テレホン法話 一覧

【第1088話】 「命の行列」 2018(平成30)年3月11日-20日

1088.jpg お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第1088話です。
 30年以上も前、仙台市のあるお宅に枕経に伺った時のこと。二人のご遺体が並んでいて驚きました。聞くと、奥の部屋にもう一人いると言うのです。一家心中だったのです。当時の霊柩車は遺族が乗るマイクロバスに棺を納めるスペースがあるものでした。そこの遺族は少なく1台のバスで十分間に合いました。しかし棺は1台にひとつですので、3台のマイクロバスが連なって、火葬場に向かったのです。霊柩車の行列の異様さは、忘れられません。
 さて東日本大震災で徳本寺の檀家さんは、143人が亡くなりました。兼務住職地である徳泉寺は、74人でした。合わせると217人です。これは山元町全体の犠牲者の約3分の1に当たります。そして217人を世帯数でみると、138世帯なのです。つまり約38パーセントに当たる52世帯では、複数の犠牲者が出ているということです。両親・親子・祖父母と孫など、関係性は様々ですが、2人3人4人と同時に亡くしています。7人で暮らしていて、6人が亡くなり、仕事で出かけていたひとりだけが無事だったというところもあります。
 普通の葬儀であれば、一軒にひとりです。地域に限っても、一度に2人3人と同時に葬儀をすることは、稀でしょう。それがあの大震災の時は、一軒で何人も、地域でみても、あそこもここも誰それが亡くなったという状況が日常的にありました。絶対的な非日常である家族の死を目の当たりにして、悲しみ驚きうろたえないわけはありません。それがひとりでなければなおのことです。あれから丸7年経って思います。ご遺族の方はよくぞその悲惨な時をを乗り越えてこられたと。
 「一人の人間の命は地球よりも重い」と言った人がいます。同時に地球も人間の命も、この世でたったひとつです。そのたったひとつの命を、同時に2つも3つも失う辛さは想像を絶するばかりです。その辛さを超えられたのは、亡くなられた命と自分の命がつながっている有り難さを、人一倍に感じてたからでしょうか。そして自分が生きていくことが、亡き人を生かすこと、それが何よりの供養だという信念があったからではないでしょうか。
 30年前の私に戻せば、今よりはずっと修行未熟でした。命の重みを実感できていませんでした。しかし3台並んだ霊柩車に圧倒されたのです。ひとりの死の時には気づかなかった、命の重みを気づかされたのです。3人だから3倍というのではない、何十倍にも感じました。それは命の行列を具体的にこの目で見たからです。同時にたったひとつのわが命の尊さにも思い至りました。
 ここでお知らせ致します。2月のカンボジア・エコー募金は、181回×3円で543円でした。ありがとうございました。
 それでは又、3月21日よりお耳にかかりましょう。

