テレホン法話 一覧

【第818話】 「暑さを許す」 2010(平成22)年9月11日-20日

20100911.jpg お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第818話です。
 ある若い女性からいただいた残暑お見舞いのはがきに「今年の果物はどれも甘さが抜群らしいです。たくさん食べて暑さを許してあげようと思います」と書いてありました。みなさんは何を以って、今年の暑さを許せますか。たいていの人は許せる何ものもなく、暑い暑いを連発して、その言葉が更に暑さを増幅させていたかもしれませんね。
 「心頭を滅却すれば火も自(おのずか)ら涼し」という禅語があります。もとは中国の漢詩の一節ですが、わが国で特に有名になったのは、甲斐の国の恵林寺(えりんじ)の快川禅師(かいせんぜんじ)によってです。戦国時代、武田信玄は快川禅師を恵林寺に迎え、篤く帰依していました。しかし、信玄没後、武田家は衰亡していきます。かねて快川禅師の徳風を慕っていた織田信長が、快川禅師を自分のところに礼を尽くして迎え入れようとしました。ところがにべもなく断られます。自尊心を傷つけられた信長は、恵林寺を焼き討ちにします。快川禅師以下一山の僧百余人が山門楼上に追い上げられ、四方より火攻めに遭います。そんな中にあっても、さすが快川禅師以下の禅僧は、覚悟を決め、泰然自若として坐禅をしていたと言います。このとき快川禅師が唱えたのが「心頭を滅却すれば火も自(おのずか)ら涼し」という一句です。
 この句の前に「安禅は必ずしも山水を須(もち)いず」という一節があるように、坐禅の境地を説いたものです。坐禅は特に涼しい山中や水辺を選ぶ必要はなく、日陰もない炎暑のところででも、心を無にすれば、暑さに煩わされることなく、火もまた涼しく感じることができるというのです。暑さ寒さは勿論のこと、あらゆる是非得失、恨み辛み、煩悩妄想などを断ち切って無心に徹するならば、艱難辛苦を厭わなくなるという、究極の無心の大切さを示しています。
 快川禅師はまさに炎熱の暑さを感じないばかりか、信長に対する「許しの心」さえ抱いていたのではないかと思われます。そして、信長はといえば、恵林寺焼き討ちの2ヶ月後の天正10年(1582)6月2日に、本能寺において、炎の中でまさに熱き生涯を終えました。その時信長は、快川禅師に心から許しを懇願していたかもしれません。
 火を涼しく感じられるような快川禅師の境地を、誰でも持ち得るものではありません。ただ、嫌なことを愚痴ってばかりいても何の解決にもなりません。私は今年の暑さを、この身を以って許してあげたい気持ちです。暑さを存分に感じられる命があってよかったと。「暑い暑いというは贅沢 冷たくなる身のことを思えば」。十分に贅沢な夏を過ごすことができて今は幸せと思えます。
 ここでご報告いたします。8月のカンボジア・エコー募金は、262回×3円で786円でした。ありがとうございました。
 それでは又、9月21日よりお耳にかかりましょう。

