テレホン法話 一覧
【第1338話】 「本来の家族葬」 2025(令和7)年2月21日~28日
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お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第1338話です。
「家族とは『ある』ものではなく、手をかけて『育む』ものです」8年前105歳で亡くなった聖路加国際病院名誉院長の日野原重明さんの言葉です。家族なんて日常生活では、当たり前に「ある」ものだと思ってしまいます。家族の一員を亡くした時、つまり「ある」ものがなくなったとき、どのように対応できるかで、その家族の日常生活が垣間見られることがあります。
先日お檀家の98歳の女性がなくなりました。17年前長いこと自宅で献身的に介護した旦那さんに先立たれました。ご自分も晩年は介護される身となりましたが、やはり自宅に於いて、家族の方の親身なお世話があり、天寿を全うされました。葬儀には子どもや孫さんは勿論のこと、親類縁者がたくさん集い最後のお別れをしました。しめやかな中にも故人の人柄が偲ばれるとてもいい時間が流れました。
孫さん4人がおばあちゃんに向かってお別れの言葉を述べました。ある孫さんは、子どもの頃とても心配をかけた時があったけど、おばちゃんはすべてを受け入れてくれて助けてもらったと涙ながらに感謝を伝えていました。別の孫さんは、いつもおばちゃんに言われた「兄弟は仲良く、喧嘩はするな」という言葉を紹介し、「今もちゃんと守っているから」と心強く呼び掛けていました。
中でもほほえましかったのは、おばあちゃんに保育所の送り迎えをしてもらっていた孫さんの言葉です。「僕の両親は働いていたので、保育所に行くときは、おばちゃんの自転車の後ろに乗せられて通いました。保育所の前に長い坂があります。おばちゃんが自転車を漕ぐのがたいへんそうなので、僕は少しおしりを浮かせ、おばちゃんの腰のあたりを押してあげました。今思えばそんなことをしても、何の力にもならないはずです。でもおばちゃんは、お前に腰を押してもらうととても楽だよ、助かるよと言ってくれました。それがうれしくて、毎日おばちゃんの腰を押してあげました」
何という心やさしい孫さんでしょう。またそれに応えたおばちゃんは、自転車を漕ぐ以前に、常に孫さんや子どもさんに勿論旦那さんにも、やさしい言葉をかけ、いたわりの態度で接していたのでしょう。手をかけ育んできた家族だったのです。だから、おばちゃんが亡くなったという一大事に於いて、自然に感謝の言葉を述べることができた孫さんたちでした。
昨今ごく内輪だけでお別れをすることを「家族葬」などと称しています。この度のおばちゃんもそのような葬儀だったら、孫さんの本音を聞くことができたでしょうか。何より多くの人がおばちゃんの人柄やその家族の家族らしさに触れることはできなかったでしょう。その意味では家族の何たるかを示してくれたこの度の葬儀こそ、本来の「家族葬」といえるものでした。
それでは又、3月1日よりお耳にかかりましょう。
【第1337話】 「涅槃寂聴」 2025(令和7)年2月11日~20日
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お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第1337話です。
「言っていることは聞こえていて、うなずくが、しゃべることはほとんどできない。目を開けるのも辛そうだった」。2021年11月9日に99歳で亡くなられた作家で僧侶の瀬戸内寂聴さんの病床での様子。最期まで看取った秘書の瀬尾まなほさんが伝えたものです。
死の1カ月ほど前に、一時退院して新聞連載の随筆を書き上げたのが最後の原稿だったと言います。生涯現役を貫き通したのです。それを裏付けるような一文を亡くなる半年前に残しています。「長すぎた一生だと思います。様々なことを人の何倍もしてきました。全てに今は悔いがありません。十分に生きた我が一生でした」。
99歳ともなれば誰もが一線を退き、それなりの日々を送ることでしょう。日常生活を普通に営める人は多くはありません。寂聴さんは「長すぎた一生」と言うものの、その生涯が色褪せることなく、最期まで密度の濃い生き方でした。僧侶としてお釈迦さまのご生涯をなぞるような生き方を心がけていたのかもしれません。