【第1087話】 「生きる、そのこと」 2018(平成30)年3月1日-10日

1087.jpg お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第1087話です。
 「妻は寝たきりの父をひとりにできないと思って、避難しなかったんだと思います」。東日本大震災の津波で、父親と妻を喪ったあるお檀家の男性が言いました。その時奥さんはいろいろ思い巡らしたことでしょう。病人を車に乗せることのたいへんさや、避難所で迷惑をかけることになるなど。そのお宅は、海からは1キロ以上も離れたところにあったのです。
 さて東北大などの研究チームは、たまたま震災の前の年から、岩沼市で高齢者の健康状態を継続的に調査していました。その中で、津波で浸水した玉浦地区の対象者860人について、次のような分析を発表しました。震災当日亡くなったのは33人で、死亡率は3.8%。その後3年余りの間に亡くなったのは95人で、死亡率は11.5%でした。
 そして、どんな日常生活が死亡リスクに影響するかを知って驚きです。友人とよく会う人はそうでない人より、死亡リスクが2?3倍高くなるのです。親以外の家族と同居する人は、一人暮らしの人に比べ、やはり死亡リスクが倍以上になっています。更には、親と同居している人は、一人暮らしの6.7倍も高いのです。
 チームの推察はこうです。調査対象は65歳以上で、その親はさらに高齢だということです。もしかして、自分一人の避難すらたいへんな人が、親や友人を助けようとすれば、避難が遅れた可能性もあるというのです。また、家族の誰かや、友人が「ここは大丈夫」などと発言すれば、集団思考に引きずられ、避難の決断を鈍らせてしまうことも考えられると言います。
 それでも、一人暮らしの方が助かる確率が高い、というほど単純な見方はできないでしょう。また、津波の時の避難は各自で行うという事前の約束である「津波てんでんこ」という言い伝えがあります。これは生存者が死者に対して抱く自責の念を和らげる面があるのですが、現場での判断はどうでしょう。病人や高齢者という絶対的弱者を目の当たりにして、悩みためらわないはずはありません。どうして避難しなかったのかと悔やみながらも、避難できる状況ではなかったのではないかということにも、思い至らなければなりません。誰も納得できる答えは出せないでしょう。
 「死んだ者は答えてくれない。許されるように生きろ」あるテレビドラマの中のセリフです。どんな状態で亡くなろうが、死んだ人は何も言ってくれません。たとえ生き残ったとして、先に亡くなった人の言葉を聞きたいと思っても叶わぬこと。ひとつ叶うことがあるとすれば、私たちが死んだ人に、よくやっているなと認めていただける生き方をすることでしょうか。亡き人を忘れず、悲しみを乗り越えて、今を精いっぱい生きる、そのことです。
 ここでお知らせ致します。来る3月11日(日)午後2時徳本寺にて、東日本大震災復興祈願大般若法要と慰霊法要を行います。また、やまもと民話の会代表庄司アイさんの「震災と民話」というお話もあります。是非みなさんでご参加ください。
 
 それでは又、3月11日よりお耳にかかりましょう。

【第1086話】 「千個目の金メダル」 2018(平成30)年2月21日-28日

1086.jpg お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第1086話です。
 4年前のソチオリンピックのフィギュアスケートで、羽生結弦選手が獲得した金メダルは、日本人選手として通算10個目でした。そして、この度の平昌(ピョンチャン)大会で、羽生選手が2連覇を果たして得た金メダルは、冬季オリンピックにおける金メダルとしては、通算1000個目だそうです。金メダルひとつ取るだけでも至難なことなのに、2つの金メダルが、大きな節目を飾っている羽生選手は、常人にはない何かを持っていますね。
 オリンピックは4年に一度というところに大きなあやがあります。毎年であれば、選手はコンディションを整え易いのではないでしょうか。4年間の方が力がつくこともあるでしょうが、年齢によっては衰えることもあります。4年先まで見据えるためには、体力面のトレーニングと共に、強靭な精神力が求められます。
 そのような中で、羽生選手は2回目のオリンピックを目前にして、昨年11月練習中に右足首を怪我し、松葉杖をつくほどでした。2カ月間も氷に乗れずに、大会の1カ月半前にやっと練習ができるという状態でした。その他にも、4年の間、他の選手との衝突や、捻挫、インフルエンザといった障害もありました。選手生命が脅かされるような困難に打ち克っての勝利です。
 彼は言います。「たくさんの夢がありました。オリンピックに向かうにつれ、ひとつずづ捨ててきて、結局残ったのが、どんなことがあってもオリンピックで金メダルを取る、ということだったのです」。その夢の中には、みんなで食事に出かけるとか、コンサートを見に行くというような普通の若者が、当たり前に行っている事も含まれていたようです。しかし、彼の言動を見ていると、無理にやりたいことを我慢しているという感じではなく、氷の上での演技がすべてであると、自然体でふるまうさわやかさがあります。
 「人の心は、こだわりを持つと氷となり、無心になると水のように流れ出す」という言葉があります。勿論これは、氷のように冷たく堅い心を戒めたものです。羽生選手の心には、氷どころではない、何ものも打ち砕くことのできない強靭さがあります。その強靭さで、氷にこだわり極めて、無心になり、水が流れる如く、いや羽生選手だけに、羽が生えたかのような華麗な演技に結びついたのでしょう。そして、4分半の演技が終わって、右足に手を添え「ありがとう」と言って怪我をねぎらいました。更に氷に3度手を触れたのは、困難を乗り越え求めていた幸せが、氷のように結晶したことを実感したからでしょうか。冬季オリンピック史上1000個目の金メダルには、そんな羽生選手こそがふさわしいと、この時まで待っていてくれたかのようです。
 ここでお知らせ致します。来る3月11日(日)午後2時徳本寺にて、東日本大震災復興祈願大般若法要と慰霊法要を行います。また、やまもと民話の会代表庄司アイさんの「震災と民話」というお話もあります。是非みなさんでご参加ください。
 それでは又、3月1日よりお耳にかかりましょう。

