テレホン法話 一覧

【第1098話】 「仏の遊び」 2018(平成30)年6月21日-30日

1098.JPG お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第1098話です。
 箱根駅伝でお馴染みの遊行寺坂をバスで登ってきました。神奈川県藤沢市にある時宗の総本山遊行寺こと無量光院清浄光寺の脇を通るので、その名が付いたのでしょう。先日檀家の皆さんとその遊行寺を参拝する機会があったのです。
 坂は約700メートルで高低差は36メートルほどあります。駅伝では15キロ以上も走ってきて、残り5キロのところに待ち受ける坂なので、選手にとってはたいへんな難所です。遊行寺という名前とは裏腹な感じです。
 さて、遊行寺の「遊ぶ」という漢字は、仏教ではちょっと深い意味があります。ただ遊び惚けるということではありません。決まったところに留まらず、何ものにもとわられず、仏の境地を楽しむことを「遊ぶ」と言います。
 時宗を開いた一遍上人は、鎌倉時代の方で、「往生はただ、"南無阿弥陀仏"によってなされる」と悟り、念仏信仰を極められました。そして諸国を遊行して、「踊り念仏」により、人々と念仏の歓びを分かち合ったのです。その総本山ということで、通称遊行寺として親しまれています。
 禅の世界にも「遊戯三昧(ゆげざんまい)」という言葉があります。「遊ぶ」と「戯れる」という字で「遊戯」といいます。字だけをみれば、ふざけて遊んでいるというふうに思われるでしょう。しかしその真意は、悟りを開いた修行者が、こだわりを捨て、思いのままにふるまうということです。凡人は好きな遊びならすぐに遊戯三昧の境地になることができます。しかし嫌いな仕事なら、どうでしょう。本来の遊戯三昧は、嫌いなことでも、やることそのものを楽しむということです。好きだ嫌いだというとらわれを超えて、仕事そのものを楽しむということができれば、理想です。
 その凡人の極めつけは映画の「フーテンの寅さん」でしょうか。遊行寺の次にお参りしたところは、寅さんの故郷葛飾柴又の帝釈天でした。遊行と言えるかどうか、寅さんは諸国を旅して歩くいわゆる的屋でした。女性に惚れっぽく、柴又の団子屋に戻ってきては、ひと騒動もふた騒動も起こし、また旅に出るという繰り返し。いつも自分都合の「遊戯三昧」でした。しかし、憎めない存在で、誰からも愛されました。好きな人を好きと言い、嫌いな人を嫌いと言い、一カ所に留まることを好まない生き方は、庶民からすれば憧れだったのでしょうか。凡人も極めれば、立派な遊行にも遊戯三昧にもなります。
 人生は旅に例えられます。駅伝の遊行寺坂のような難所もあれば、嫌いな人にも合わなければなりません。どんな状況でもそれを楽しむには、心にゆとりを持つことです。のハンドルにも遊びがあってこそ、思うように操作できると、寅次郎もそう言うことでしょう。
 それでは又、7月1日よりお耳にかかりましょう。

