ここでご報告致します。4月のカンボジア・エコー募金は、400回×3円で1,200円でした。ありがとうございました。
それでは又、5月21日よりお耳にかかりましょう。

【第841話】 「未練から大練へ」  2011(平成23)年5月1日-10日

2011.05.01.jpg お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第841話です。
 3月11日に被災し、犠牲になられた方の死亡診断書を見ると、ほとんどがその日の午後4時頃の死亡となっています。大津波が押し寄せ、一気に大勢の命を呑み込んだということなのでしょう。そして斉しく4月28日に「四十九日」を迎えました。私はこの49日の間、連日遺体安置所で、犠牲者の供養のお経をお勤め致しました。
 その場所は本来ならのどかな田園風景が見渡せるところです。しかし、大震災で景色は一変しました。黒いヘドロが広がり、家屋から車からありとあらゆる瓦礫が点在しています。この世のものとは思えないような光景を前に、足元には何十という柩が安置されています。私は今どこにいるのだろうという気になってしまします。勿論、ご遺族の方は、更に辛い思いでご遺体と向き合い、現実とは思えず放心状態です。かける言葉もなく、ひたすらにお経を挙げるのみでした。
 それは、亡き人に「仏」になって欲しいという一念からです。そして仏になった亡き人を拝む人にも「ほとけ」になっていただきたいからでもありました。曹洞宗を開かれた道元禅師さまは、『正法眼蔵』の「供養諸仏」の巻で、「仏さまを供養する功徳により『ほとけ』になるのである。いままでに一仏も供養申し上げたことのない人びとが、どうして『ほとけ』になることがありましょうか」と、述べておられます。仏を拝んで自らも「ほとけ」となるということですが、勿論簡単なことではありません。
 大津波の直前まで電話で話をした人、お昼まで一緒だった人、昨日たまたま家に帰って来た人、そういった方が、突然に思いもよらない災害に遭って、変わり果てた姿で目の前にいるとは、とても信じられるものではありません。世の無常を観じ、亡き人への未練が募るばかりです。しかし、いつかは愛しい人がこの世にいないことを納得しなければなりません。いつまでも「いたはずなのに」と居ない人を思っていても、それは夢を見ているに等しいことです。
 生命の誕生に7日周期があるように、亡くなった人も7日毎の節目の供養があり、それを7度過ごして7・7の49日となります。「四十九日」は特に大練忌と言われます。「大きい」と「熟練」の「練」と書き「大練忌」です。「大いに練れてきた」とは「納得した、悟った」と言ってもいいでしょう。辛いながらも亡くなったという事実を何とか受け容れる節目の日ということです。7日毎に仏を供養することで無常を我がこととして捉えることができます。未練の心も整理され、未練から大練へと心の立て直しに向かえるはずです。
 「無常そのものに人生があるのではなく、無常の受けとめ方にこそ人生はある」とは至言です。無常だからそれで終わりではなく、無常だからそこから始められるということを納得できた人こそ「ほとけ」ではないでしょうか。
 それでは又、5月11日よりお耳にかかりましょう。

