テレホン法話 一覧

【第1297話】 「一龍の人」 2024(令和6)年1月1日~10日

住職が語る法話を聴くことができます


 お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第1297話です。

 あけましておめでとうございます。今年の干支「辰」という漢字は、「シン」とも読み、手偏が付けば、「振動」するの「振」となり、「振るう」と読めます。また辰の上に「曲がる」という字を書けば、農業の「農」という字になります。その字の成り立ちには、貝殻で土を柔らかにするという意味があります。鍬を振るい土を柔らかく耕すのは、農業の基本ということが納得できます。

 さて、辰年は動物で言えば龍です。十二支の中で唯一架空の動物です。しかし、インドや中国・日本では縁起のいい動物として珍重されています。仏法の守護神でもあります。特に私たちの修行道場では、修行僧を敬って「龍象」と呼んでいます。ドラゴンとエレファントが合体して、体は象ですが首から上は龍という最高の姿の象徴です。

 禅語に「三球浪高こうして魚龍(うお りゅう)と化(か)す」というのがあります。中国の黄河の治水工事を命じられたが失敗して殺された父の遺志を継いで、その息子が難工事を成功させました。その工事というのは、黄河の上流の竜門山を三段に切り崩して水を通したというものです。三段の滝は「竜門の三級」と言われ、水の勢いは何ものも寄せつけないほどすさまじいものです。そこに多くの魚が集まり、滝を登ろうとします。見事に登り終えると頭に角が生え、龍の姿になり、雲を呼び雨を降らせ天に昇ると伝えられています。ご存じ立身出世の関門としての登竜門のいわれとなっています。勿論、父の遺志を継いで難工事を果たした息子の精進を讃え、努力をすれば立派な人間になれるということも意味しています。

 登竜門を突破した人は、まさに一流の人でしょう。昨年で言えば、大谷翔平選手や藤井聡太八冠の活躍は一流中の一流です。彼らの「竜門の三級」は別格の規模であったはずです。そこをいとも簡単に越えて、「サンキュウ」と微笑んでいるように見えますが、陰ながらどれだけの努力精進があったのかと思わざるを得ません。

 翻って私はと言えば、「竜門の三級」越えはもはや無理です。それでもせっかくの辰年ですから、怠ることなく精進して龍になろうという気概で、「イチリュウ」の人を目指します。一つの龍という意味での「一龍」です。つまり仏法の守護神の龍を意識して、仏の教えの一端を、このテレホン法話を通じて伝え続けましょう。龍は龍神でもあり、雨を降らし大地を潤し、恵みをもたらします。その大地に鍬を振るって土を耕すように、このテレホン法話が、みなさまの心の耕しになれば幸いです。年に因み、一龍という一つの龍の法話が、世の中の役に立つように精進してまいります。今年もよろしくお聴きください。

 それでは又、1月11日よりお耳にかかりましょう。

【第1296話】 「カーンとゴーン」 2023(令和5)年12月21日~31日

 お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第1296話です。

 「掃除して悪いことはなにもない。奇麗な気持ちになって清々しい」女優の黒木瞳さんの言葉です。大掃除の時期ですが、掃除の功徳というのは確かにあります。

 中国の唐の時代、香厳(きょうげん)という禅僧がいました。若いときから聡明で、一を聞けば十を知るほどの博識でした。ある時師匠から、「父母未生以前の一句を示せ」と言われました。未だ生まれいづるその前の心境を言ってみよということです。香厳はこれまで学んだことや知識を総動員して答えます。しかし、何を言っても「それは頭で考えたこと、それは本に書いてある、それは単なる理屈に過ぎない」と言って、ことごとく退けられます。香厳は行き詰まり、「どうか私のためにご教示ください」と懇願します。師匠は「私が教えてもそれは私の言葉であり、お前の心境ではない」と突き放されます。

 香厳は自らの愚鈍さを思い知り、これまで学んだすべての本を焼き捨ててしまいます。もはや仏法を学ぶことは諦めようと決心します。その後、かつて慕った慧忠国師の墓のそばに庵を結び、墓守をしながら坐禅に励みました。そして、掃き掃除をしているとき、箒で飛ばされた小石が竹に当たり、カーンと響きました。その途端香厳は、ハッとして大いなる悟りを得ることができました。曰く「一撃、所知を忘ず」つまり、竹に小石が当たった音は、ゴツンと一撃を食らったかのようで、一瞬にしてすべてのものを忘れさせてくれた。心につかえていたわだかまりやとらわれもなくなったという意味でしょう。