お釈迦さまは今から2500年ほど前の2月15日に80歳でお亡くなりなられました。この日を涅槃会(ねはんえ)と言います。お釈迦さまは説法の旅の途中、鍛冶屋のチュンダの供養の食事をいただき、腹痛に襲われるのです。そして沙羅双樹の林の中に身を横たえられました。衰弱がひどい中、弟子たちに最後の教えを説かれました。「私はなすべきことはすべて成し終えた。何ら憂うところはない。いたずらに悲しんではならない。世は皆無常である。私の死に逝く姿を黙って見つめなさい」
たとえ釈迦と崇められようが、無常の風が吹けばその灯は消える、その理をしっかり見届けよと、身をもって諭されたのです。寂聴さんも「全てに今は悔いがありません」と言いながらも、「目を開けるのも辛い」という姿を晒しました。99歳まで健筆を揮われたものの、年老いていくことや病の前には如何ともしがたいという無常の姿を、これまた身をもって示されました。
「死ぬる日は ひとりがよろし 陽だけ照れ」寂聴さんの句です。澄み渡り達観した気持ちが出ています。誰しも一人で死んで逝かなければなりません。しかしお釈迦さまは教えを残し、私たちを導いて下さっています。同じように寂聴さん亡きあとも、休まず太陽が昇るように、寂聴さんの生き方や作品は誰かを照らしてその人生に彩を添えています。お釈迦さまの教えに「涅槃寂静」があります。涅槃は炎が吹き消されたこと、寂静は一切の煩悩を捨て去ったことで、全く清々として心穏やかな境地を言います。瀬戸内寂聴さんなら「涅槃寂聴」と言い切って、青空ならぬ天上界説法を続けておられるのでしょうか。
ここでお知らせいたします。1月のカンボジアエコー募金は、737回×3円で2,211円でした。
それでは又、2月21日よりお耳にかかりましょう。
【第1336話】 「直心の交わり」 2025(令和7)年2月1日~10日
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元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第1336話です。
「一河(いちが)の流れ掬(く)むにさえ 深き恵(めぐみ)と知るものを 真心こもる熱き茶に 疲れを癒す有難さ」という御詠歌『報謝御和讃』が此君亭に流れました。茶室で聴く御詠歌は初めてです。御詠歌が茶室に染み入るのか、茶室が御詠歌を唱える人々を包み込むのか、得も言われぬ雰囲気を醸し出していました。
此君亭とは、徳本寺開基家大條家ゆかりの茶室のことです。仙台伊達藩の重臣であった大條15代道直(みちなお)が、伊達家のお世継ぎ問題を解決した手柄により、天保3年(1832)に藩主より拝領した茶室です。当初仙台の大條屋敷にありましたが、昭和7年、大條家の拠点である山元町坂元の蓑首城(みのくびじょう)三ノ丸跡に移築されました。現在は町の指定文化財になっています。この茶室は一説には伊達政宗が豊臣秀吉より賜ったと言われるほどの貴重なものです。伊達藩の茶の湯文化を伝える唯一の遺構として歴史的評価も高いのです。
そして大條家ではもうひとつ大きな功績を残しています。それは17代道徳(みちのり)の時、戊辰戦争に敗れた伊達藩は廃藩の窮地に立たされます。その時、道徳は戦後処理に力を発揮し、伊達藩を守ることができました。その功績により、元々伊達家の分かれである大條家姓を伊達に戻す命を受けます。改名し伊達宗亮(むねすけ)と名乗ります。その4代後の子孫に伊達みきおなる人物がいます。あのサンドウィッチマンです。そしてみきおさんの祖父母が新婚当時、この茶室に宿泊したという逸話もあるのです。
しかし、茶室は老朽化に加えて、東日本大震災の被害により、存続の危機にさらされました。大震災からの復興が落ち着いた令和5年に、クラウドファンディング等で全国の方より支援を受けて、修復工事に着手。昨年11月修復完成し、一般公開となりました。そこで正月21日に修復後の杮落としや初釜の思いも込めて、徳本寺御詠歌講員と共に、茶室の歴史を学び慶祝のお唱えをしてお茶をいただく御詠歌茶会を催したのです。
