テレホン法話 一覧
【1314話】 「宥座之器(ゆうざのき)」 2024(令和6)年6月21日~30日
住職が語る法話を聴くことができます

お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第1314話です。
戯れ歌をひとつ。「裏金も キックバックも 何でもあり 勝れる組織 派閥に及(し)かず」。元の歌は山上憶良の「銀(しろがねも)も金(くがね)も玉も何せむに 勝れる宝 子に及(し)かめやも」です。金銀宝石も子どもという宝には及ばないという歌です。我が国の舵取りを担う政党の派閥とやらは、国民という宝よりも、我が身を守るための金銀が大事なようです。
「火の玉となって」国民の信頼を取り戻すと、政治資金規正法の改正案を提示したものの、誰が見てもザル法と思える内容です。例えば10年後に政策活動費の領収書を公開するとは、10年後も議員にさせてくださいというお願いなのでしょうか。政治資金収支報告書の虚偽記載に関する罪の時効は5年なのですから、無意味です。
「先生」と呼ばれることに胡坐をかき、志も矜持も失っているのではないでしょうか。学校で何を習ってきたのでしょう。学校と言えば、日本最古の学校足利学校を訪れる機会がありました。そこに「宥座之器(ゆうざのき)」という座右に置く変わった金属の器がありました。鎖でぶらさっがていますが、斜めになっています。少しずつ水を入れていくと、ちょうどよいところで、器はまっすぐになります。まだ入りそうだと欲張って満杯にすると、器はひっくり返って、水はこぼれてしまう仕組みです。
それは孔子の説いた中庸を教えるものです。孔子が魯の国の桓公廟(かんこうびょう)に行くと、「欹器(きき)」という斜めに立つ器がありました。役人に尋ねると「座右の戒めをなす器である。水が空のときは傾き、ちょうどよいときはまっすぐに立ち、水をいっぱい入れたときはひっくり返ってしまう」とのこと。孔子は早速、欹器を手元に置き、「いっぱいに満ちて覆(くつがえ)らないものはない」と慢心や無理を戒めたといいます。
足利学校では今でも、論語の素読体験を行っています。ちょうど訪れた時も、小学生が論語の素読中でした。先生は机に置いた宥座之器に水をいれながら、孔子の中庸の教えを説いていました。宥座之器の案内板には「腹八分目」の例えが書いてありました。食べ過ぎればお腹をこわし、食べなければ体力がつきません。腹八分目が理想なのです。それを中庸といいます。
食べ物はお腹が受け付けないことはありますが、お金という食べ物は、金庫や引き出しなどに貯めておくことができ、腹八分目を感じにくいのでしょう。今さら派閥の先生方に「火の玉」までは求めませんが、中庸の姿勢で玉のような存在である私たちのために尽くしてください。私たちの宥座之器ならんことを切に念じております。
それでは又、7月1日よりお耳にかかりましょう。
【1313話】 「親子3代で完走」 2024(令和6)年6月11日~20日
住職が語る法話を聴くことができます

お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第1313話です。
今年はパリオリンピックですが、マラソンの距離が42.195㎞に固定したのは、ちょうど100年前の1924年第8回パリオリンピックの時からです。第1回アテネオリンピックでのマラソンは40キロでした。その起源は、ペルシャ軍がギリシャのマラトンに攻め入った「マラトンの戦い」で、ギリシャ軍が勝利し、その伝令の兵士がマラトンからアテネまで走った約40キロの距離と言われます。紀元前490年のことです。
マラソンはオリンピックでも花形競技ですが、一般市民の間でも大人気です。各地でご当地名を冠したマラソン大会が行われています。4月末に次のような新聞投書が目につきました。「今年44回目の河北新報錦秋湖マラソンは、5月26日に開催されます。私は第3回大会から出場し続けています。ここ数年は長女と出場していましたが、今年は北海道で大学生活を送る孫娘も加わって3人で10キロの部に挑みます・・・」