【第817話】 「監督の心を感得す」 2010(平成22)年9月1日-10日

 お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第817話です。20100901.jpg
 長嶋さんが巨人軍の監督時代の嘘のような話です。あるチャンスが巡って来た時、監督でベンチにいた長嶋さんは、選手に指示を出すよりも早く、自らバットを持ってグラウンドに出ようとしたとか。
 高校野球で長嶋さんのような監督はいないでしょう。第一、試合中監督はグラウンドに出ることを許されません。ベンチでサインを送るか、直接選手に伝えたいことがあっても、控えの選手を伝令として走らせるだけです。それでも高校野球では特に監督の存在は大きいといえます。試合に臨むまでにどのような指導をしてきたかが、如実に本番で現れることがあります。試合でグラウンドに出られない分、普段選手とどれだけ心を開いて、ふれあっているかということも大切なことです。
 今年の夏の甲子園、第92回全国高校野球選手権大会で優勝したのは、沖縄の興南高校でした。沖縄勢として悲願の初優勝であり、しかも史上6校目の春夏連覇という偉業も成し遂げたのです。その興南の我喜屋優(がきやまさる)監督は、今年の春の選抜大会で優勝した翌朝、満開の桜の下で、選手たちにこう語りかけたそうです。「この花も、散っちゃうよ」と。自分たちの野球でいえば、「花」は「優勝」ということでしょう。いつまでも優勝という花に浮かれてはいられない。花が散るように、その評価や名声もやがて薄らいでいく。しかし、根がしっかりしていれば、また花を咲かせることができる。花を支えるのは結局目に見えない根っこであることを説き、沖縄に帰ってもう一度始めようと、選手と共にその時すでに、夏の花を思い描いていたのでしょう。
 我喜屋監督は、寮で選手と寝食を共にし、靴の脱ぎ方から挨拶の仕方までを指導しているといいます。挨拶や人付き合い、毎日の練習は、嫌でも逃げても追いかけてくる。嫌なことにも意識しながら慣れて「逆境を友達にする力」を養えと教えます。そして、「野球に限らず、小さなことを見ようとしない人には、見落としがいっぱいある。小さいことに気づける人は、大きな仕事ができる」と、小さいことでも全力でやり、約束を守ることを徹底してきました。
 たとえば、散歩でたばこの吸い殻を見て見ないふりをする人は、「おれは関係ねえ」という気持ちが働き、試合でもサインを見落としたり、カバーリングを怠ったりするようになるという指摘は、私たちの日常生活にもすっかり当てはまると納得させられます。
 さて、私たちの毎日の中でも、あまりに当たり前すぎて、意識すらしていない小さなことがあります、それは呼吸です。この一息ができなくなったらすべてが終わりなんだと意識しながら、景色を見たり、仕事をすれば、すべてが輝いてくることでしょう。仏さまという監督は直接日常生活のグラウンドに降りることはできませんが、このテレホン法話という伝令を遣わして、そのことを伝えています。小さな一息もなければ、命の花が散ってしまうという、監督の心をまさに感得してみましょう。
 それでは又、9月11日よりお耳にかかりましょう。

【第816話】 「いつのまにかおらんよ」 2010(平成22)年8月21日-31日

 お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第816話です。20100821.jpg
 「神隠し」とは、子どもなどが急に行方不明になったとき、それは神や天狗などのしわざだということを言います。今わが国では、子どもならぬ100歳を超えた高齢者が、紙には書いてあるが、その存在が杳(よう)としてわからないという方が続出しています。
 事の始まりは7月末に判明した、東京都足立区で都内最高齢男性とされていた111歳の方が、実は32年前に亡くなっていたという事件でした。しかも、遺体は自宅にミイラ化して置かれたままです。そして、家族は本人が生きているかのようにして、年金などは受け取っていたといいます。戸籍など紙に書いた存在は隠さず、仏さまを隠すとは罰当りなことです。孫さんにあたる方は「祖父は30数年前に『即身成仏したい』と言い出し、部屋に引きこもった」と言っています。即身成仏を「永遠の命」と解釈するのは良しとしても、世間的な命、肉体的な命には限りがあると納得して、精一杯生きるのが真の仏の教えです。
 ともあれ、その後も113歳で都内最高齢とされていた杉並区の女性も所在がつかめませんでした。その方の79歳になる娘さんは、「母に最後に会ったのは20年以上も前のことで、以来一度も会っていない」という始末。如何に大都会とはいえ、20年も30年も親の存在を気にかけないで生きていけるものでしょうか。
 その後、全国的に100歳以上の不明者を調査したところ、少なくとも279人にのぼることがわかりました。大阪・京都・東京など大都市部に集中しており、東北や北陸などの26県は一人もいませんでした。公的機関では「死亡届」が提出されない限り、その生死は確認できません。まったくの一人暮らしならいざ知らず、家族と暮らしているのに、死亡していようが、行方不明になっていようが、「届け出」もなく、周りもわからないというのは、家庭や地域におけるつながりの希薄さを物語っています。
 「いつのまにか おらんように なるのがええ」この言葉は、今回の高齢者不明を予言した言葉ではありません。4年前に87歳で亡くなった文楽人形遣いで人間国宝の吉田玉男氏の言葉です。『曽根崎心中』の徳兵衛役が当たり役で、生涯1,136回務めました。理知的な動きの中に、秘めた情感や品良き色香を表現して、最高峰と謳われました。世間から一目も二目も置かれる存在でありながら、そっと誰にも気づかれずに消えゆくように最期を迎えたいということでしょうか。それは、成すべきことは悔いなく成し遂げたと、自他ともに認められた人生にして、はじめて発せられる言葉かもしれません。むしろ、存在感が際立ちます。
 死んでいるのか、生きているのか、どこにいるのかもわからないという人生に、悔いのないはずがありません。惜しまれつつ最期を迎えても、死んで尚、生きておわしますが如くに、せめて家族や知人に手を合わせていただけるなら本望でしょう。これまではそんなことを誰も疑わずに、豊かに年を重ねてきたのですが・・・。今やこんな思いは「神懸かり」的な言動でしょうか。
 それでは又、9月1日よりお耳にかかりましょう。