【第1097話】 「自分はできる「渡し守」」 2018(平成30)年6月11日-20日

1097.JPG お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第1097話です。
 昭和51年は「クロネコヤマトの宅急便」が、営業を開始した宅配業務元年です。しかし営業初日の注文はたった11個だったそうです。同じ年に昭和歌謡の名曲「矢切の渡し」が発表されました。最初はちあきなおみの「酒場川」のB面の曲だったので、あまり知られず、ヒットするまで6年の歳月を要しました。
 現代の宅配便をみれば、輸送革命を起こしたともいえるかもしれません。それと時代を同じくして歌われた「矢切の渡し」には、効率的で便利な宅配便の世の中になると予感して、情緒豊かな渡し舟という輸送手段に名残を惜しんでいるかのような響きがあります。どちらも世の中に浸透するまでには、多少の時間がかかりましたが、それは時代の変化を受け入れるまでの人々の気持ちの揺れだったのでしょうか。
 さて、先日曹洞宗婦人会東北管区研修会でお話をする機会がありました。曹洞宗婦人会には「会員の誓い」というのがあります。「おしみない心で どうぞさしあげます/やさしい笑顔で どうぞしっかり/幸せを祈って どうぞおさきに/手をとりあって どうぞごいっしょに/私は、今日も菩薩さまの願いに生きます」。つまり曹洞宗の4つ教えの「布施 愛語 利行 同事」の心です。
 そこで私は申し上げました。「私たちが無人島で一人で暮らしている状況なら、この4つの誓いはいらないでしょう。現実は好き嫌いにかかわらず、相手があって生きています。というよりは、人はひとりでは生きられません。多くの人や物に支えられ生かされて生きています。だから仏の教えに生きるものとして、私たちも支える立場になれる生き方がたいせつです」と言って、渡し舟の喩えを出しました。
 「矢切の渡し」にも渡し守と言われる船頭さんがいます。こんな歌があります。「人をのみ渡し渡して おのが身は 岸にのぼらぬ渡し守かな」。この「渡し守」的な生き方こそ、4つの誓いの実践と言えます。自分は仏にならずとも、他のみんなに仏になっていただきたいと願うそれこそが菩薩さまです。
 便利さの象徴ともいえる宅配便は、ご遺骨まで運んでくれるようになりました。ご遺骨を人に預けて平気でいられる、或いはご遺骨を託する人がいないという人にとっては、良いサービスかもしれません。しかし私たちは一人では生きられないのだから、お互いに血の通った支え合いということを今一度思い直してみなければなりません。その上でぬくもりのある「渡し」的な生き方を進んでいたしましょう。誰がやらなくても、自分はできます。「わたしもり」だから。
 ここでお知らせ致します。5月のカンボジア・エコー募金は、176回×3円で528円でした。ありがとうございました。
 それでは又、6月21日よりお耳にかかりましょう。

【第1096話】 「出過ぎた杭は」 2018(平成30)年6月1日-10日

1096.jpg お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第1096話です。
 「出る杭は打たれる」という諺に対して、「出過ぎた杭は打たれない」と言った人がいます。「出る杭」とは、目立った言動や余計なことすることのたとえです。なるほど、少しばかり出ている杭なら、邪魔だとばかりに打たれて沈められます。ところが、あまりに高く出過ぎた杭は、打つのもたいへんで、周りも諦めたり呆れたりして、打つことを止めてしまうということでしょうか。
 今のわが国を揺るがしているのは、嘘という「出る杭」です。森友学園・加計(かけ)学園問題で、政権や官僚の国会答弁に沿うようにと、様々な嘘を重ねています。ここまで嘘を言い張れば、みんな諦めて真実の追及もしなくなるだろう。まさに出過ぎた杭なら打たれないと言わんばかりです。
 ここ1-2年の間に、忖度しなければならないエライ人の答弁に合わせて、公文書を改ざんする、廃棄するという犯罪にも等しいことが、平気で行われてきました。「記憶の限りでは会った覚えがない」などと、あくまでも自分とは別に、「記憶という人物」でもいるかのように、記憶に嘘をつかせる姑息な保身術を駆使する始末。
 これだけ出過ぎた杭を毎日見せられて、世の中がおかしくならないわけがありません。そう思っていたら、日本大学のアメリカンフットボールの悪質タックル問題が勃発しました。関西学院大学との定期戦で、日大の選手がする必要のない悪質なタックルをして関学大の選手を負傷させました。このことが、スポーツ選手にあるまじき卑劣な行為として大きな問題になっています。
 それを受けて、当該の日大選手が単独記者会見を行い、謝罪をして真相を語りました。試合前の監督・コーチから受けたプレッシャーにより、「試合に出してやるから相手の選手を潰してこい」という指導をそのまま実行したということでした。一方、監督・コーチは、厳しい練習や叱責で選手を追い込んだことは認めても、反則や傷害を指示したつもりはないと言います。あくまで指導者と指導を受ける側の認識の乖離(かいり)があったという見解です。
 言った言わない指導を誤解していると、大人は出た杭をもっと出してしまおうとしています。永田町の出過ぎた杭に倣っているかのような姿勢です。加害者とはいえ、まだ20歳の選手は「少し考えれば、やったことは間違っていると前もって判断ができた。自分の意思に反することは、フットボールにかかわらず、するべきじゃないと思います」と潔く言いました。永田町も大学も自分の意思に反する杭を出しすぎるのは如何なものですか。「出過ぎた杭は打たれないが、引っこ抜かれる」というのが最近の諺です。
 ここでお知らせ致します。10年間のテレホン法話ライブを紙上再現した『月を流さず―和尚の語り草―』が出版されました。電話ではお伝え出来ない法話に因んだ写真も掲載された読みやすい本です。定価1500円。ご希望の方は徳本寺までお申し込みください。電話0223-38-0320です。ホームページからの場合はこちらをご覧ください。
 それでは又、6月11日よりお耳にかかりましょう。