【第1085話】 「象の鼻にある花」 2018(平成30)年2月11日-20日

 お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第1085話です。
 今から50年以上前、イラン北部のシャニダール洞窟で、ネアンデルタール人の遺跡が発見されました。埋葬されたネアンデルタール人の周りには、たくさんの花粉がありました。キンポウゲやノボロギクなどです。研究者は「旧人たちが死者に花をささげていた」と発表しました。5万年以上前の旧人も死者を花で包んで埋葬したと、多くの人が感動しました。その後「花の埋葬」については、専門家から疑義が出ているとはいえ、遥かな祖先に、私たちに通じる心情の芽生えがあったように思えて、ロマンを感じます。
 さて、歴史は進み今から2500年前のこと。お釈迦さまは2月15日に、クシナガラの沙羅双樹の林の中で、80歳で亡くなられました。頭を北にお顔を西に向けて横たわっているお釈迦さまを囲むようにして、お弟子さんをはじめとするたくさんの人々や、鳥や動物たちも集まって、嘆き悲しんでいます。更には、8本の沙羅双樹のうち、4本は泣き枯れたかのように白茶けた色になっています。
1085_1.jpg そのようなお釈迦さまの最期のご様子を描いた涅槃図(ねはんず)を、お寺ではこの時期に掲げて、ご遺徳を偲びます。お釈迦さまが亡くなった時、「大地は一時に震動し、天鼓(てんく)は自然に鳴り響き、須弥山(しゅみせん)はにわかに揺るぎ出した。そして天地いぱいに嘆きの声が満ちた」というたとえで伝えられています。まさに「天地いっぱいの嘆き」を表した絵が涅槃図です。
 徳本寺の涅槃図は、183年前の江戸後期天保6年に描かれたものです。その中には、46種類の鳥や動物がいます。大きいのは象、小さいのは蝶やカタツムリまで。特に興味深いのは、花を携えている動物がいることです。1085_2.jpg白い象は、2本の牙を天に向けて泣いていますが、長い鼻の先で、一輪の花をつかんでいます。イタチと思しき動物も、口に一輪花を咥えています。鹿と水牛もそれぞれ、一輪の花を咥えています。花を持つ動物を、ほかの涅槃図では、あまり見かけません。
 いかに「天地いっぱいの嘆き」とはいえ、動物たちまで悲しんで泣くというのは、普通ではあ得ません。ましてや、お花を持って参列するなど、人間ならともかく、動物では更にあり得ません。しかし、この涅槃図を描いた作者は、4種類の動物を使って、お釈迦さまにお花を供えさせようとしたのです。二重三重のあり得ないことを描くことにより、お釈迦さまの死という一大事を強調しようとしたのかもしれません。何より、5万年前の旧人の「花の埋葬」のように、死に対する悼みを、花の美しさで和らげようとしたのではないでしょうか。花は飾って鑑賞するばかりではなく、悼みを和らげる緩衝材として、人類の歴史と共にあるかのようです。
 ここでお知らせ致します。1月のカンボジア・エコー募金は、191回×3円で573円でした。ありがとうございました。
 それでは又、2月21日よりお耳にかかりましょう。