「親子3代でゴールを目指す」というタイトルの投書の主は仙台市の岡本幸治さんです。実は岡本さんとは20年来の知り合いです。このテレホン法話の愛聴者でもあり、何度も感想を寄せて下さいました。しかし、マラソンを走る方とは意外でした。しかも88歳とは驚きです。更に投書には、これまでフルマラソン13回を含め、国内外で367回完走していて、毎朝3~5キロの練習を続けているとありました。筋金入りのランナーであることに只々感服し、早速錦秋湖でも完走できますようにと応援のはがき送りました。
そして錦秋湖マラソンの翌日には「親子3代で完走 絆かみしめる」という記事が河北新報に大きく掲載されました。親子3代の笑顔の写真は清々しさに満ち溢れていました。岡本さんはレース中に脚をつりながらも、制限時間10分オーバーで走り抜きました。米寿を祝って、親子3代で挑んだ大会で完走を果たしたのです。それもこれも岡本さんのマラソンの実績と、その背中を追って20回ほど一緒に出場した娘さん、更には孫娘さんは子どもの頃から2人の走りを見て応援してきたという絆があったればこそです。
マラソンの起源は勝利を伝えるために走ったことに由来します。そのことを思えば岡本さんのマラソンには伝えるという意義が十分に反映されています。走ることは勿論、弛まず精進して最後まで諦めないという生き方が、娘さんにも孫娘さんにも伝わったのですから。近代ロケットの父ゴダードは次のように言っています。「昨日の夢は 今日の希望であり 明日の現実となる」。これまで岡本さんは様々な夢を追うが如くにして走ってきたことでしょう。完走するたび、希望が芽生え、明日へと向かってきたはずです。この度の米寿記念の親子3代完走は、究極の夢であり希望だったのでしょうが、紛れもない現実となりました。それは偉業とも言えます。
ここでお知らせいたします。5月のカンボジアエコー募金は、1,407回×3円で4,221円でした。ありがとうございました。それでは又、6月21日よりお耳にかかりましょう。
【1312話】 「規格外のエンジン」 2024(令和6)年6月1日~10日
住職が語る法話を聴くことができます

お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第1312話です。
「持っているエンジンが違うよ」「相撲界の大谷翔平と言われるかもしれない」。大相撲夏場所で初優勝を果たした小結大の里の評判です。昨年夏場所の初土俵からわずか1年、所要7場所での幕内優勝。大銀杏が結えないほどのスピード出世できる規格外のエンジンです。
出身は能登半島の根元石川県津幡町です。元旦に起きた能登半島地震から5カ月、やっと明るい話題ができ、地元では「石川の誇り」と沸いています。小学生時代から相撲教室に通いました。当時は強い子ではなかったそうですが、学生時代には学生横綱や2年連続アマチュア横綱に輝くなどして、鳴り物入りで各界へ入りました。
実は今から11年前、私も津幡町を訪れたことがあります。その頃は中学生であろう大の里少年にすれ違っていたかもしれません。津幡町瓜生は曹洞宗大本山總持寺の2代目峨山禅師が生まれたところです。信心深い母は文殊菩薩に祈り続け、玉のように大きな男の子を生みました。今から748年前のこと。源氏の武将の子孫という説があります。賢くたくましく育ち、16歳で出家します。總持寺を開かれた瑩山禅師との出会いにより、めきめき頭角を顕わします。
当時總持寺は能登半島の輪島市門前町(まち)にありました。海上交通を活用し、瑩山禅師が曹洞宗の教えを全国に広める基盤を作りました。その後を継いだ峨山禅師が、42年間總持寺の住職として、人材育成などに力を尽くします。二十五哲と言われるたくさんの俊才を輩出し、曹洞宗を1万5千カ寺に及ぶ大教団に発展させました。