 下手な理屈や知識にとらわれて、頭の中だけで禅を理解しようとしても、それは本物ではありません。香厳は無心になっての掃除の功徳もあって、父母未生以前つまり、生まれる前の純粋無垢で清々しい心境に至ることができたのです。修行すれば悟られるという見返りを求めている間は、邪念の塊です。

 さて、私たちも年末に当たり、香厳の大いなる悟りとまではいかなくても、プチ悟りを目指してみましょう。先ずは身の回りを掃除をして、香厳が本を焼却したように、これまでにため込んでしまった必要ないものを処分してみましょう。かなり清々しい気持ちになり、プチ悟りを味わうことができます。それから肝心なことは、心の大掃除です。誰しもこの一年、辛いことや嫌なことがあったはずです。その沈んだ気持ちのまま、年を越すのは精神衛生上好ましくありません。漫画作家の小池一夫さんは言いました。「過去には本当につらい日もあったンだけど、今日はあの日から一番遠い日」。一年の一番端っこにある大晦日に、除夜の鐘を聴いて、心をリセットしては如何ですか。香厳の大いなる悟りはカーンという竹の音でしたが、除夜の鐘はゴーンで、音だけは大いなる悟りを勝っています。

 それでは又、新年1月1日よりお耳にかかりましょう。

【第1295話】 「一並びのお守り」 2023(令和5)年12月11日~20日

 お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第1295話です。

 「縁起でもない」ということもあれば、「縁起をかつぐ」場合もあります。縁起でもない縁起をかつぐ人はいないでしょう。縁起って何なのでしょう。12月8日は、お釈迦さまが、お悟りを開かれた日です。そのお悟りが、実は「縁起」なのです。

 お釈迦さまはお悟りで、「縁起の法」に目覚められました。それは、この世の一切のものは、相互に関係しあって存在しているということです。あらゆるものは因縁によって生じるとも言えます。花という存在は最初から花だったのではありません。種を蒔くという原因が必要です。更には水や光などの縁に恵まれなければなりません。結果として、美しい花を咲かせることがあるわけです。

 私たちが「縁起でもない」とか「縁起をかつぐ」のも、すべてはこの世に生まれてきたという原因があるからです。ですから、様々な原因は誰にでも備わる可能性があります。それを選択するかしないかは、その人の人生観や価値観の判断が大きいかもしれません。選択したとしてどのような縁をつないで、良い結果に結びつけるかは、まさにその人の生き方次第です。

 東日本大震災という原因で本堂などすべてが流出した徳本寺の末寺の徳泉寺は、本尊さまだけが無事でした。どんな災難に遭っても人々の支えになる一心で踏み止まったと信じて、「一心本尊」と名付けました。奇跡の本尊の下に、全国から寄せられた「はがき一文字写経」の縁により、本堂が再建されました。その因縁に導かれて、昨年3月より毎月第2土曜日の午前に写経会を行っています。全国のご支援者に対する感謝の気持ちや、被災地復興・世の安寧を願う心を込めて写経していただき、一心本尊の下に納経しております。

 先月11月の写経会は、たまたま11日でした。そこでちょっと縁起をかついでみました。11時11分に、全員で一斉に「一」という文字を、カードに写経したのです。その「一」に仏教のシンボルの印鑑である「三宝印」を捺印しました。そしてカードの下の方には、「11月11日11時11分」と記して、「一」が9つ入ったオリジナルお守りカードを作りました。「災難消滅 諸縁吉祥」等を祈願して、みなさんにお授け致しました。九は永久でもあり、仏教では縁起のいい数字です。

 「一」は勿論「一心本尊」の一でもありますが、二つではない、つまり一つに成りきった迷いのない状態を言います。悟った姿そのものです。このお守りを持てば、どんな原因があろうとも、迷わず一心に取り組むことによって、良い結果を目指せますと念を押しました。11月11日にこの一並びのお守りを授かった人は、嘘のようですが「11人」でした。何と縁起のいい方々でしょう。