【第1084話】 「クローン」 2018(平成30)年2月1日-10日

1084.jpg お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第1084話です。
 中国で「中中(チョンチョン)」と「華華(ホワホワ)」と名付けられた2匹の動物が誕生しました。パンダではありません。サルです。全く同一の遺伝子を持つ個体群をクローンと言いますが、そのクローンのサルが誕生したのです。哺乳類の体細胞クローンは羊や牛などで誕生していますが、霊長類では初めてです。
 今から22年前の1996年、世界初のクローンの羊の「ドリー」が、イギリスで誕生しました。当時、霊長類では技術的に難しいとされていました。しかし、いずれ人間にも応用できるということで、その技術の是非をめぐって、世界各国で論争が巻き起こりました。早い話が、独裁者が自分のコピーのクローン人間をつくったらどうなるのか。女性が自分の遺伝子だけを持つ子どもを産んで、男性不要の世の中になる、などというSFの世界の実現が可能になるのです。幸いにして、体細胞のクローンをヒトに試すことは、日本を含む多くの国の法令で禁じられています。
 しかし現実的な話をすると、ドリー誕生2年後の1998年に、アメリカでこんなことがありました。ある富豪が自分の愛犬のクローンを作ってくれるよう、研究所のある大学と契約しました。その金額は3億3千万円。愛犬はミッシーという名で11歳の雌。飼い主の富豪は、捨てられて保護センターにいたミッシーを、生後4カ月の時に引き取り、すっかり気に入って、クローンをつくる契約に及んだというのです。現在のミッシーが亡くなっても、クローンのミッシーがいれば、その命は永遠に続くということでしょうか。お金持ちのお遊びと言いたいところですが、今や夢ではなくなっています。ただ、いずれは飼い主もクローンでなければならなくなるでしょう。
 きわめて現実的な話に戻します。咲いている花はどうしてきれいなのでしょう。それは、やがて散るからです。造花ではどんなにきれいでも、毎日見続けていたら、1年もしないうちに飽きてくるでしょう。人間も不老長寿は究極の夢かもしれませんが、死なない命を持ったら、暴飲暴食スピード違反など、滅茶苦茶な人生を歩む人であふれるかもしれません。
 命の輝きは、限りあって、かけがえがないからです。命がふたつもみっつもあったら、おそらくは粗末に扱ってしまうでしょう。自分もまわりも、モノ扱いになりかねません。「命懸け」という言葉もなくなるでしょう。命懸けとは、死ぬ覚悟で事に当たることです。クローンというコピーの世界では、その緊張感がなくなり、コピー機の印刷のように、使い捨ての風潮が蔓延するおそれがあります。少なくとも命においては、コピーつまり複写拍車をかけずに、ブレーキをかけるべきです。
 ここでお知らせ致します。10年間のテレホン法話ライブを紙上再現した『月を流さず―和尚の語り草―』が出版されました。電話ではお伝え出来ない法話に因んだ写真も掲載された読みやすい本です。定価1500円。ご希望の方は徳本寺までお申し込みください。電話0223-38-0320です。ホームページからの場合はこちらをご覧ください。
 それでは又、2月11日よりお耳にかかりましょう。

【第1083話】 「フェアプレイ」 2018(平成30)年1月21日-31日

 お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第1083話です。
 「フェアプレイ精神で正々堂々と闘うことを誓います」スポーツの選手宣誓の常套句です。1点でも多くとった方が、1秒でも早く着いた方が勝ちとなる競技が大半です。結果は厳正であり、それ以上でもそれ以下でもありません。ですから、そこに至る過程に不正があってはならないのです。あくまで公平で同じ条件で闘わなければならないのです。
 昨年9月に行われたカヌー・スプリントの日本選手権で、鈴木康大(やすひろ)選手は、ライバルの小松正治(せいじ)選手の飲み物に禁止薬物を入れました。レース後のドーピング検査で、小松選手は陽性反応が出たため、失格となりました。しかし小松選手は薬物摂取を否定し、鈴木選手が名乗り出たために、無実が判明しました。
 2人とも2020年東京オリンピックでカヌーの代表入りを目指すトップ級選手です。ライバルがドーピング検査で引っかかれば長期の出場禁止になり、自分がオリンピックに出る可能性が高まると目論んだのでしょう。他人を陥れて自分がのし上がるというのは、よくある話です。
 しかし、スポーツの世界では、誰もがフェアプレイ精神を持っているはずだという性善説を疑いません。競技の実力だけがすべてで、1秒でも遅ければ潔く自分の負けを認めるのがフェアプレイです。よもや選手仲間が競技以外のことで挑んでくるとは、想像だにしなかったことでしょう。
 小松選手が陽性反応が出た時のショックは、相当なものだったはずです。そして真っ先に相談した相手は、あろうことか鈴木選手でした。それは先輩として長年慕っていたからです。それなのに、鈴木選手は若手の小松選手の実力に脅威を覚え、禁止薬物以外にも用具やパスポートを隠したり、職場へ中傷メールを送付するなどの嫌がらせを繰り返していました。何としてもオリンピックに出なければならないと追い込まれていたようです。
 オリンピックはスポーツ界の頂点と言ってもいいでしょう。鈴木選手は「自分も小さな時からオリンピックに出たいと夢見ていたのに、こんな卑劣な手段で人の夢を諦めさせてはいけない」という良心の呵責(かしゃく)にさいなまれて、真相を告白したのです。フェアプレイの精神がかろうじて残っていたというべきでしょうか。
 西郷隆盛の言葉に「誠は天の道なり。これを誠にするは人の道なり」というのがあります。フェアプレイこそが誠でしょう。フェアプレイから外れたら、人として失格です。32歳の鈴木選手の歩む人の道は、まだまだ先があります。犬年の今年、西郷(せご)どんのそばにいる犬のように、その言葉を常にかみしめ、人の道を目指してほしいものです。
 それでは又、2月1日よりお耳にかかりましょう。