また峨山禅師は65歳で、瑩山禅師が總持寺より先に開いた羽咋市の永光寺(ようこうじ)の住職にもなります。そして總持寺と永光寺の維持発展に努めます。その間を往来した13里(52キロ)の山道は「峨山道」と呼ばれています。夜中に永光寺で朝のお勤め(朝課)を済まされ、山道を走り、總持寺での朝課にも間に合わせたという超人的な伝説があるほどです。總持寺・永光寺にはその木像が安置されていますが、確かに眼光鋭く屈強な体格で尊厳なるお姿です。まさに「持っているエンジンが違う」という行状です。
津幡町の峨山禅師生家の近くに顕彰碑が建てられ、毎年6月23日には生誕祭が行われます。家々には五色の仏旗が立てられ、関係僧侶は勿論、地元の方々も峨山禅師の遺徳を偲んで焼香されます。峨山禅師は瑩山禅師よりお悟りを得たというお墨付きをいただきながらも、更に仏道を究めるべく、諸国行脚に出ます。この時の出会いが、後の曹洞宗の全国展開につながったともいわれます。郷土の偉人として生誕をお祝いされる人物の原点を見る思いです。
さて大の里は師匠の二所ノ関親方に「優勝しても喜ぶな」と言われ、「本当に強いお相撲さんになっていきたい」と力強い言葉を残しました。悟って尚諸国行脚に向かった郷土の偉人の足跡をたどるかのようです。それでは又、6月11日よりお耳にかかりましょう。
【1311話】 「マンダラチャート」 2024(令和6)年5月21日~31日
住職が語る法話を聴くことができます

お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第1311話です。
昨年大リーグで二刀流の上、本塁打王にも輝いた大谷翔平選手。今年も活躍しています。その原点は高校時代にあったようです。岩手県花巻東高校の1年生の時、佐々木洋監督に教えられた「目標達成シート」の作成です。
これは「マンダラチャート」ともいわれます。9×9の合計81マスに、細分化した目標を書き込むのです。まず中心に3×3の9マスがあり、その真ん中に一番の大目標を書きます。残りの8マスに大目標達成のための中目標を書きます。8つの中目標達成のために、それぞれ8つの小目標を設定します。こうして達成すべき具体的目標を記し、日々そのために惜しまず行動する訳です。
大谷選手の大目標は「ドラ1 8球団」でした。つまり高校卒業時にプロ野球の8球団からドラフト1位指名を受けるということです。そのための中目標として、1.体づくり 2.人間性 3.メンタル 4.コントロール 5.キレ 6.スピード160キロ 7.変化球 8.運 という8つを挙げています。高校生で160キロもの球を投げるというのはかなり目標が高いのですが、実現できたのですから凄いとしか言いようがありません。
勿論野球の上達だけで満足していません。たとえば8つ目の運を呼び込むために次の8つを目標にしています。1.あいさつ 2.ゴミ拾い 3.部屋そうじ 4.道具を大切に使う 5.審判さんへの態度 6.プラス思考 7.応援される人間になる 8.本を読む なるほどと思うことばかりです。球場でごみをそっと拾い、ユニフォームのポケットに入れた自然なふるまいは誰もが感心しました。日本中のおよそ2万校の小学校に、3個ずつ計6万個のグローブを寄贈しました。子どもたちに野球をして楽しんでもらいたいという思いと、野球を愛し道具を大切にしてきたればこそです。すべては自分が一番野球を楽しいと思って、目標達成シートの一つひとつに向き合いながら、トレーニングを重ね現在の結果を出してきた顕れでしょう。
ところで目標達成シートをマンダラチャートといういわれは、チャートは表や図表ということで、マンダラは、密教の世界観を表わす曼陀羅図のことです。中心に仏や菩薩の姿が描かれています。その周りは仏に至るため、つまりお悟りを得るための教えや法則を象徴する色や形で荘厳されています。お釈迦さまの教えを分かりやすく可視化されたものともいわれます。