【第815話】 「お盆に思う子煩悩」 2010(平成22)年8月11日-20日

20100811-2.jpgお元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第815話です。
  お盆の謂われはこうです。お釈迦さまのお弟子に神通力に長けた目連という方がおりました。ある時目連は亡き母を神通力で探してみました。すると母は餓鬼道で痩せこけた姿で、喉の渇きと飢えに苦しんでいました。もはや目連の神通力でも救い出すことはできません。お釈迦さまに相談すると、雨季の間山にこもっている修行僧が、雨季が明ければ、里に下りてくるので、その時に大勢の修行僧を招き、お経を挙げていただきなさいと言われました。目連がその通りに実行すると、母を苦しみから救い出すことができました。目連の修行僧に供養した布施行と親孝行心が、日本の先祖供養と結びついて、現在のお盆に至っているといえます。
  さて、目連の母はどうして餓鬼道で苦しんでいたのでしょう。餓鬼道とは、あれもこれももっと欲しいという貪りの心の象徴的な世界を表わしています。目連の母は生前、自分勝手で他に施すことをせずに、我が子だけを可愛がったような人でした。確かにお釈迦さまの時代から、我が子だけを可愛がるなんて、決してほめられたものではありませんでした。しかし、現代では、我が子すら可愛がらない親が、日々「子ども虐待」を繰り返しています。
  福岡県の34歳になる母親は、余程きれい好きだったのか、自分の5歳になる長女を洗濯機に入れて回しました。長女は口も両手足もテープで縛られ、洗濯機に入れられました。水を入れてふたを閉めて、テープで開かないようにしてスイッチを入れたようです。それらの虐待が高じてとうとう我が子を殺害してしましました。
  大阪市の23歳の母親は余程過保護だったのか、子どもを外部と接触させないようにしました。玄関ドアに鍵をかけるだけでなく、玄関に通じる廊下のドアの縁に粘着テープを張って、部屋に閉じ込めて放置したのです。3歳の長女と1歳の長男は、約1カ月以上経って、腐敗や白骨化し一部ミイラ化した遺体となって発見されました。母親は「子どもなんかいなければいいのに」と思っていたといいます。実際子どもを置き去りにしたまま、自分は海水浴やクラブで酒を飲んだりして遊んでいたとか。曰(いわ)く、「離婚後1人で育児と仕事を抱えてストレスがたまり、現実から逃避したかった」。よその子までとは言わないまでも、せめて我が子ぐらいは、可愛がりすぎるほど可愛がって下さいと言いたいぐらいです。
 お盆は正式には「盂蘭盆(うらぼん)」といいます。インドの「ウランバーナ」という言葉の音訳です。「ウランバーナ」とは「逆さ吊りの苦しみ」という意味があります。昔は我が子だけを可愛がることを、逆しまな心と捉えました。今は我が子さえ可愛がることができない心のことを、言わなければならないのでしょうか。おにあたり、本来の「子悩」について考えてみたいものです。
 ここでご報告いたします。7月のカンボジア・エコー募金は、187回×3円で561円でした。ありがとうございました。
 それでは又、8月21日よりお耳にかかりましょう。