【第1082話】 「人生最後の食事」 2018(平成30)年1月11日-20日

1082.jpg お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第1082話です。
 「人生の最後に食べたいもの」というアンケートの新聞記事を読んだことがあります。生きていると、いつ、何が起きてどのような最期を迎えるかわからないが、もし選べるとしたら人生の最後に何を食べたいですか、という内容です。その結果は、にぎり寿司が断然トップで、ごはん、刺し身、カレーライス、ケーキと続きます。
 昨年の大晦日の夜、お檀家のAさんのお宅では、当たり前に年越しの食卓を囲みました。普段は自宅療養で寝ている93歳のおじいさんも加わり、子どもや孫も集い、にぎやかに宴が繰り広げられました。ハレの日のご馳走であるお寿司やオードブルに、おじいさんも舌鼓を打って、たいそう満足していました。まだまだ元気で、来年も一緒に暮らせるだろうと誰もが思いました。
 しかし、元旦の朝起きてみると、おじいさんはベットの上で、変わり果てた姿になっていたのです。寺にお知らせに来られた息子さんは、「お正月なのに、こんなことってあるのでしょうか。つい数時間前まで、家族と一緒に食べたり、おしゃべりをしていたんですよ。信じられません」と、言うのです。
 おじいさんが普通の健康状態ではなかったとはいえ、あまりに突然に、しかも元旦に旅立つとは・・・。人の命の儚さと、いつとは知れず訪れる無常の風の非情さを思わずにはいられません。「門松は冥途の旅の一里塚 めでたくもありめでたくもなし」という一休さんの歌が重なります。私たちは正月を迎える度に、一年前よりは、確実に死ぬ時期に近づいています。決して遠ざかることはないのです。ただ、どの程度近づいているかは誰も判断できません。だからみんなめでたい存在でいられます。
 亡くなったおじいさんは、ご自分の最期をどの程度思い描いていたかは分かりません。結果的に人生最後の食事となった大晦日のお寿司は、とても象徴的です。何よりそのお寿司をひとり黙々と食べたのではなく、家族と一緒にいただくことができたのですから、うらやましくもあります。
 冒頭のアンケートの記事で、ある男性はこう言っていました。「最期は突然やってくるかもしれない。すべての食事を常に最後の食事と思っていただく」。まさにその通りです。毎食これが最後の食事と思えば、うまいもまずいも超えて、かみしめて味わい尽くそうとするはずです。そして、人の生き死には、大晦日も元旦も関係ないのです。無常の世にあって、毎日が生涯で一番新しい日であり、毎食が生涯で最後の食事になるかもしれないのです。そして、ごはんのお替りはできても、時間じかんのお替りはできないのです。
 ここでお知らせ致します。12月のカンボジア・エコー募金は、158回×3円で474円でした。ありがとうございました。
 それでは又、1月21日よりお耳にかかりましょう。