 ここでお知らせいたします。11月のカンボジアエコー募金は、1,509回×3円で4,527円でした。ありがとうございました。

 それでは又、12月21日よりお耳にかかりましょう。



一並びのお守り

【第1294話】 「只管打坐」 2023(令和5)年12月1日~10日

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 お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第1294話です。

 ちょうど1年前の12月1日に、同じ郡内の常因寺の住職さんが、重篤な病気であると知らされました。翌日急ぎ寺に伺うと、何とか面会はできたものの、会話は叶いませんでした。そして次の日の3日に亡くなったのです。70歳でした。夏に研修会でご一緒したばかりで、日頃から親交があったので、信じられない思いでした。

 彼の住職の就任披露である晋山式は忘れられません。新しい住職が須弥壇上に登り、仏法を敷衍する意味で、多くの僧侶と大問答を繰り広げた時です。若い僧侶が「如何なるか仏法の大意?」と尋ねると、彼は「只管打坐」と答えました。次の者が「如何なるか須弥壇上の風光?」それに対しても「只管打坐」。その後も矢継ぎ早に問答をかけますが、すべて「只管打坐」という答えを貫き通したのです。

 禅問答は、時に分かりにくい問答にたとえられます。まさにこの時は、禅問答の極みと思った人もいたかもしれません。只管打坐とは、ただひたすらに坐禅をするということです。坐禅は曹洞宗の命脈です。そして彼の問答は、坐禅こそ命であり、大自然の営み、人間の一挙手一投足、すべてに通じるという信念があってのことだったのでしょう。

 私たちの日常は、「我他彼此」根性の塊のようなものです。つまり我と他と、彼と此れという対立や偏見に満ちた生き方をしています。坐禅は、比べたり偏った見方を取り払い、まっさらな心を養う修行です。そして、あるがままにすべてを受け入れることができるようになります。白い色はそのまま白い色に映り、何ら邪念が働く余地がありません。それが只管打坐の境地です。

 12月8日はお釈迦さまが、まさに只管打坐を極めた日で、成道会と言います。成道とはお悟りという道を成就したという意味です。お釈迦さまは、なぜ生きるのかと悩み、29歳の時出家して、難行苦行の修行に打ち込みます。6年間かけても何ら解決には至りませんでした。そこでお釈迦さまは、苦悩を脱するまではこの座を立たないという不退転の決意で、菩提樹の下で坐禅三昧に入ります。とうとう8日か目の朝、明けの明星をご覧になったとき、大いなる解脱を得ました。つまり、偏っている心、こだわっている心、囚われている心という煩悩と妄想から解き放たれたのです。

 さて、只管打坐に成りきった住職さんの本葬儀は、1年の準備期間を経て、先月末に行われました。その舞台となった本堂は、彼が生涯をかけて念願し、4年前に完成した只管打坐の殿堂ともいうべき、大伽藍です。私は奠茶師という脇導師の役をいただき、彼に次のような惜別の一句を送りました。「只管打坐 無言無説にして 誠を究める」。その時、偶然とはいえ、確かに一匹の白い蝶が本堂に入ってきて、悠々と舞い始めたのです。その姿はあたかも「私は只管打坐の境地で、何の憂いもなくこれからも飛び続けるよ」と、彼が言っているようでした。

 それでは又、12月11日よりお耳にかかりましょう。

【第1293話】 「魔法の帚」 2023(令和5)年11月21日~30日

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お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第1293話です。

縁あって柴田町の船迫(ふなばさま)中学校から生徒手作りの竹帚を3本いただきました。毎年2年生の活動の一環として、地元の方の指導を受け、5月に地元の竹林から竹を切り出し、9月に竹帚作りに励んでいます。その帚で11月には地域の清掃を行うということです。地域に根差した素晴らしい活動です。

落ち葉を掃くというときの、「掃く」という字は、手偏に帚と書きます。掃除の道具として帚はなくてはならないものです。それが地元の素材を使った、しかも自分たちの手作りの帚となれば、愛着も違うでしょうし、掃除にも力が入ることでしょう。もっとも最近は、ブロワーなる文明の利器も出てきて、掃除の仕方にも変化は見られます。ただ、ブロワーは葉っぱを吹き飛ばして集める送風機ですから、それなりの場所に限られます。きめ細かな作業には適していません。