【第840話】 「涅槃に流れて」 2011(平成23)年4月21日-30日

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 お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第840話です。
 それぞれの3月11日午後2時46分があったはずです。私は徳泉寺という寺の住職も兼務しております。その日はそこで檀家総会が、午後1時30分から本堂にて開かれました。月遅れの涅槃会を兼ねて、お釈迦さまが亡くなった時の様子を描いた涅槃図を掲げ、みんなで手を合わせてから会議を始め、2時30分過ぎには終了。一般檀信徒の方は家路に向かいました。役員さん方と残って後片づけをしている最中に、激震に襲われました。
 外に出ると墓石がいくつも倒れて、近くの家の屋根瓦が落ちているのが目に入りました。車のラジオから6メートルの津波が来るとの報道。その寺は海岸から僅か数百メートルのところにあります。途中になっていた後片づけなどをしている場合ではないという緊迫感はありました。でも掲げていた涅槃図をそのままにできないと思い本堂に戻り、外して桐箱に収めました。急ぎ徳本寺に帰りました。ほどなく想像を絶するような大津波が町を襲いました。
 幸い徳本寺は高いところにあるので難を逃れました。しかし、海のそばの徳泉寺は本堂も庫裡もお墓もすっかり流されて跡形もありません。周りの檀家さんの家屋もほとんど残っていません。松林もなく、すぐそこまで海が迫っています。あたりは砂浜になっています。頭上に広がる青空が恨めしいほどですが、涙も出ませんでした。あまりにもきれいさっぱりなくなって、喜怒哀楽を表わすことができなくなっていました。でも、気になったのは涅槃図です。
 その涅槃図は縦2,7メートル、横1,4メートルという大きな掛け軸です。仏画の修行をしている東京のNさんが精魂込めて描かれ、どこかのお寺に奉納して、みなさんに拝んでいただきたいと願われていました。縁あって平成20年に徳泉寺に奉納されたものです。以来毎年3月に月遅れの涅槃会に本堂に掲げて、檀家さんと手を合わせてきました。その涅槃図も流されたのです。それはお金を出せばまた手に入るというものではありません。この世にたった一つの、願われて徳泉寺に奉納されたものです。
 お寺がある限り百年も二百年もみなさんに拝まれたはずだったのに、僅か3年間で大津波に呑み込まれてしましました。Nさんにはたいへん申し訳なく、お詫びの手紙を認めました。するとNさんは事情を推し量って電話を下さいました。「私の絵のことは一切気にしないで下さい。あの絵は十分に役目を果たしたはずです。犠牲になられた方の命に較べたら、絵には価値などないに等しいものです。ただ涅槃とは死をも意味します。多くの犠牲者と一緒に流れてゆく運命にあったのかもしれません。住職さんはじめ更に多くの方の身代わりになったとも思っています。願わくは、あの涅槃図が犠牲となられた方に寄り添い、その霊を慰めてくれたら本望です」。ご自分の命に等しいはずの涅槃図が流されたことに対して、澄み渡った青空のように微塵のこだわりもないNさんのお声を聞いた時、私は今回の震災で初めて涙が流れました。そして50名を超える徳泉寺の檀家さんの犠牲者に対して、手を合わせました。
それでは又、5月1日よりお耳にかかりましょう。

【第839話】 「天にも地にも」 2011(平成23)年4月11日-20日

20110411_1.jpg お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第839話です。
 東日本大震災から1ヶ月が過ぎました。何事もなかったかのように春はやって来ているかのようです。空の青さが違います。でも、そのさわやかな空とは対照的に、変わり果てた大地の光景が広がっています。水溜りが点在し、集められた瓦礫の山ができています。そして、どす黒い地面の下から、多数のご遺体が発見されていますが、全員の安否が確認された訳ではないので、今後もご遺体が発見される可能性はあります。
 お檀家さんの中でも、多くの痛ましい命が津波の犠牲になりました。これまで100人以上のご遺体と向き合い、供養のお経を挙げてきました。6歳から92歳まで、年齢はさまざまですが、約半数は70代以上の高齢者です。震災発生が午後という時間帯だったので、お家にいた方なのでしょうか。いずれにしても、その命の重みは計り知れなく、一人ひとりの命はかけがえのないものです。犠牲者の中には、命の重みを知るが故に、他の命にも思いを馳せ、一命を落とした方もいます。
 民生委員のある女性は、いつも一人暮らしのお年寄りを尋ねていたので、その時も心配になり、急ぎ自転車で訪ねるのですが、その方角は海の方だったのです。津波は思ったより早く尊い命を呑み込んでしまいました。また、ある女性は、隣に住むやはり一人暮らしのお年寄りに避難の声を掛けているうちに、波に襲われてしまいました。地元消防団の青年も、人々を避難誘導していて逃げ遅れ、犠牲になっています。地震発生から津波が襲ってくる僅か3〜40分のうちに、人はどれだけ津波に対する想像力を働かせられたしょうか。
 それでも、人間の命に対する想像力は、何にも勝る尊いものです。4月8日はお釈迦さまのお生まれになった日でしたが、誕生の時にお唱えされた、「天上天下唯我独尊」という言葉があります。「天にも地にも私の命が一番尊い」ということです。勿論、うぬぼれで言ったことではありません。自分の命が一番大事なことはその通りです。それは誰もがそうなのだと想像できなければいけません。つまり、自分の命をいとおしむように、他の命に対しても心を寄せましょうということです。
 我が身を顧みず、他の命に手を差し伸べた勇気ある人は、ほかにもたくさんいたことでしょう。まさにそんな彼らこそが、「天にも地にも一番尊い命」と言うきでしょうか。天のお空はその一部始終をご覧になっていて、それを称えんがために、こんなにさわやかな春の空になっているかのようです。
 ここでご報告致します。3月のカンボジア・エコー募金は、150回×3円で450円でした。ありがとうございました。
 それでは又、4月21日よりお耳にかかりましょう。