【第814話】 「寂しいお墓」 2010(平成22)年8月1日-10日

20100801.jpg お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第814話です。
 たいていのお墓は、墓石や灯籠など石でできたものです。その一つ一つに表情などあるはずもないのですが、見る人が見ると、お墓も何か語りかけてくることがあるようなのです。ある人は言いました。「ずらっと並んだお墓はどれも同じようですが、たまにとても寂しい感じのするお墓があります」。さて「寂しいお墓」とは、どんなお墓なのでしょう。
 連日真夏日が続いている今年の夏。その日の昼下がりも30度は優に超えた暑い日でした。一人の青年が寺に尋ねて来ました。箒とごみを入れる紙袋を貸してほしいと言います。遠くからある方のお墓参りに来たそうなのですが、あまりに草茫々で、ただお参りだけして帰るには忍びない。少しお墓の掃除をしていきたいとのことでした。聞けば、今から21年前に当時19歳という若さで、交通事故で亡くなったとある少年のお墓にお参りに来たのだそうです。自分は2つ下の後輩だが、生前良く面倒をみてもらっていたとか。
 19歳だった少年も元気でいれば、40歳になっているはずです。お参りに来た青年もそれに近い年齢です。亡くなって20年以上経っても、昔の仲間を偲んでお墓にお参りをするとは、生前の絆が偲ばれます。しかも、荒れているお墓を見かねて手を合わせる前に、お墓の草を取り、きれいにするという行いは、お線香何千本にも相当するお墓参りと言えるのではないでしょうか。
 一時間以上も経った頃、その青年は箒を返しに来て、お礼を言っていきました。炎天下にいたとは思えないほどの、とてもさわやかな表情でした。後日そのお墓の前を通ると、お墓はからっとしていて、きれいな花が手向けられていました。青年は汗を流しながら、一本一本草をむしり、箒で掃き清めながら、過ぎし日の20年を昔の少年に語りかけていたのかもしれません。
 「寂しいお墓」があるとして、もしかしてそれは草だけが賑やかに生えているところでしょうか。「生き生きとしたお墓」があるとして、そこはからっとして墓参りの足跡が賑やかについているところでしょうか。お墓の中にいる亡き人は、誰かにお参りをしてほしいと願っているはずです。勿論、毎日とは言わないまでも、草が生えたころにはそろそろお参りして欲しいという亡き人のメッセージと思って、お墓に足を運んでみてはいかがですか。誰ですか、「お墓に草は付きものですよ。だって、お墓のことを草葉の陰と言うでしょう」などとへ理屈をこねている人は。そんな心がくさったようなことを言うものではありません。お墓の草はなくさないといけません。炎天下の青年のお墓掃除は供養の原点、まさに「草分け」とも言えます。
 ここでご案内致します。この徳本寺テレホン法話をまとめた『僧が語る印笑的な話』という本を、一冊1,500円にて好評発売中です。一冊お求めいただくと、カンボジアの子どもたちに絵本を一冊プレゼントできます。ご希望の方は、電話0223-38-0320徳本寺までお申し込み下さい。送料無料にて、お届致します。
 それでは又、8月11日よりお耳にかかりましょう。
 