私たち僧侶は、掃除の仕方でその修行力が試されることがあります。落ち葉を掃くときも、庭全体をきれいにすることは勿論ですが、木や植え込みの根元をきれいにしなさいと教えられました。人間でいえば足元がきれいな人、つまり磨いた靴を履いている人は好印象です。どんなに高級そうな服を着ていても、靴が泥だらけでは、がっかりです。

またブロワーにはできない帚の技としては、帚目を立てることです。掃き終わって帚の目が薄っすらついている庭は、単にゴミがないというだけではなく、仕上げがきちんとしているという印象を受けます。また、こんなことも教えられました。ゴミがなくても常に帚の目を立てておくと、草が生えにくくなるというのです。

さて、修行における掃除がどうして大事かと言えば、落ち葉は私たちの煩悩にたとえられます。「掃けば散り 払えばまたも ちりつもる 庭の落ち葉も 人の心も」。まさにその通りです。今の時期毎日枯葉が落ちてきます。今日掃いても、どうせまた明日も落ちて来るからと、サボっては修行になりません。コストパフォーマンいわゆるコスパだけを追求して費用対効果にこだわる対極にあるのが修行です。今日の落ち葉を今日掃くのが修行です。

私たちの心にも、毎日煩悩が湧いてきます。煩悩は自分の都合優先やわがままな心がもたらすものです。ほったらかしておくと、それが当たり前となり、ある種の生活習慣病に陥ってしまいます。毎日落ち葉を掃くように、自分勝手な気持ちを慎む日々の心掛けが肝要です。

船迫中学校の、地域の清掃は、我を捨て他を思いやる行いです。みなさんに喜ばれて、自分たちも清々しい気持ちになることでしょう。その時心のちりも払われたことに気づくはずです。手作りの帚は、もはや「魔法の帚」です。それを持てば掃き掃除と同じように、何事もはきはきと前向きに行動できることでしょう。
それでは又、12月1日よりお耳にかかりましょう。

【第1292話】 「故郷が微笑んだ」 2023(令和5)年11月11日~20日

 お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第1292話です。

 中学校の通学途中に小さな楽器店があり、ギターがぶら下がっていました。どうしても欲しくて、小遣いを貯めて手に入れたものの、ギターの才能がないことをすぐに納得させられました。しかし、フォークソングブームがやってきて、ギターを弾きながら歌う姿には憧れました。

 その憧れの1人は、先月74歳で亡くなった谷村新司さんです。彼の人生も中学時代に中古のギターを手にしたことが始まりとか。私はいつの間にか木魚に替わりましたが、彼はギターを手放さず「いい日旅立ち」「昴」など、歌い継がれる名曲を残しました。そして私は「遠くで汽笛を聞きながら」という歌に影響を受けたのです。

 本山で修行を終えて間もない頃。寺で書きものをしているときに、ラジオからこの歌が流れてきました。「悩みつづけた日々が まるで嘘のように 忘れられる時が来るまで心を閉じたまま 暮らしてゆこう 遠くで汽笛を聞きながら 何もいいことがなかったこの街で」。本山に修行に行くとき、故郷に愛着もなく、友だちとも縁を切るくらいの、プチ出家の気持ちでした。ほんとに僧侶として生きていけるか悩みつづける日々だったのです。

 しかし、修行を終えて寺に落ち着いてみると、あれほど遠ざけていた故郷も愛おしさが募り、離れていた友だちにも会いたい思いが湧いてきました。そんな時「遠くで汽笛を聞きながら」と言う谷村さんの歌が耳に入って来たのです。「そうか私はこの町で僧侶として生きていくしかないんだ」と、プチ覚悟のようなものが芽生えました。

 そして、気づいたら新聞チラシの裏に「汽笛が消えた日 線路は春に続いてた 一足早い季節がぼくを誘ってた 今 黒い大地に希望という文字 書きに行こう 希望が生まれた日 故郷は僕に微笑んだ」という文句を殴り書きしていました。何かが吹っ切れた感じだったのです。実はそれは「東北新幹線の歌」をイメージした歌詞のつもりでした。当時翌年に東北新幹線開業を控えて、河北新報と東北放送が記念の歌を募集していたのです。