【第1081話】 「ボウに当たる」 2018(平成30)年1月1日-10日

1081.JPG お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第1081話です。
 あけましておめでとうございます。子どものころ、お正月にはカルタをしたものでした。「いろはガルタ」ですので、いの一番にあったのが「犬も歩けば棒に当たる」でした。今年は戌年ですが、でしゃばると禍に遭うなどということがないようにしたいものです。今時、野良犬はあまり見かけなくなりました。大抵飼い主に導かれて行儀よく歩いている犬ばかりで、棒に当たるような犬は少ないかもしれません。
 我々人間は「飼い慣らされる」ような生き方では感心しませんが、目的もなくぶらぶら歩くのでは意味がありません。自分で決めた方向に向かって、何の迷いもなく、一歩一歩進むことが大事です。「歩歩清風を起こす」という禅語があります。無心に精進して足を運ぶごとに、まわりをさわやかな風で包む、そんな歩みができたらと思う年の初めです。
 さて、東日本大震災の大津波で本堂等すべてが流されたもう一つの住職地である徳泉寺。その再建のために「はがき一文字写経」を呼び掛けて6年になります。北海道から沖縄まで全国のみなさまから、一枚一枚とはがきが寄せられ、一口5千円の納経志納金が6800口を超え、確実に目標に向かっています。さわやかな風が起きたかどうかは分かりませんが、無心に一歩一歩と復興に進んでいる途上にあります。
 一文字一文字心をこめた写経には、ただ無心に復興を願う祈りが込められています。その祈りのおかげで、昨年暮れ基礎工事に着工することができました。いよいよ今年から、本格的な大工工事が始まります。柱が立ち、屋根ができて、およそ一年後の完成を目指します。
 「棒に当たる」とは、禍のことも意味しますが、幸運にぶつかるという例えでもあります。歩かなければ棒にも当たらないのです。確かに震災直後、何もかもなくなった徳泉寺の跡地に立った時、これからどこに向かって歩けばいいのだろうと思いました。それでも一歩でも半歩でも歩かなければ何も変わらないという気持ちだけは強く持っていました。そして、震災一年後、「はがき一文字写経」で徳泉寺を復興すると宣言しました。それから機会があるごとに呼び掛けてきました。
 遅々とした歩みではありますが、歩き続けて今、希望という「ボウ」に当たったような気がしています。希望の実現のためにも、はがきに一文字写経をして、復興の片を担いでみませんか。本堂再建の暁には、共に喜ぼうではありませんか。
 ここでお知らせ致します。徳泉寺復興の「はがき一文字写経」の当面の目標まで、あと百文字となりました。みなさんの一文字で本堂が建ちます。お心がございましたら徳泉寺復興委員会までお申し込をお願いいたします。 →【徳泉寺ページはこちら】
 それでは又、1月11日よりお耳にかかりましょう。
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【第1080話】 「継続は宝」 2017(平成29)年12月21日-31日