【第1095話】 「二刀流」 2018(平成30)年5月21日-31日

1095.jpg お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第1095話です。
 投手で4番打者という野球の申し子のような2人の少年が、PL学園野球部で出会いました。そのひとり清原少年は、その場で投手になることを諦めました。相手の桑田少年の投球を見たからです。桑田少年は、清原少年の打撃には敵わないと思い、投手の道を進みます。そんな2人はプロ野球でも打者として、投手としてそれぞれ名を残しました。
 少年野球や高校野球の段階では、投手で4番打者は珍しくありません。しかし、プロ野球のレベルでは、打者と投手の両立は難しいでしょう。打者に専念しても、ホームラン1本を打つこともたいへんです。チーム全員が打者になれますが、投手はひとり。投げることに専念するのが得策です。
 今からちょうど100年前の1918年、大リーグのベーブ・ルースが、投手として13勝をあげ、11本塁打を放ちました。これは大リーグでも1シーズンで2桁勝利2桁本塁打を達成した唯一の記録です。大谷翔平選手はそれ以来となる記録を、日本のプロ野球デビュー2年目で打ち立てました。2014年日本ハム時代の、11勝10本塁打です。その後も投手としてプロ野球最速の165キロを記録したり、22本塁打を打つなど打者としての活躍も光りました。その実績をもって、今シーズンから、念願の大リーグに移籍し、エンゼルスの選手になりました。
 そして、投手と打者の「二刀流」旋風を巻き起こしています。シーズンが始まったばかりですが、5月17日現在、3勝1敗、6本塁打と野球の本場アメリカの野球通も舌を巻く活躍です。確かに、才能や恵まれた体格もあるでしょう。しかしそれだけでは、プロでは誰も挑戦していない二刀流で結果を残せるわけがありません。
 大谷選手の根底にあるのは、ゴロを打たせゴロを打たないという極めてシンプルな野球の原点です。ボールを投げるのも打つのも好きだという野球少年の喜びを常に忘れていません。素直に野球が好きだという一点なのでしょう。だから練習もやりたいと思ってやっているだけで、無理はしないが無休を貫く。つまり休まずトレーニングに打ち込むと言います。
 私たちは大人になるにつれて、分かったふりをすることが多くなります。勝手に限界を定めがちです。野球選手もプロに向かうにつれ、その想いを抱くことでしょう。勿論プロは一つのことを極めるのですから、簡単に何かを諦めている一般人のレベルとは違うでしょう。大谷選手は高校の野球の恩師に言われた「100%の力を出すためには、200%の準備をしろ」ということを心がけているそうです。しかし倍の練習をすれば二刀流になれるというものではありません。少年の時の素直に野球が好きになった、その素直さを日々極めていこうという姿勢が、二刀流たらしめているいる気がします。「素直な子 名を成す(スナオナコナオナス)」上から読んでも下から読んでも同じ回文ですが、内容は大谷選手そのもの。生涯野球の申し子であらんことを・・・。
 それでは又、6月1日よりお耳にかかりましょう。