私たちの大目標は何といっても、仏になることです。お釈迦さまの教えを学び、実践することで、仏さまの境地で清々しく生きるということです。そのために大谷選手のように、挨拶や掃除をしっかりすることは基本中の基本です。ある人がこう言いました。「毎朝、自らに問いかける。なぜ、お前は目覚めたのか、『その答えが目的になる』」。なぜ起きたか問いかけてみましょう。今日も目覚めることができて有り難い、今日はどんな仏になろうかと思えたらしめたものです。その目標に向かえば、楽しく掃除ができます。
それでは又、6月1日よりお耳にかかりましょう。
【1310話】 「鬼より強い母の愛」 2024(令和6)年5月11日~20日
住職が語る法話を聴くことができます

お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第1310話です。
昔インドに訶梨帝母(かりていも)という母がいて、千人もの子ども産みました。しかし、子を育てる栄養をつけるため、よその子を捕まえて食べるという鬼のような行いで、人々から恐れ憎まれていました。ある時、お釈迦さまは一計を案じ、彼女が一番可愛がっていた末の子を隠します。すると彼女は気も狂わんばかりに嘆き悲しむのです。お釈迦さまは「千人のうち一子を失うもかくの如し。いわんや人の一子を食らうとき、その父母の嘆きやいかん」と戒めました。そこで訶梨帝母は自分の過ちを悟り、お釈迦さまに帰依して、安産・子育(こやす)の神となり、人々に拝まれるようになりました。ご存じ鬼子母神(きしもじん)のいわれです。子を思うあまり鬼となり、また改心もした母です。
さて、江戸後期文政4年に、現在の青森県八戸市の豆腐屋に万吉という子が生まれました。9歳の時母と一緒にお参りした寺で、地獄極楽絵図を見ます。善い行いをすれば極楽、悪い行いをすれば地獄行きと教えられ、母も地獄に行くというのです。そのわけは、「悪いことはすまいと思っても、お前を可愛がるあまり、知らず知らずのうちに罪を作ってしまうからだ」と。「私がいなければ、極楽に行けますか」と尋ねると、「一子出家すれば九族天に生ずと言って、一人の立派なお坊さんが出た家は、父母だけでなく九族つまり親戚の者もみな極楽の天上界に生まれ変われるのだ」
以来、万吉は坊さんになって母を極楽に行かせる決心をします。しかし、母はなかなか出家を許しません。万吉13歳の時、母はその一途な気持ちに打たれ出家を認めます。修行もしないで偉ぶった坊さんにだけはなるなと釘を刺して。万吉は持ち前の一途さで修行に励み、一角(ひとかど)の僧となりました。21歳の時師匠の死を機に江戸に上り、更なる研鑽を積みます。めきめき頭角を現し、23歳で江戸の寺の住職となります。その寺の伽藍の修復を手がけたり、大説法の法会を修行して、27歳にして大和尚の位に就きました。
故郷に錦を飾る思いで、16年ぶりに帰郷します。誰もが出世した万吉を大歓迎します。しかし母だけは会おうとせず、背を向けたままこう言います。「万吉、何しに帰ってきた。大和尚になったくらいで、地獄行きの母を救えるというのか。母のことなどどうでもいい。りっぱな坊さんとは、やるべきことを怠らず、多くの人を笑顔にすることじゃ。ここで留まっては何事にも甘えてしまう。いちいち家に戻ったりするんじゃない。とっとと江戸へ帰れ」
万吉はハッと気づき、「私が至りませんでした。どうか父さん母さんお達者で」と、そのまま江戸に戻り、修行しなおすのでした。母は誰よりも万吉に会いたい、その晴れ姿を拝みたいとさえ思ったはずです。しかし、出家者には甘えや慢心、里心が一番の敵であることを見極めていたのです。そこで鬼子母神ならぬ心を鬼にした振る舞いに出たのです。鬼より強い母の愛です。その愛に応えた万吉こそ、大本山總持寺独住第3世西有穆山禅師です。曹洞宗の最高位の管長にもなりました。
ここでお知らせいたします。4月のカンボジアエコー募金は、1,022回×3円で3,066円でした。ありがとうございました。それでは又、5月21日よりお耳にかかりましょう。
※参考文献:西有穆山禅師顕彰会発行『ぼくざんは行く』原案監修 髙山元延