この地に茶室が移転されたことは、たまたまではなく、必然だったのかもしれません。その必然に応えるべく修復された茶室に、歴史の重みを感じました。御詠歌講員のお唱えは、いつにもまして心に響きました。まるで数百年の茶室の歴史が乗り移ったかのようでした。この茶室は文人墨客が集う文化サロンであったと伝わりますが、御詠歌が唱えられたことはなかったでしょう。新たな此君亭の姿の第一歩となりました。
千利休は「直心(じきしん)の交わり」ということを強調しています。せめて茶席では世間的な利害得失や愛憎などの妄念を離れて、からっとした心の通い合いしましょうということです。茶室の御詠歌も上手く唱えようなどという雑念が消えていたのでしょう。だから「真心こもる熱き茶」は「歴史を示す有難さ」で、格別の味わいがありました。みなさまも是非、此君亭を訪ねて、直心の交わりをなさって下さい。
それでは又、2月11日よりお耳にかかりましょう。

お祝いの御詠歌奉詠
【第1335話】 「昭和100年に想う」 2025(令和7)年1月21日~31日
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お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第1335話です。
今年2025年は昭和の年号で言い換えると「昭和100年」になります。私は昭和25年生まれで、西暦では1950年です。区切りのいい数字の年に生まれました。私にはもうひとつ区切りのいい年があります。それは昭和50年です。この年に大本山總持寺に上山して、僧侶としての修行の第一歩を踏み出したのです。昭和25年にこの世に生まれ、25年後に僧侶に生まれ、今年は僧侶として50年という大きな節目です。
思えば50年前の3月、墨染めの法衣・手甲脚絆・草鞋履き・網代笠姿で、大本山總持寺の玄関に立ちました。案内を乞う木版を3打して、大きな声で次のように告げたのです。「御開山拝登並びに免掛搭(めんかた)宜(よろ)しう」つまり「本山を開かれた瑩山禅師様の元で修行致したく、禅堂への入門を許可願います」という内容です。掛搭とは禅堂にある鉤(かぎ)に荷物をかけることで、そこに滞在すること、つまり留まって修行することを言います。
やがて古参和尚さんがやって来て「何しに来た」と詰問されます。「修行に参りました」「修行はここでなくてもできる、帰れ」。勿論、ここで引き下がる訳にはいきません。またしばらくして古参和尚さんが現れて「修行とは何だ」「御開山様に仕えることです」「そんなことでは修行にならん、帰れ」とにべもありません。そんなことが、1時間も2時間もあって、やっと玄関を上がることを許されました。最初に名前等を到着帳に書かなければなりません。長時間同じ姿勢をしていたために全身がこわばり、また緊張してなかなか字を書けなかったことを覚えています。
評判の飲食店の行列に何時間も並ぶのとはわけが違います。これからどんな修行が待っているのか不安でしかないのに、長時間立たせる「庭詰め」には、訳があります。ほんとうに修行する気があるかどうか見極めているのです。この庭詰めに堪えられないような者は、これからの修行についていけないということです。事実、入門を許可されてからの修行は、それまでの生き方を一変させるものでした。朝起きてから夜寝るまで、食事も洗面も坐禅もお経も掃除もすべては仏道であることを嫌というほど叩き込まれました。
あの時帰れと言われて素直に帰ってしまったのでは、今の私はありません。許可されるまではどんなことがあっても動くまいと覚悟はしました。今さら帰るわけにはいかない、自分で決心して本山の門を叩いたのだからという思いでした。自分に嘘をつきたくなかったのす。道元禅師は「発心正しからざれば万行虚しくほどこす」とお示しです。最初の一歩の踏み出しがその後を決定づけるということでしょう。おかげさまで50年前に踏み出した一歩の方向に、迷わず歩き続けて今日まで来ることができました。あの時の「帰れ」の一言は追い返す言葉ではなく、修行に向かう背中を押してくれた言葉でした。
それでは又、1月21日よりお耳にかかりましょう。
【第1334話】 「年賀状じまい」 2025(令和7)年1月11日~20日
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お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第1334話です。