【第813話】 「占師パウル」 2010(平成22)年7月21日-31日

20100721-2.jpg お元気ですか。3分間心のティータイム。   徳本寺テレホン法話、その第813話です。
 人間は手足合わせて4本ですが、タコの足(実際は腕に相当するそうですが)は8本もあります。人間の倍もあることにあまり疑問も感じていませんでしたが、この度8本を納得させる出来事がありました。世界中を熱狂させたサッカーのワールドカップ南アフリカ大会でのことです。
 ドイツのオーバーハウゼン水族館のタコ「パウル」は、ワールドカップに出場したドイツ代表の勝敗をことごとく的中させました。パウルは試合前に水槽内で、両国の国旗を付け、好物の貝が入った二つの箱のうちどちらを選ぶかで、勝者を予言するというのです。ドイツの初戦からの5試合を勝ちと予言し的中させました。更に、準決勝ではドイツの負けを予言しその通りになりました。
 勝利の予言をしているときは、「タコ様様」ですが、負けたとたんに熱狂的なファンはタコに怒りをぶつけました。「フライパンで揚げてしまえ」「今晩は家でタコサラダだ」「サメの水槽に入れろ」等の中傷が飛び交いました。しかし、冷静なパウルはそんなことにはめげずに、3位決定戦でのドイツの勝利と決勝でのスペインの優勝を予言し、それも当ててしまったのです。「8戦外れなし」で、いまやパウルは世界的な占師になりました。
 そう、タコには元々占いの素養があったのかもしれません。易占いを「八卦置き」というように、8種類のしるしを立てて占いますが、タコはその8本足で「八卦置き」よろしく、占っていたのではないかとさえ思いたくなります。手足合わせても4本しかない人間などは、それこそ足元にも及ばない超能力があるかもしれません。
 そして人間ほど勝手な生き物はいません。特にファンともなれば、自分の贔屓のチームの勝ちが絶対です。熱狂的になればなるほど、「勝てば官軍負ければ賊軍」的な行動に出ることもあります。負けて悔しくない人はいないでしょうが、負けた時の態度にこそ、その人の人間性が出るものです。負けた悔しさを自分の中だけで完結できない人がいます。負けを予言したからと言って、「食べてやる」などと8本足のタコに八つ当たりしても、シャレにもなりません。
 達観したタコは言うかもしれません。「人生のほんとうの勝者は、勝負に勝ったものだけではないが、負けて自分を見失う者は敗者以外の何ものでもない。負けにこだわらず、負けたことを素直に認め、また新たに歩き出そうと思い直せる、タコのように柔軟な心を持つものが最後に笑うだろう。だから私は負けることも堂々と予言する。これがほんとうの『タコ足敗戦』だ」。この言葉、耳に胼胝(たこができるほど聴いて下さい。
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 それでは又、8月1日よりお耳にかかりましょう。

【第812話】 「番付表」 2010(平成22)年7月11日-20日

20100710-2.jpg お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第812話です。
 徳本寺の玄関には大相撲の番付表が額に入れて飾ってあります。今から14年前の平成8年名古屋場所のものです。当時幕内の前頭だった舞の海関からいただきました。横綱には貴乃花と曙の名前が載っています。大相撲の番付表をどうして玄関に飾るのかと言えば、強い力士の名前が並んでいるから、悪者が家の中に入れない又は悪者を退散させるという縁起を担いでのことです。おかげさまで、これまでのところ、善男善女の方ばかりが訪れて下さっています。
 時は移り、今年の名古屋場所の番付は異例です。大相撲の関係者が野球賭博に関わっていたという事実が判明したからです。番付編成は5月末に完了しているため、この度、賭博の疑いがもたれ処分された者の名前も番付に残ることになりました。十両以上の70人のうち、2割近い力士が土俵に上がれないという異常事態になっています。その者たちの名前が載っているのです。解雇された元大関や前親方などの名前もあります。
 再度言いますが、番付表は悪者が入ってこないという縁起物と言われています。その番付に野球賭博という悪いことをした者の名前があるのでは、縁起物の力が発揮できないではないですか。元々相撲取りは力士といわれ、相撲のことを角力とよんでいます。角力とは力比べをするということです。相撲取りが野球にうつつをぬかしてどうしようというのでしょう。相撲と野球では土俵が違います。力比べなど、到底できるものではありません。
 野球賭博をやるくらいなら、それぞれの力士がファンのみなさんに「俺の土俵を観て、俺の相撲に賭けてくれ。決して損はさせないから」と言うぐらいの心意気で、一番一番真剣に力の比べ合いをするべきでしょう。勿論、相撲で賭け事をしろというのではなく、勝負の勝ち負け以上に、まさに体を張った力のぶつかり合いを観せて、同じ人間でも力士ともなれば、ここまでできるのかという感動を与えるということです。
 解雇になった元大関も、大関昇進の時の口上はこうでした。「謹んでお受け致します。いかなるときも、力戦奮闘し、相撲道に精進致します」。相撲道というからには、人の行うべき道をはずれず、相撲の道を極めて行くことが求められます。そこで常人にはない力を発揮するからこそ、力士として一目置かれます。その力を活かせず、世間から煙たがられる相撲取りでは、まるで「スモーカー」ではないですか。その番付表は縁起物ならぬ禁縁起物になってしまいます。
 ここでご報告致します。6月のカンボジアエコー募金は、410回×3円で1,230円でした。               ありがとうございました。
尚、この徳本寺テレホン法話をまとめた『僧が語る印笑的な話』という本を、一冊1,500円にて好評発売中です。一冊お求めいただくと、カンボジアの子どもたちに絵本を一冊プレゼントできます。ご希望の方は、電話0223-38-0320徳本寺までお申し込み下さい。送料無料にて、お届致します。
 それでは又、7月21日よりお耳にかかりましょう。