【第1094話】 「万事を休息す」 2018(平成30)年5月11日-20日

1094.jpg お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第1094話です。
 正式な医学用語ではないそうですが、「5月病」という言葉があります。4月に進学・入学・転勤などで、大きく環境が変わった人は、懸命にそれに順応しようとします。しかし、大型連休で緊張の糸が切れてしまうのでしょうか。この時期いわゆる「5月病」といわれる、環境の変化に適応できずに、精神的に不安定になる人が増えます。
 人は5月ばかりではなく、常に精神的肉体的な負担となるストレスを抱え込んでいます。ストレス指数をご存知ですか。結婚もストレスで50という指数です。これを基準として数値が少ないのは、夫婦喧嘩48、引越し47、子どもの受験勉強46、定年退職44、長期休暇35などがあります。一方最大のものは配偶者の死83、以下会社の倒産74、親族の死73、離婚72、病気・怪我62、300万以上の借金61と続きます。
 バラ色の人生の象徴のような結婚も、十分にストレスの対象になっています。日頃休んでストレスを解消したいと誰でも思うでしょうが、長期休暇となれば、先行きに不安を感じてしまうのでしょうか。立派なストレスの数値が示されています。
 さて、私たち曹洞宗の教えの根本は坐禅です。曹洞宗を開かれた道元禅師は、坐禅を勧めるために著わされた『普勧坐禅儀(ふかんざぜんぎ)』の中で次のようにお示しです。「諸縁を放捨し、万事を休息して、善悪を思わず、是非を菅すること莫(なか)れ」あらゆる縁や付き合いなどすべてを手放し捨てて、あれやこれや思い煩う心の活動を休んでみなさい。物事の善し悪しといった相対的な分別からも離れなさい。要するに何もかも捨てきって捨てきって、捨てるという意識すら捨ててしまいなさいということでしょうか。たいへん厳しくも、究極のところを説いています。
 坐禅をすればみんな、そのような境地になれますかと問われれば、正直答えに窮します。まずは坐禅をしてみてください。勿論何かを求めるために坐るという、「ため」が入ってはだめです。ここにも「諸縁の放捨」と「万事の休息」が必要です。本来の坐禅の在り様に思いを致すと、これまたストレスになってしまいそうですが・・・。
 たとえば、「体」という漢字から「一」を取ると「休む」という漢字になります。それをある人がこう言いました。「体が疲れたら一息つくよね 息抜きが必要だから 『体』から『一』息抜いて 『休』むんだね」。一年中大人も子どももストレスで疲れています。ちょっとしがらみを置いて、一息ついて体を休めてください。少し落ち着いたら、坐禅を組んでみませんか。そこは、一息どころか、万事が休息できる世界です。
 ここでお知らせ致します。4月のカンボジア・エコー募金は、181回×3円で543円でした。ありがとうございました。
 それでは又、5月21日よりお耳にかかりましょう。

【第1093話】 「鉄人の心」 2018(平成30)年5月1日-10日

1093.jpg お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第1093話です。
 野球のデッドボールは和製英語だそうですが、日本語訳は死球です。なるほど打者のバットに当たらず体に当たったのでは、意味のない死んだボールに等しいかもしれません。また、当てられた方は死に至ることはないにしても、何がしかの危険が伴い、怖いボールというイメージが死球にはあります。
 4月23日71歳で亡くなった元プロ野球広島東洋カープの衣笠祥雄(きぬがさ・さちお)さんは、その死球が通算161個で、歴代3位の記録です。それほど死球を受けながらも、2215試合連続出場というプロ野球記録を樹立しています。けがも多く、「重傷」と診断されたものだけでも6度。それでも16年以上に亘って毎試合出場し続けたのです。
 1979年8月1日巨人戦で、西本投手から死球を受け、左の肩甲骨を骨折しました。しかし翌日の試合も休むことなく代打で登場しました。その時、衣笠選手は3球ともフルスイングしたものの、三振に倒れました。そして「1球目はファンのため、2球目は自分のため、3球目は西本君のためにフルスイングしました」と言いました。
 デッドボールは与えた投手の方も傷つくことがあります。例えば重傷を負わせて、打者生命を脅かすようなことがあったら、お互い悔いが残ることです。西本君のせいでバットが振れないなどということはないから安心してくれ、そんな思いでバットを振ったのでしょう。それは西本投手を生かし、自分を奮い立たせるスイングだったはずです。「鉄人」と言われた衣笠選手の強靭な肉体に隠された人一倍他を思いやる優しさでしょうか。否、優しさ以上の慈悲の心と言ってもいいかもしれません。
 衣笠選手の慈悲心から、お釈迦さまの次のような故事を思い起こしました。お釈迦さまは、80歳のお歳ながら、説法の旅を続けておられました。ある時チュンダという鍛冶屋に招かれ、茸料理の供養を受けます。その家を出た後、お釈迦さまは激しい腹痛に襲われます。「背中が痛む、座を敷いて欲しい」と願われ、木の下でお休みになりました。お釈迦さまは死を覚悟しながらも、チュンダの食事が災いしたと訝(いぶか)しむ弟子たちに告げました。「私の生涯の食事の中で、お悟りを開く前にいただいたスジャータの乳粥と、最後の食事となったチュンダのものは特別である。だから決してチュンダを責めることなく、むしろ大いなる功徳があると伝えてくれ」
 お釈迦さま亡き後を生きるチュンダには、悔恨の思いを持たせてはならないという計り知れない心遣いです。死に至るほどのチュンダの供養を生きた食事とみなされたのです。衣笠選手もデッドボールを生きたボールにしようとしてフルスイングしたのでしょう。ほんとうの鉄人とは、自分が一番辛いときにも、相手に辛い思いをかけたくないという心遣いができる人を言うのでしょう。心こそ鉄のように強靭であったればこそ、前人未到の連続試合出場記録を果たした衣笠さん、今はゆっくりお休みください。
 それでは又、5月11日よりお耳にかかりましょう。