 谷村さんは「遠くで汽笛を聞く」のですが、私は新幹線にはいわゆるの汽笛はなく、もっとスマートに走るのだろうと思い、「汽笛が消えた日 線路は春に続いてた」としました。春夏秋冬を意識して、4番までの歌詞をまとめて応募したところ、図らずも入選して、郷ひろみさんが歌って「故郷は僕に微笑む」というレコードになりました。ささやかな私の人生の中では、大きな出来事でした。以来、故郷で曲がりなりにも僧侶として生きています。「遠くで汽笛を聞きながら」の3番には「自分の言葉に 嘘はつくまい人を裏切るまい」とあります。僧侶として心がけていることでもあります。谷村さんは我が行く手を照らしてくれた「昴」のような存在です。ご冥福をお祈りいたします。

 ここでお知らせいたします。10月のカンボジアエコー募金は、908回×3円で2,724円でした。ありがとうございました。それでは又、11月21日よりお耳にかかりましょう。

【第1291話】 「36〈ミロク〉に会う」 2023(令和5)年11月1日~10日

 お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第1291話です。

 このテレホン法話は、月3回1日・11日・21日にお話を更新しています。1年で36話になります。昭和62年より継続していますので、今年で36年です。見事に36という数字が重なりました。そのおかげさまに感謝して、36を「ミロク」と呼んで、「36〈ミロク〉に会う」としゃれてみます。

 ミロクとはもちろん弥勒菩薩のことです。お釈迦さま亡き後、56億7千万年後に菩薩から仏となり、この世に現れる未来仏です。お釈迦さまに代わって人々を救ってくださいます。

 京都の広隆寺にある弥勒菩薩像が有名です。飛鳥時代の作で仏像の国宝指定第1号です。右足を左膝にのせ、右手を頬に当て、思索に耽っている半跏思惟像です。仏になったときに、どのように人々を救おうかと考えている姿ともいわれます。それにしても、お釈迦さまが亡くなってまだ2500年しか経っていませんので、あと56億6999万7500年後のことです。何と長い時間をかけて考えるものなのでしょう。

 長い時間考えるといえば、将棋の世界の長考があります。将棋と言えば藤井聡太です。この度、名人・竜王・王位・叡王・棋王・王将・棋聖・王座という将棋の8つのタイトルをすべて獲得し「八冠独占」を達成しました。

 八冠がかかった永瀬拓矢との王座戦第4局は、激しい戦いでした。藤井は午前中から1時間の長考を繰り返します。永瀬も午後には2時間の長考に入りました。午後8時前に藤井は5時間の持ち時間を使い切り、永瀬も8時半ごろに使い切ると、1分将棋の戦いとなりました。そして8時59分に投了し、藤井が王座のタイトルを奪取し八冠に輝きました。

 藤井は長考で30手以上先の局面を読み切っていると言います。弥勒菩薩のように頬に手を当て、最善の一手を考え抜いているのでしょう。21歳にして「天下無双」、他に比べるものがありません。そして、「完全に追われる立場になって、戦い方は変わるか」との質問に対して、「将棋は盤を挟んでしまえば立場の違いは全くないので、その点はこれまでと全く変わらない」と言っています。それはつまり敵は相手ではなく、どうすれば自分がさらに強くなれるかということしか考えていないということでしょう。一般的にはとんでもない頂点を極めたとしか思えないのですが、更なる高みを目指している点では、将棋界の未来仏的存在とも言えます。

 藤井の進化を他の棋士が目標として戦いに挑むなら、将棋界の未来は飛躍するような気がします。それは56億7千万年後の弥勒菩薩に現実には出会えなくても、人類が進化を続け、遠い未来にも存在できるようにという目標として、弥勒菩薩に手を合わせることに通じます。36年続けても進化のないこのテレホン法話は、弥勒には程遠いながら、人生の付録程度としてお聴きいただければ幸いです。

 それでは又、11月11日よりお耳にかかりましょう。

【第1290話】 「諦めないで明らめる」 2023(令和5)年10月21日~31日

 お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第1290話です。

 私たちが本山に修行に行くとき、修行に必要ないものは一切持つことを許されません。お金もそうです。ところが、着物の襟にお札を縫い付けて来る者がいました。何ぞの時に役立てるようにという涙ぐましい親心の仕業です。