【1309話】 「なぜ大人が生まれてこない」 2024(令和6)年5月1日~10日
住職が語る法話を聴くことができます

お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第1309話です。
「生まれてくるのはなぜ赤ちゃん」という郁人君(8)の新聞投書を紹介します。おばさんに子どもが生まれて、抱っこさせてもらい、そこで感じたことを書いています。「ちっちゃいけれど、大人と同じものがいっぱいありました。赤ちゃんは今のぼくとちがい、やりたいことを泣いて知らせることしかできません。/なぜ生まれてくるのは赤ちゃんなのでしょう。なぜ、大人が生まれてこないのでしょうか。/大人が生まれたら手がかからないし、すぐに働いてお金をかせいでくれるのに、大人が子どもを育てたいからでしょうか。大人だと食べる量が多くて困るからでしょうか。それとも、少子化どころかまちから子どもがいなくなり、老人だらけになってしまうからでしょうか」
最初から大人で生まれてこないのはなぜ、というのは子どもらしい発想です。しかし、その後の展開は大人顔負けです。労働力や食料の問題、少子高齢化にまで言及しています。赤ちゃんが生まれて、大人になるということに、大人は何の疑問も抱きません。大人と同じものがいっぱいあるから、赤ちゃんも大人になれます。でも、赤ちゃんにしかないものがあります。意思表示は泣くだけということです。おっぱいが欲しい時、おしっこの時、体の具合が悪い時、全て泣いて知らせます。周りの人を困らせたいわけではありません。純粋に自分の意思表示です。
人は生まれて16カ月つまり1歳4カ月で「1」がわかるそうです。泣くしかないときは、泣くこととひとつになっている状態です。他に成す術がないとはいえ、迷っている暇もないのです。そして32カ月つまり2歳8カ月で「2」がわかるといいます。たとえば父と母の違いが判るとかです。更には、嘘泣きや笑顔の使い分けなど、高度な選択ができるようになります。それは迷いの始まりでもあります。
「生まれてくるのはなぜ赤ちゃん」という疑問に対して、お釈迦さまなら次のように答えるかもしれません。「人は成長過程で様々な知識や経験を身につけます。そして2ばかりか3や4という分別ができるようになります。更に自分の好き嫌いという「我」が芽生えます。たとえばその結果AちゃんはいいけどBちゃんは嫌だなどと、いじめにつながることもあります。それが迷いです。人は迷わず泣いてひとつに成りきっていた純粋な生き方を忘れがちです。仏さまとは、自分が嫌なことは相手も嫌だろうという思いやりの気持ちで、分別を取り除いた人です。誰でも赤ちゃんの純粋な心を持っていたのだから、きっと仏にさまになれます。大人は赤ちゃんを育てながら、純粋に生きることを学び直せます。赤ちゃんは大人になるより先に生まれているまさに先生なのです」
郁人君の投書は次のように結んでありました。「ぼくは、赤ちゃんに生まれてよかった。働くようになるまでに、遊んで自由にすごせる時間がたくさんあるからです」。迷わず遊びに夢中になることも「子どもという仏」の特権かもしれません。良き子どもの日を・・・。
それでは又、5月11日よりお耳にかかりましょう。
【1308話】 「花咲か爺さん」 2024(令和6)年4月21日~30日
住職が語る法話を聴くことができます

お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第1308話です。
枯れ木に花を咲かせたのは「花咲か爺さん」、被災地の荒地に花を咲かせたのは「NPO法人三島緑の会」です。静岡県三島市の団体で、東日本大震災後の2013年から日本沙漠緑化実践協会の植樹活動に参加し、毎年山元町に桜を植樹して下さっています。一昨年はコロナ禍のためお出でいただけませんでしたが、苗木を送って下さいました。縁あってそのうちの13本を徳泉寺にいただきました。