【第811話】 「完全試合」 2010(平成22)年7月1日-10日

20100701-3.jpg お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第811話です。
 大リーグはさすがに大きいです。その歴史や規模は勿論ですが、心が大きいです。6月2日大リーグのタイガースのガララーガ投手は、インディアンズ戦で9回ツーアウトまで1人の走者も出さず、完全試合を続けていました。27人目の最後の打者も一塁ゴロになり、一塁手が補球し、ベースカバーに入ったガララーガ投手に送球。誰もがアウトを確信しました。しかし判定は「セーフ」でした。当然監督は抗議をしましたが、判定が覆ることはありませんでした。この時「完全試合」は幻となったのです。
 試合後、判定を下した一塁塁審のジョイス審判員はビデオを見て、自分の判定が誤りであったことを認め、完全試合を台無しにしたことを謝罪しました。当のガララーガ投手は「完全な人間はいないから」とジョイス審判員をかばったそうです。そして翌日の試合前に、ジョイス審判員のもとに歩み寄り、握手を交わしました。ジョイス審判員は涙が止まらなかったといいます。
 メディアは「世紀の誤審」「判定を覆すべきだ」などと批判し、ホワイトハウス報道官が「完全試合が認められることを求める」というコメントまで出す始末になりました。しかし、誤審の判定が覆ることはありませんでした。それどころか、審判や判定について、大リーグの100人の選手にアンケート調査をしたところ、「最も優れた審判」に、ジョイス審判員がトップで支持を得ました。その理由は「いつも公平な判定をしている」というこれまでの実績が認められたからです。そして「誰もがミスをする。今回は彼に起こっただけ」という人間が人間を認める大きな心が働いたからでしょう。
 大リーグ140年の歴史の中でも、完全試合を達成した投手は20人しかいません。それほどの偉業があと一人というところで、しかも誤審によってふいになるとは、悔やんでも悔やみきれないというのが普通の感情でしょう。それを赦せるとは、やはり心が大きいと言わざるを得ません。そして忘れてはならないのは、ジョイス審判員も自分の過ちを素直に認め謝罪していることです。完全なのは神以外には存在しないのだというキリスト教的な考えが根底にあるのかもしれません。
 そういえばシェークピアの言葉に「神々は われわれを人間にするために なんらかの欠点をお与えになる」というのがあります。人間には過ちや欠点があって当たり前と思えばこそ、他人の過ちを赦す心を持ち、自分の過ちを認める謙虚さが生まれるものなのでしょう。野球は1点でも多く点数をあげ、27回アウトを取ったチームが勝ちです。人生ではお互いの欠点という点数を補い合うチームプレイこそが求められ、数え切れないアウトを重ねた果てに完成するものなのではないでしょうか。
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 それでは又、7月11日よりお耳にかかりましょう。