 さて、今年のノーベル生理学・医学賞に輝いたペンシルベニア大のカタリン・カリコ特任教授の半生は劇的なものがあります。1955年ハンガリーに生まれ、水道もテレビもない幼年期を過ごします。それでも愛する家族のおかげで、10代半ばで研究者になる決心をし、遺伝物質を研究する分子生物学に励みます。しかし、30歳の時、所属先で研究費を打ち切られ、欧州ではどこも受け入れてはくれませんでした。

 唯一受け入れ先となったのはアメリカです。夫と2歳の娘と一緒にハンガリーを離れることにしました。当時は国外への通貨持ち出しが厳しく制限されていました。自家用車を売って得た900ポンドが全財産です。娘が持つクマのぬいぐるみの「テディベア」の中に隠し持ってアメリカに渡ります。「私たちのチケットは片道だけ」と、新しい世界で生きるために退路を断っての旅立ちでした。

 大学での研究はメッセンジャーRNAの医療応用でした。しかし、それは体内では異物とみなされ、強い炎症反応を起こす扱いが難しい物質でした。そのため上司からは「社会的に意義のある研究とは認めがたい」と言われ、助教授からの降格という憂き目にもあいます。助成金は全く得られないなど、いくつもの悔しい思いをします。それでも彼女は決して諦めず、基礎的研究を積み重ね、メッセンジャーRNAが免疫反応を起こさないようにする操作法を発見します。2005年のことです。それもすぐには注目されませんでした。

 そして2019年に新型コロナウイルスが流行することになります。そのためのワクチンが必要となるも、開発には数年かかるとされました。しかし彼女が発見した技術により、1年足らずで接種が始まりました。そのことにより世界中の何百万人もの命を救ったという人類貢献が、ノーベル賞で大きく評価されたのです。テディベアに財産を隠し持っての渡米がその始まりです。そして、他人に惑わされず、自分の研究に信念をもって諦めない姿勢が栄誉をもたらしました。

 世間的に諦めるとは、仕方がないと断念することです。しかし、仏教の「あきらめる」は「明るい」という字の「明らめる」つまり「明らかにする」ということで、お悟りを開くと同意語です。彼女は諦めなかったが故に、ワクチンの実用化につながる新技術を明らめることができたのです。立派なお悟りに匹敵する業績です。さて、襟にお札を入れて修行した僧侶も、仏道を明らめて悩み苦しむ人々を救っていると信じたいのですが、まだノーベル平和賞にはなっていないようです。

 それでは又、11月1日よりお耳にかかりましょう。

【第1289話】 「母の彼岸花」 2023(令和5)年10月11日~20日


 お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第1289話です。

 〈蝉の声 消えて気づけば草土手に にょっきり居並ぶ彼岸花たち〉文明 お盆のころ咲き誇っていた百日紅と交代するかのように、彼岸花が突如出現するのが例年のことでした。しかし、今年は暑さのせいか、どこでもその開花は遅れたようです。

 さて徳本寺の末寺の徳泉寺は、海のそばにあったため東日本大震災の大津波で、本堂などすべてが流されました。瓦礫すら残っていなくて、境内は白い砂浜状態でした。墓石はすべてなぎ倒され、骨堂まで抉られて、遺骨が散乱したところもありました。多くのボランティアのおかげもあって、墓地内に堆積した砂を運び出し、何とか元のように墓石を再設置することができました。

 それから数年後、お墓の片隅に彼岸花が咲いているのを見てびっくりしました。大津波で何もかも流されて、草一本も生えないだろうと覚悟をしたので、彼岸花は奇跡の赤い色に見えました。彼岸花は球根ですので、普段は茎も葉っぱも見えません。その存在は花が咲いた時しかわかりません。

 いったい誰が植えたのだろうと疑問でした。最近その謎が判明しました。彼岸花が咲いているすぐそばのお墓の近江さんが、手入れをしていたのです。今から20年近く前、近江さんのご主人が亡くなられて、お墓参りをするうちに彼岸花を見つけ、少しずつ集めて増えていったようです。それにしても大津波にも流されず、土の下でじっと耐えて、復興に向かう人々を励ますかのように花を咲かせた彼岸花の健気さに拍手です。

 最近近江さんはお歳のこともあり、あまりお墓参りができませんでした。しかし、娘さんが節目節目のお参りを欠かしません。彼岸花の球根が埋まっているあたりに、かわいらしい柵を巡らしました。踏みつけられないようにという配慮です。残念ながら今年の春、近江さんは亡くなられました。そして初めて迎える彼岸だというのに、花は咲きませんでした。彼岸花もその死を悼んでいるというのでしょうか。