徳泉寺は徳本寺の末寺で、海のすぐそばにあったため、大津波ですべてが流されました。本堂は全国からの「はがき一文字写経」の功徳で再建できました。しかし、あたりは災害危険区域のため、民家はなく「ポツンと一軒家」風です。周りに何もないので風当たりは強く、果たして桜は根付くだろうかと心配でした。しかし2年経った今年3月末、河津桜と思われる品種の1本が、どこよりも早くピンクの花一輪を咲かせました。「サクラサク」まさに復興のお墨付きをいただいたようでした。
さて「花咲か爺さん」の話を思い出してみましょう。弱った子犬を助けた優しいお爺さん。「ここ掘れワンワン」と子犬に言われるまま、畑を掘ると大判小判がザクザク。欲張り爺さんがまねをして、子犬が鳴くところを掘ってもガラクタばかり。激怒して子犬を殺してしまいます。優しいお爺さんは子犬をお墓に埋め、そばに1本の木を植えました。あっという間に大木になりました。子犬が夢に出て「大木で臼を作って」と言います。その臼で餅をつくと、またも大判小判がザクザク。
欲張り爺さんが強引にその臼を借りるも、出てくるのはガラクタばかり。怒り狂い臼を燃やしてしまいます。優しいお爺さんは灰になった臼を思い悲しんでいると、また子犬が夢に現れます。「桜の枯れ木に灰を撒いて」と頼まれます。その通りにすると、満開の桜が咲きました。「枯れ木に花を咲かせましょう」と次々に灰を撒いて花を咲かせました。お殿様が評判を聞きお出でになり、感動してたくさんのご褒美にあずかりました。欲張り爺さんはねたんで真似をしましたが、花が咲くどころか、灰がお殿様の目に入り、とんだ無礼者ということで、牢獄に入れられました。
大震災当初私は、瓦礫に覆われた大地に立ち、もはや草1本も生えないだろうと覚悟しました。まさに枯れ木のような状態でした。「三島緑の会」の桜植樹は、花咲か爺さんのようです。子犬の存在に津波で犠牲になった人々が重なります。臼は失った家屋敷や財産、思い出でしょうか。臼の灰は無常を象徴しています。無常なるがゆえに、きっとまた花は咲くと信じて、「三島緑の会」は植樹を続けてくださいました。花咲か爺さんが灰を撒いたように。そして確かに桜は咲いたのです。
「桜ばな いのちいっぱいに 咲くからに 生命(いのち)をかけて わが眺めたり」岡本かの子の歌です。大震災から13年。多くの命の上に生かされている私たちであり、桜の花であると思わずにはいられません。できるなら、津波を牢獄に閉じ込めておきたいものです。
それでは又、5月1日よりお耳にかかりましょう。

一輪の桜
【1307話】 「揺らがず大遠忌」 2024(令和6)年4月11日~20日
住職が語る法話を聴くことができます

お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第1307話です。
たとえばですが、「正月の元旦に地震の避難訓練をします」と言われて、参加しますか?正月早々とんでもないと、誰でも思います。しかし無常なる自然は、正月とか人間の都合に忖度しません。能登半島では元旦にとんでもない地震が起きたのです。
実は能登半島は曹洞宗にとっては聖地です。曹洞宗には本山が2つあります。福井県の永平寺と横浜の總持寺です。元々總持寺は輪島市の門前町(まち)に、今から703年前の1321年に、瑩山禅師が開かれました。その後、明治31年(1898)に大火でほとんどの伽藍を焼失。それを機に明治44年、新しい時代の発展を願って、現在の横浜に移転しました。そして能登の總持寺は別院という位置づけで、總持寺祖院と称され、往時の姿に再建されました。
聖地なる由縁は、永平寺を開かれた道元禅師の時代は、まだ曹洞宗という名称は用いられていません。瑩山禅師が後醍醐天皇から「日本曹洞宗出世第一道場」の綸旨(りんじ)をいただき、以来曹洞宗の中心道場となりました。それというのも、瑩山禅師は能登に良港があることから、海上交通を利用して、曹洞宗の教えを全国に発信したのです。