1080.jpg お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第1080話です。
 天皇陛下の退位の日が、再来年2019年の4月30日と決定しました。退位に伴い2019年5月1日午前零時に新しい年号が施行されます。平成という年号は約30年と4カ月で終えるわけです。「一世代30年」はひとつの目安だそうですが、まさに一時代だったといえる平成です。
 私のテレホン法話も、今回でちょうど30年を迎えました。平成という時代が始まる約1年前の昭和62年12月21日に、前住職から受け継ぎました。1日・11日・21日と10日毎に話題を更新し続けて現在に至ります。年間36話という数は、多いとは思えませんが、10日という日にちは、あっという間にやってきます。更新日は決まっていますが、その内容については何ら計画性もなく、毎回ギリギリ一杯の状態で間に合わせてきました。
 「間に合わせの法話」では、お聴きいただいている方に対して失礼この上ないことです。しかし、日にちまでに間に合わなければ、どんなに素晴らしい内容であっても、やはり失礼です。老若男女を問わず、時間だけは平等な価値をもって与えられています。たとえばお年寄りの1年は370日で、女性の1日は26時間にします、などということはあり得ません。自分の時間を守ることは、相手に対する何よりの思いやりです。
 2017年という年も、すべての人に等しくあと僅かしか残されていません。私たちは毎日毎日、その日に間に合う生き方をしているでしょうか。年明けの1月2月ごろなら、今日やることが間に合わなくても、まだ大丈夫という感覚が働きます。しかし、この時期になれば、誰しも今年の残りの日数が目に見えてきます。今年中にあれを間に合わせよう、これもやっておかなければ、という気持ちになります。
 私の場合はテレホン法話に、いい意味で縛られているおかげで、生活のサイクルを1年単位ではなく、10日単位でこなしているところがあります。何事も1年分を想定するのは難しいけれど、10日間であれば、いろいろ予測も可能です。勿論テレホン法話をやるために、他のやるべきことを省略するということではありません。テレホン法話をしなければならないので、それまでにやるべきことを済ませておこうということです。つまり、10日間のうちに何とか間に合わせようと、多少のエネルギーは使います。
 テレホン法話が30年とはいえ、決して一時代を築いたと言えるものではありません。よって、今後も継続していくことでしょう。しかし、「継続は力なり」というほどの力は持ち合わせていません。お聴きいただいている方の「継続する力」によって、長年支えられてきました。すべてを間に合わせる私のエネルギーは、そこからいただいてきました。何よりの財産です。みなさまの「継続の力(から)」は、私にとっては「継続は宝(から)」になっています。だからこれからも、よろしくお聴きください。
 それでは又、来年1月1日よりお耳にかかりましょう。

【第1079話】 「永世七冠」 2017(平成29)年12月11日-20日

1079.jpg お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第1079話です。
 思えば一年前の12月24日、最年少棋士藤井聡太四段がデビュー戦で、最年長棋士加藤一二三九段を破り、14歳5カ月での最年少勝利記録を打ち立てました。以来負けなしの29連勝。将棋界が俄然注目を集めた一年でした。
 そして今月5日、将棋ブームの一年を締めくくる大トリ登場。将棋界のトップ羽生善治さんが竜王戦を制し、史上初の「永世七冠」を達成しました。永世称号のある七つのタイトル全てで、永世資格を手にしたことになります。一つのタイトルを取ることでさえ至難なこと。永世称号は七つのタイトルによって異なりますが、五回から十回それぞれを保持しなければならないのです。
 将棋人口から言えば、プロの棋士はわずかです。若くして神童と呼ばれるような棋士の中で、熾烈な競争を経て、ほんの一握りの天才がプロになるのです。その天才同士がしのぎを削って、盤上の戦いを繰り広げるのですから、一勝するのも並大抵ではありません。ましてやタイトル保持者になり、更には永世称号までの道のりは、気の遠くなるような話だといわれます。
 将棋ブームと相まって、人工知能によるコンピューター将棋の進化が加速しています。短時間に多くの手を読む力は、もはや人間を上回っています。これに対して脳科学者は、人工知能と生身の人間を比較するのは、本来条件が違うのでおかしいと言っています。100メートル走で人間と自動車を比較するほど意味がないというのです。
 羽生さんといえども人間です。体調や日々の生活を考えれば、常に最良の状態で対戦できるとは限りません。そんな中で、19歳で当時最年少タイトル保持者になり、以来30年近く常にタイトルを保持し続けてきたのです。どれほどの探求心と弛まざる節制精進があったのかと思わずにはいられません。
 羽生さんは昔こんなことを言ってます。「大切なのは過程です。結果だけならジャンケンでいい」。何時間も何日も戦う将棋の一手一手の過程の中に、どれだけの読みや感情の動きがあるものでしょうか。きわめて人間臭い時間の流れの中での勝負です。人工知能にはない息遣いを感じます。
 「万法一に帰す(ばんぽういつにきす)」という禅語があります。森羅万象すべてのことは、絶対的存在の「一」に帰するということです。羽生さんは、生活環境を含め鍛錬や精神力などという万法をもって、「一に帰する」が如く、渾身の一手を指し続けててきたのでしょう。そして「一」は万法に帰るともいわれます。羽生さんの「永世七冠」は、すでに万法からはみ出している観があります。
 ここでお知らせ致します。11月のカンボジア・エコー募金は、241回×3円で723円でした。ありがとうございました。
 それでは又、12月21日よりお耳にかかりましょう。