【第1092話】 「値打ちのある長寿」 2018(平成30)年4月21日-30日

1092.JPG お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第1092話です。
 両親なしにこの世に生まれてきた人はいません。誰でも2人の親がいます。その親にもそれぞれ両親がいますので、4人の祖父母となります。その4人にも両親がいますから、曾祖父母は8人になります。こうして5代遡って先祖の数を合計すると、62人になります。
 さて、お檀家のとし子さんは、12人兄妹の一番上として生まれました。大正4年のことです。先月末104歳の天寿を全うされました。晩年の数年間は施設にお世話になりましたが、生涯を通じてかくしゃくたる人生を送ったことは、自他ともに認めるところです。魚よりも肉料理が好きだったとのことですが、それも長生きの要因だったのでしょうか。
 そのお葬儀には、大勢の方が参列されました。それもそのはずです。とし子さんは7人の子どもに恵まれました。そして、孫は14人、曾孫(ひまご)は28人です。更に玄孫(やしゃご)が2人です。直系の親族だけで51人になります。5代遡った先祖の合計は62人と言いましたが、直接出会える先祖はせいぜい10数人でしょう。とし子さんは4代先までの子孫51人を、その腕に抱くことができたのです。
 孫さんがいる方は想像してみてください。玄孫とは孫の孫を言います。その子に巡り合えるのは稀でしょう。葬儀の導師として長生きの方を何人もお見送りしましたが、玄孫に見送られた方は極わずかです。長生きだけでは実現できません。良い巡り合わせの循環があって、初めて叶うことです。
 遺族の方はおっしゃっていました。「母は今、とても安らかな表情をしています。まるで眠っているかのようですで、また目を開けて笑ってくれるのではないかと思えるほどです。それはきっと、母が自分の人生に満足していた証なのでしょう」。正真正銘の大往生を目の当たりにした思いです。
 「老いが死の恐怖を弱めるのは確かでしょう。それだけで長寿は値打ちがある」とは、学哲学者鶴見俊輔の言葉です。私たちは、数えきれない先祖の血や想いを受け継いでいると思えば、生きる意味も力も湧いてきます。更にとし子さんの場合は、自分の血や想いを受け継ぐ、多くの子孫の笑顔に囲まれて暮らしてきたのです。そのことの満足と、たとえ自分が亡くなっても、こんなに大勢の子孫につながり生かされていくんだという安心感があったのではないでしょうか。値打ちのある長寿です。
 「恋しくば おのが躰に触れてみよ かたみに残る母の温(ぬく)もり」とし子さんを拝むご遺族の方にとっては、合わせた手のぬくもりの中に、いつも104歳の人生が生き続けることでしょう。
 ここでお知らせ致します。10年間のテレホン法話ライブを紙上再現した『月を流さず―和尚の語り草―』が出版されました。電話ではお伝え出来ない法話に因んだ写真も掲載された読みやすい本です。定価1500円。ご希望の方は徳本寺までお申し込みください。電話0223-38-0320です。ホームページからの場合はこちらをご覧ください。
 それでは又、5月1日よりお耳にかかりましょう。