その元になったのは、本山の住職が短期間に交替し、寺院の発展・護持に努める「輪住制」です。多くのすぐれた僧侶に活躍の場を与える機会にもなりました。全国の僧侶が住職に指名されると、おつきの僧侶をはじめ、本山を維持するのに必要な人材、物資等と共に、船で本山に上りました。こうして、總持寺が横浜に移転するまでの570年余りにわたって、曹洞宗の教えは、能登より発展していきました。同時に能登は全国との交易が盛んになり、輪島塗などの文化も全国に広まったのです。
さて、亡くなってから50年毎に、宗派を開かれた祖師などの功績を偲んで行う法要を遠忌と言います。そして瑩山禅師は、今年700回大遠忌に当たります。曹洞宗では全国を挙げて4月1日から21日まで、大本山總持寺で法要を営みます。よりによって50年に一度というときに、能登半島地震をどう受け止めたらいいのでしょう。
瑩山禅師のお墓である祖廟・伝燈院は能登の總持寺祖院にあります。祖院では平成19年の地震でも甚大な被害があり、3年前に復興したばかりでした。この度も前回にも増して、大きな被害を受けました。しかし伝燈院は明治の大火でも、平成・令和の地震でも難を逃れました。瑩山禅師曰く「無常を観ずることを忘るべからず。是れ探道の心を励ますなり」。探道とは道を探すと書きます。無常なる自然は常に揺らいでいます。そのことを忘れずに心を励まし修行に打ち込むべしということでしょう。どんなことがあっても坐禅修行する時のように動じない大切さを伝燈院は訴えています。私たちは700年の教えの燈を受け伝えていかなければなりません。それは能登半島復興への道でもあります。
ここでお知らせいたします。3月のカンボジアエコー募金は、1,136回×3円で3,408円でした。ありがとうございました。それでは又、4月21日よりお耳にかかりましょう。
【1306話】 「シッダールタ」 2024(令和6)年4月1日~10日
住職が語る法話を聴くことができます

お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第1306話です。
「文殊丸」「行生」という2人の名前で、どなたかわかりますか。ヒントはどちらも曹洞宗に関わる方です。文殊丸は大本山永平寺を開かれた道元禅師、行生は大本山總持寺を開かれた瑩山禅師の幼名です。昔は幼い時に仮に名付ける名前や元服以前の名前を持つことがあったようです。
さて、4月8日はお釈迦さまがお生まれになった日で降誕会(ごうたんえ)と言います。今から2500年ほど前の紀元前463年、現在のインド国境に近いヒマラヤ山脈の麓のカピラ国のシャカ族の国王スッドーダナとその妃マーヤーの間に生まれました。マーヤー妃は出産のため里帰りの途中、ルンビニの花園でお釈迦さまをお生みになりました。花咲き乱れる中で誕生したので、「花まつり」と称してお祝いされます。
シャカ族では、王子となる男の子が生まれたので、国を挙げての祝福に包まれました。父である国王は、賢そうな王子を見て、国一番の占い師アシダ仙人に将来を占ってもらいます。すると「将来は全世界を支配する王となるか、無上の悟りを開かれる仏陀となられるでしょう」と告げられました。そして「シッダールタ」と名付けました。「目的を達成する者」という意味があります。因みに姓は「ゴータマ」です。「ゴータマ・シッダールタ」がお釈迦さまの幼名です。
しかし現在ではお釈迦さまの幼名は、あまり馴染みがないかもしれません。無上の悟りを開かれてからは、シャカ族のお生まれなので「お釈迦さま」と親しみを込めて呼んでいます。正しくは「釈迦牟尼仏」と言います。「牟尼」とは「聖なる人」という意味です。または悟った人ということで「仏陀」ともお呼びします。私たち僧侶は、降誕会などの法要の時には、最尊最上の人類の師と仰いで「大恩教主本師釈迦牟尼仏」とお唱えします。
文筆家の平川克美はこう言いました。「人生の中で 誰もが一度だけ詩人になると 聞いたことがあった 生まれてくる子どもの名前を考えるときである」。生まれくる者は誰でもその将来が明るく豊かで幸多かれと願われているはずです。その願いを言葉として詩のように凝縮して贈られるのが名前であるというのでしょう。