 彼岸花は、花は咲いても実はなりません。繁殖は地下茎で行いますので、昆虫に受粉を助けてもらう必要はありません。それなのに、惜しげもなく花蜜を差し出し、昆虫の役に立っています。無償の愛とでもいいましょうか。それは近江さんが人知れず彼岸花を育てていた姿にも重なります。その無償の愛に応えるように、娘さんは手入れを受け継いでいます。実は彼岸花も近江さんの愛を忘れてはいなかったのです。彼岸も過ぎた10月2日に、近江さんのお墓のそばで一輪花を咲かせました。その日は近江さんの月命日でした。「年年歳歳花相似 歳歳年年人不同(年々歳々花相似たり 歳々年々人同じからず)」近江さんが亡くなっても、彼岸花は毎年花開き、亡き人の霊を慰め、お墓参りの人を励まし迎えてくれることでしょう。

 ここでお知らせいたします。9月のカンボジアエコー募金は、1,470回×3円で4,410円でした。ありがとうございました。それでは又、10月21日よりお耳にかかりましょう。



彼岸花

【第1288話】 「手拭いと日本刀」 2023(令和5)年10月1日~10日


 お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第1288話です。

 その昔、知り合いのお宅に泊めていただいた時のこと。風呂上がりに濡れた手拭いの水を切るつもりで、バサッバサッと振っていたら、当主に叱られました。その音は刀で首を切るときの音に似ているので、家ではしないよう代々教えられてきたというのです。なるほどと反省しました。

 その後、無著成恭さんの講演を聴く機会がありました。無著さんは今年7月、97歳で亡くなりました。やまびこ学校の先生としても有名ですし、ラジオの「全国子ども電話相談室」の名回答者としてもおなじみでした。歴とした曹洞宗の僧侶です。大分県の名刹泉福寺の住職などを歴任しました。その講演会は無著さんがまだ若い頃のことで、住職というよりは教育者としての雰囲気が漂っていました。上着は着ないでシャツ姿でした。山形県出身の独特の語り口で、ユニークなたとえ話や実話の紹介は、とても興味深いものでした。

 ひとつ気になったのは腰に下げている手拭いでした。失礼ながら、いかにもダサイといという感じです。しかし、講演を聴きダサイのは私の方であると気づきました。「腰に下げた手ぬぐいはハンカチに代わるものだが、汗かきの私には、ハンカチは半分の価値しかない『半価値』だ」などと笑わせながら、次のように言いました。「腰に下げている手拭いは、日本刀のつもりです。武士であった先祖から伝わる家訓に曰く。腰に差してある日本刀は人を切るためではない。自分の魂がヘソから上にあがってこないように、臍下丹田(せいかたんでん)におさえておくためだ。腰から日本刀をはずしたら、日本人の魂はおさえがきかなくなり、肚(はら)から胸、胸から頭、頭からトサカへとのぼってしまい、思わぬ失態をしでかすことになろう。どうしても、腰から日本刀をとれというなら、かわりに日本手拭いくらいは差しておけ」

 戦前から昭和20年代までは、誰でも腰に手拭いを差していて、恥ずかしくなかった。腰に手拭いの日本人がいなくなって、心コロコロと移ろいやすい軽薄な風潮がはびこるようになってきた。つまり心をしっかり押さえておく頑固なまでに動かない魂がなくなってしまったと言うのです。魂は信念と置き換えてもいいとも言っています。

 最近の出来事で言えば、某政治家は洋上風力発電業者に有利になる国会質問をして、7千万円を超える賄賂を受け取っていました。挙句にその金は、馬主として馬につぎ込んだというのですから、まさに「馬鹿」としか言いようのない、馬に魂を蹴っ飛ばされたようなものです。

 さて、無著さんは生前「私が死んだら、地獄に行くのよ。そこが次の布教所で、地獄に来る人を極楽に送る仕事が待っているからね」と言っていました。無著さんは地獄で今頃、魂のない生き方で悪を重ねた者を、日本刀に見立てた手拭いで、バサッバサッと一刀両断して、心を改めさせているでしょうか。

 それでは又、10月11日よりお耳にかかりましょう。