【第1091話】 「始める」 2018(平成30)年4月11日-20日

1091.jpg お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第1091話です。
 彼が子どもの時分、初めて自分で靴下を履いた時、両足で45分もかかりました。ほんとうに大変だった。大きな戦いだったと言います。現在32歳のカイル・メイナードさんです。冒険家ですが、両手足がないのです。
 カイルさんは、先天性四肢欠損症という体で生まれました。生まれながらにして、腕は肩から肘まで、足は付け根から膝までしかありません。靴下も親が履かせてあげた方が、ずっと簡単で時間もかからなかったでしょう。しかし、親も待つという辛抱を選んで、子どもには何事も自分でできるように育ててきました。
 小学校時代からフットボールチームに所属し、11歳からレスリングを始めています。チームメイトも対戦相手もみんな健常者です。高校1、2年生の時、レスリングの試合はすべて負けました。36試合連続で負けて、毎回震えるほど怖かったけれど、いつか勝ってやろうと、決して諦めませんでした。
 初めて勝って気づきます。勝負の決め手は自分に自信があるかどうかで、相手の資質の問題ではないということを。以来、高校3年生では連勝を収め、全米高校リーグで12位と躍進します。ウェイトリフティングでも記録を出すなど、健常者を凌ぐ実績を残しています。
 そして、2011年無謀ともいえる計画に挑戦します。アフリカ大陸最高峰キリマンジャロへの登頂です。5895メートルを登るためにチームが結成され、入念な準備と過酷なトレーニングをこなしていきます。手と足の部分がないカイルさんが山を登るには、二足歩行ではなく、水泳のクロールのようにして、地べた、急斜面を這いつくばっていくしかないのです。怪我もして、岩と氷河の壁とも戦いながら、登山開始9日目の2012年1月15日ついに山頂を制覇しました。
 カイルさんは言います。「できるようになる唯一の方法は、始めることだからね」。確かに宝くじも、買わなければ絶対に当たりません。頭の中であれこれ思い描いたり、悩んだりしていても、行動が伴わなければ、結果はついてきません。勿論始めたからには、結果が出るように、工夫努力を怠らないことです。
 カイルさんに較べて、靴下を掃くことひとつをとっても、私たちは何事も始めやすい境遇にあることでしょう。だからでしょうか、結果が出るまえに諦めて、また次のことを始めてしまいがちです。「できないという多くの原因は、できない時のけじめを考えずに始めているから」とも言えます。新しい季節、何か始めていますか。まじめに結果を目指しましょう。
 ここでお知らせ致します。3月のカンボジア・エコー募金は、211回×3円で633円でした。ありがとうございました。
 それでは又、4月21日よりお耳にかかりましょう。