昨年のお正月、能登半島の人たちに、年賀状は届いたのでしょうか。地震発生が元旦の午後4時10分でしたので、配達はほぼ終わっていたかもしれません。しかし、その後の災害で混乱の中、年賀状を読めなかった人もいたことでしょう。また年賀状が瓦礫に埋もれたり、火災や津波で失われたかもしれません。そもそも年賀状どころではない、恐怖と不安が渦巻き、お正月そのものが吹き飛んでしまいました。
炬燵に入って年賀状を1枚1枚眺めながら、縁のある人の近況を確認したり、ご無沙汰を思う時間は、お正月ならではです。しかしここ数年、「年賀状じまい」を宣言する方が増えています。「墓じまい」と共に「年賀状じまい」という言葉など、10年前にはなかったのではないでしょうか。「終い」は「お終い」ということで、まさに終わること、なくなることを意味します。「年賀状での挨拶を今年最後に終了させていただきます。これまでのご厚情に心より感謝申し上げます」という文章を読んだときは、一瞬ドキッとしました。せっかくのご縁が切れてしまうようで、正月早々寂しくなりました。まるで生前葬です。
日本郵便の発表では、今年元旦に全国で配達した年賀郵便物は約4億9052万枚で、前年より34%も減りました。昨年秋に郵便料金が大幅に値上げされた影響が大きいようです。2011年には20億枚を超えていましたが、2022年には10億枚に減りました。そして3年後の今年はその半分以下となったのです。年始に関わらず、挨拶の手段が、メールやSNSなど多様化していることも一因なのでしょう。
確かに年賀状を書こうが書くまいが、お正月はお正月です。でもお正月の風情ということで言えば、メールよりは年賀状です。遠く離れた人とも年賀状でのつながりは格別です。お互い今年もしっかり生きていこうという気持ちになります。効率を考えれば、いちいちはがきを書くのは面倒で無駄だというかもしれません。しかし効率だけの世界はぎすぎすしています。無駄はそのぎすぎすを滑らかにする潤滑油になり、心潤してくれます。落語評論家の広瀬和生は言いました。「無駄なところを落語から省いたらぜんぶなくなっちゃう」。無駄の塊が人の心を和ませ、笑う門に福をもたらすこともあるのです。
何年か後に能登半島の人たちが、「あの年は年賀状どころではなかったが、今年はゆっくり年賀状を読めて、当たり前の有難さを感じるね」と思える日が来ることを願うばかりです。道元禅師は「梅早春を開く」と言いました。いつの日か能登に届く年賀状が、復興した春を開いて欲しいものです。それまでは「年賀状じまい」など考えずに、「災害じまい」に邁進しましょう。
ここでお知らせいたします。昨年12月のカンボジアエコー募金は、534回×3円で1,602円でした。
それでは又、1月21日よりお耳にかかりましょう。
【第1333話】 「身(巳)から出た錆」 2025(令和7)年1月1日~10日
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お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第1333話です。
あけましておめでとうございます。今年の干支の巳という字に似ているものに、已(すでに)と己(おのれ)という漢字があります。書き順の3画目が上にくっついているのが巳であり、中ほどで止めるのが已、下についているのが己です。それを覚えるのにこんな歌があります。「ミは上に、スデニ・ヤム・ノミ中ほどに、オノレ・ツチノト下につくなり」。已はヤムとかノミとも読み、己はツチノトとも読みます。紛らわしいことです。
巳年に因んで蛇の話をします。「蛇七曲がり曲がりて我が身曲がりたりと思わず」なるほど、蛇は我が身が曲がっていても、曲がっているとは思いません。私たちも自分の短所や間違いに気づきにくいものです。よって反省もせずに、過ちを繰り返すことになります。
お釈迦さまの前世物語「ジャータカ」には、次のような蛇の話があります。川に仕掛けられた網にたくさんの魚が入っていました。そこに蛇が素晴らしい獲物があるとばかりに入っていきました。ところが多勢に無勢で、たくさんの魚が1匹の蛇を攻め立てました。命からがら、やっとのことで蛇は岸辺に辿り着きました。