お釈迦さまは、いただいた幼名の如く目的を達成されました。まさに悟りを開き人々を導かれました。お釈迦さまの言葉を詩のように綴られた『発句経』に次の一節があります。「ささやかなる 楽しみを棄てて 若し 大きなるたのしみを得んとせば かしこき人は 彼岸(さとり)の大楽をのぞみて 小さきたのしみを すてさるべし」。お釈迦さまがシャカ族の王子という地位を捨て求めた誠の幸せとは、地位や名誉やお金という「小さきたのしみ」ではなく、全世界の人の心の安らぎという「大楽」なのです。
それでは又、4月11日よりお耳にかかりましょう。
【1305話】 「雪の行脚」 2024(令和6)年3月21日~31日
住職が語る法話を聴くことができます

お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第1305話です。
わが山元町は「東北の湘南」などと呼ばれることがあります。宮城県の最南端で太平洋に面しています。温暖で大きな台風もほとんどありません。積雪は年数回程度で、いちごやりんごが名産です。しかし、町の東側約12キロはすべて沿岸部です。それが災いし、東日本大震災の大津波は町の40%を襲い、甚大な被害をもたらしました。以来「東北の湘南」とは言い難くなりました。
637人の犠牲者の霊を追悼すべく、3月6日に青年僧侶と共に慰霊行脚をしました。なんとその日は雪に見舞われました。「東北の湘南」を自負する者にとって、よりによってこの日に降らなくてもいいではないかと、天を恨みたくなる気持ちでした。しかし、元旦に発生した能登半島地震を思えば、自然界の無常なる振る舞いは、誰に忖度をするわけでもなく、極めて自然な姿なのだと納得せざるを得ません。
ともかく、大津波で本堂などすべてが流され、その後復興した徳本寺末寺の徳泉寺で、般若心経を唱えて出発です。ゴールは5キロ先の千年塔です。それは徳本寺の中浜墓地跡に建つ日本最大級の古代五輪塔の慰霊塔です。中浜墓地も津波で壊滅状態になり現在は移転しました。途中防潮堤を兼ねた嵩上げ道路を通りました。あたりに民家はなくなり、広大な農地が見渡せます。しかし、その農地のそこかしこで、多数の犠牲者が発見されたのです。唱えるお経にも気持ちが入ります。
行脚中に唱えるお経は、般若心経が一般的です。「摩訶般若波羅蜜多心経」が正式名称です。「波羅蜜多」とは「パーラミター」で「彼岸に到る」という意味です。彼岸とは悟った人が行くところです。その悟りの内容を般若心経は説いています。「五蘊皆空」すべてのものは空であると言っていますが、空は空っぽということではありません。固定した実体はなく全ては変わっていくものと捉えるべきです。まさに時が過ぎ、形あるものが少しずつ変化する無常のことを言います。
その空や無常を、腹の底から納得しないと、つい愚痴がこぼれます。どうしてこんな時に雪が降るのと思いながら行脚しては、慰霊にはなりません。「心無罣礙」とらわれない心でひたすらにお経を唱え、歩かなければならないのです。その時「能除一切苦」よく一切の苦しみを除くことができるのです。もがき苦しみ犠牲になられた方へ少しでも慰めの心が届くと信じて行脚すれば、私自身も仏の道を歩んでいると実感できます。
般若心経の最後は「羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶(ぎゃてい ぎゃてい はらぎゃてい はらそうぎゃてい ぼうじいそわか)」という呪文で結ばれます。意訳すれば「行こう 行こう 彼岸へ行こう 共に悟りの道を開こう」となります。行きつく彼岸は湘南のような気候のところでしょうか。いやいやそれにとらわれては、また自然に足を掬われてしまいます。暑さ寒さも彼岸から始まると心することも必要です。
それでは又、4月1日よりお耳にかかりましょう。