【第1090話】 「高級ブランド」 2018(平成30)年4月1日-10日

1090.jpg お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第1090話です。
 自分の家畜と他人の家畜を間違えないように焼印を押すことを「ブランド」と言います。それから派生して銘柄・商標の意味になりました。現在では特に高級品として有名な商品の象徴として「ブランド」が使われています。
 イタリアの高級ブランドに「アルマーニ」というのがあります。東京・銀座の中央区立泰明小学校では、今春の新1年生からの「標準服」に、そのアルマーニを導入することになりました。標準服とは制服ではないが、着用が「望ましい」というものだそうです。
 一式で4万円を超え、現行の2倍以上。任意のバックやセーターなどを全てそろえると、8万円を超えるそうです。国会でも値段の高さが取り上げられたほどです。しかし校長先生は「本校の保護者であれば何とか出せるんじゃないかと思う」と言っています。どのような生活を営んでいる保護者を指して言うのでしょうか。何かハレの日におめかしをするのならともかく、老婆心で言えば、いつも高級ブランドを身にまとっていては、子どもらしくはしゃぐこともできない気がします。第一、小学1年生に高級ブランドの価値を、どの程度判断できるのでしょうか。
 さて、4月8日はお釈迦さまのお生まれになった日です。入学式と同じ時期であることと重ね合わせて、仏教徒としても、心を新たにする思いです。お釈迦さまは今から2500年程前に、釈迦族の王子として生まれました。母のマーヤ妃がお産のため実家に帰る途中、ルンビニーの花園で休息した時、そこでお生まれになりました。天の龍王が祝福の甘い香りの雨を降らせ、それでお釈迦さまが産湯につかったといわれています。お寺では花まつりと称して、花御堂を作り、誕生仏に甘い雨に因んだ甘茶をかけて、誕生をお祝いします。
 当然、誕生仏は裸のお姿です。右手で天を左手で地を指さし、「天上天下唯我独尊(てんじょうてんげゆいがどくそん)」と言われたとも伝えられています。この宇宙の中で、自分の命が一番大事であると同じように、すべての存在が尊いのだという宣言でもあります。
 人は誰でも生まれた時は裸です。成長と共に様々なものを身にまとっていきます。外見上の整え方は、ある程度簡単です。条件が許せば小学1年生からでも、高級ブランド品で着飾ることもできます。人はどうしてもその外見に囚われます。しかし、裸で生まれてきた自分を常に想像してみることです。そして自分ばかりではない、みんな裸だったと更に想像してみることです。そうすると一人ひとりの命が、くっきりと浮かび上がります。そして「天上天下唯我独尊」という宣言が、何にも勝る高級ブランドに思えてきます。
 それでは又、4月11日よりお耳にかかりましょう。

【第1089話】 「都合」 2018(平成30)年3月21日-31日

1089.jpg お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第1089話です。
 「あったことをないことにはできない。辛く悲しいことも、それを乗り越えてきたから、今日の日がある」。東日本大震災から丸7年の3月11日、徳本寺での復興祈願と追悼法要において、みなさんに申し上げたことです。確かに日常生活を営む上での環境はかなり整ってきました。しかし、個々人の復興の度合いは異なり、あの震災をないことにしたい、あの時からの人生を書き換えたいと思っている人もいたはずです。
 そんな中、翌日の3月12日日本中に大震災ならぬ激震が走りました。学校法人・森友学園の国有地取引に関する問題で、財務省は決裁文書の書き換えを認めたのです。内容的には、「書き換え」ではなく、立派な「公文書改ざん」ともいうべきものです。改ざんとは、文書を自分の都合のいいように改めかえることをいいます。その文書は14にも及び、登場する政治家は10人、首相夫人は5回も出てきます。
 約1年前からこの問題が、国会審議されてきました。しかし「文書は破棄した」という言い逃れの前に、真相の解明ができずにいたのです。その言い逃れの見事さを買われてか、当時の理財局長は、国税庁長官に栄転しました。しかし、その長官も書き換えを認める前に、辞任に追い込まれました。ひとり詰め腹を切らされた格好です。
 公文書改ざんは、歴史を人為的に書き換えることに等しいものです。人為的とは、勿論誰かの都合のためということでしょう。「あったことをなかったことにする」、或いは「なかったことをあったことにする」などということを、紙の上で作文するのは容易いことです。最後の一線を越えてしまったのです。国が管理する財産は、誰のものでもない我々国民一人一人のものです。そこに個人的な計らいや忖度の入る余地はありません。
 歴史には良い歴史も悪い歴史もあるでしょう。いずれにしても、あったことは消せないし、なかったことを加えることはできません。被災地に住む者は、大震災以降の歴史を書き換えたいという思いを、誰もが抱いています。仏教で自分の都合通りにいかないことを「苦」と言います。苦しみの7年間でした。そして、自分の都合通りにいかないこともあることを悟ったから、苦しみを転じて別の道を歩むことができました。
 なんでも自分の都合通りにしようとするのは、苦労せず安易に満足したいという傲慢な生き方そのものです。被災地から遠く離れた花の都霞が関には、そんな傲慢な人が、ごまんといるのでしょうか。そういえば、「都合」とは「都で合う」と書きますね。
 それでは又、4月1日よりお耳にかかりましょう。