【第810話】 「人間ジュリー」   2010(平成22)年6月21日-30日

お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第810話です。
20100619.jpg「生きるって 死ぬ準備でしょ。おおざっぱに言えば」。これは、ある歌手の方の言葉ですが、どなたかお分かりでしょうか。ヒントは「危険なふたり」「勝手にしやがれ」などのヒット曲があります。そう、ジュリーこと沢田研二です。昭和42年にグループサウンズのタイガースでデビュー。その後、昭和46年からはソロとして活躍。元祖、日本音楽界のスーパースターとまで言われています。
2年前、彼の還暦を記念して、大阪と東京で「人間60年・ジュリー祭り」という単独コンサートを実現させました。5万4千人を動員、約6時間半に及ぶコンサートで、30分の休憩をはさんだだけで、80曲をひとりで歌いあげました。スーパースターの面目躍如といったところでしょうか。それにしても、いくら華やかなスポットライトを浴び続けても、還暦はやって来るものなのですね。それゆえの冒頭の言葉なのか、まさにジュリーの人間らしさを見る思いです。
おおざっぱに言えば、毎日が死ぬ準備かもしれません。では詳らかに言えば、「生きるって 毎日死ぬことでしょ」と、なりはしないでしょうか。毎日死ぬとは、今死んでも満足だと、悔いを残さず眠りに就き、また明日命あって目が覚めたら、精一杯生きていきましょうということです。
昨日悔いは残していませんか。今日はどうでしょう。毎日のように大なり小なりの悔いを残している私たちです。完全に悔いを残さないというのは、難しいかもしれませんが、せめて悔いを少なくするためにも、人のことを、憎まないようにしましょう。憎まないということは、「ニクイ」という悔いが残らないということです。逆に、いつも感謝の気持ちを忘れず、何を言われても「ありがとう」と答えれば、悔いが残ることはありません。「バカヤロ―」と怒鳴って悔いを残すことはあっても・・・。
人間ジュリーもファンに感謝し続けて、ここまで来たはずです。今年も半年が過ぎようとしています。「時の過ぎゆくままに この身を任せて」いては、悔いが残ります。憎まずにありがとうの心をいつも持ち続けていれば、死ぬ準備など何も必要ないかもしれません。
ここでご報告致します。5月のカンボジアエコー募金は、114回×3円で342円でした。ありがとうございました。
それでは又、7月1日よりお耳にかかりましょう。

【第809話】 インタビュー 2010(平成22)年6月11日-20日

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TBC 大久保 悠アナウンサー


  お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第809話です。
 「思うことの半分も書けない 書いたことの半分も言えない」。この言葉はテレホン法話を800話も続けている今でも、毎回その通りだと納得できます。そのテレホン法話のライブという催しを企画したところ、立て続けにラジオ局と新聞社から取材を受けました。
 あらかじめ取材の日時は打ち合わせてあったものの、その内容については、ぶっつけ本番です。自分の頭にある予定されたことを言うだけでも、きちんと言えるものではないことは経験済みです。それでも新聞はその場で記事になるわけではないので、資料を確認したり、記者の方の反応を伺いながら話を進める時間的余裕があります。しかしラジオは生放送でしたので、アナウンサーの質問に即座に答えなければなりません。
 答えの引き出しをいっぱい持っていることは必要ですが、質問に合ったような答えができるかどうかはまた別です。当意即妙な答えというのは、場数を踏んでいればできそうですが、それだけではないということを実感しました。尋ねられるテーマに対して、どれだけ真剣に日々向き合っているかによって、その答えが相手に響くものになるのではないでしょうか。ラジオでのインタビューのことでいえば、「どうしてテレホン法話を始められたのですか」という質問に対して、20年以上もやってきていながら、当意即妙に答えられたかどうか自信はありません。
 もし今、お釈迦さまがマイクをもって「あなたはどうして生きているのですか」とみなさんにインタビューされたとしたら、どう答えますか。何十年という人生経験の引き出しはありますが、「その答え明日まで待って下さい」というわけにはいきません。明日をも知れぬ無常の世にいる私たちです。その私たちはどうして生きているのでしょう。答は簡単です。「お釈迦さまにお会いするためです」。
 インタビューの語源は、「互いに」というinterと、「見る」という viewから成り「お互いに見る」という意味があります。私たちが生きる上で、しっかりとお釈迦さまの教えを信じて日々手を合わせていれば、お釈迦さまも私たちを見守って下さるはずです。そこにはマイクも細工もいりません。ただ素直な心があれば十分インタビューはオンエアされます。みなさんの人生に・・・。
 
  ここで、お知らせです。6月13日(日)午後2時より徳本寺におきまして、このテレホン法話800話を記念して、「第4回テレホン法話ライブ」を開催致します。楽しいマジックショーもあります。入場無料です。是非ご参加下さい。
 それでは又、6月21日よりお耳にかかりましょう。