するとそばに1匹の青ガエルがいたので、蛇は尋ねました。「青ガエル君、僕は水の中に入って魚を食べて生きているんだ。網の中の魚をたらふく食べようとしたら、魚は多勢をいいことに僕にかかってきて、傷だらけにしてしまった。こんなことがあっていいと思うかい」「蛇君、それはしょうがないよ。君が魚を食べるなら、魚だって君を食べてもいいはずだよ。普段は君が強いけど、魚たちが力を合わせたら君よりも強くなるんだ。いつも君が強いと思ったら大間違いだよ。誰でも力が強ければ、人のものを奪うことができる。力が弱くなれば、逆に奪われるんだ」。この言葉を聞いて、蛇は心に感じるものがありました。そして急に力が抜け弱々しくなりました。その姿を見た魚たちは、網から出て蛇の命を奪って、悠々と泳いでいきました。
何やら人間の権力争いにも通じるような話です。弱肉強食の世界、あるいは諸行無常の世界をも暗示しています。いずれにしても、私たちは常に自分中心に物事を考えます。巳という字と己という字が似ているのは、己の中に蛇のような根性つまり自分が一番という思いがあるからでしょうか。已それは曲がった根性です。世の中には通用しません。「身(巳)から出た錆」となりませんよう心しましょう。蛇足ながら申し上げますが、もし錆が出ても、このテレホン法話を聴いていただければ、自分磨きになりますので、今年もよろしくお聴きください。
それでは又、1月11日よりお耳にかかりましょう。
【1332話】 「プラスの縁マイナスの縁」 2024(令和6)年12月21日~31日
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お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第1332話です。
「元旦は卑怯ですよ」。能登半島地震で里帰りをしていた家族を亡くした人の言葉です。正月でなければ家族を亡くすこともなかった。せめて一日でもずれていればとやるせない思いが言わせたのでしょう。
あれから間もなく1年が経とうとしています。この時期になると誰しもが1年を振り返りますが、被災地では、振り返るのも辛いという方もいらっしゃるでしょう。楽しいはずの正月が、吹き飛んでしまい、非情なる現実となったのですから。最近の報道による能登半島地震の被災者アンケートでは、63%の人が復旧や復興が進んでいないと答えています。地震前から兆しがあった人口減の加速、水道や道路などインフラ復旧や倒壊家屋解体の遅れなど、課題が浮き彫りになっています。
因みに、13年前の3月に東日本大震災で甚大な被害を被った我が山元町の歳の暮れはどうだったかを思い起こしてみました。道路を含めてインフラは復旧を終え、いよいよ復興へ踏み出そうという時期でした。私も兼務する徳泉寺では伽藍など全て流出してしまい茫然自失でしたが、この頃になり何とかしなければという思いが湧いてきました。そして「はがき一文字写経」を全国の方に呼びかけて、復興を目指す気持ちを固めたのです。9年の歳月を要しましたが何とか伽藍を再建できました。
縁あって出会うこともあれば、縁あって別れることもあります。いや、別れるのは縁がなかったからではと言うかもしれませんが、別れも縁なのです。プラスの縁もあればマイナスの縁もあります。諸行無常です。私もあなたも等しく1日24時間、1年365日与えられていますが、1日いや1秒たりとも時計の針を戻すことはできません。時計は常に新しい時間を刻んでいきます。
しかし今年のお正月から時間は止まったままだという方もいるかもしれません。諸法無我です。すべてのものには我というものがないのです。だから変化できるのです。どんな生き物も自分だけで生きていくことはできません。支えられ支えていく、それが縁です。プラスの縁ともマイナスの縁とも向き合うことができたとき、苦しみが和らぎ、時計の針の動きが見えるはずです。私にとって伽藍の流出はマイナスの縁でした。その縁を受け入れ「はがき一文字写経」というプラスの縁に転じることができました。
「今日の自分は今日でおしまい。明日また新しい自分が生まれてくる」。これは千日回峰行を2度満行した酒井雄哉大阿闍梨の言葉です。千日間で約4万キロ地球1周分を歩き、続けられなくなったときは自ら命を絶たなければならないという命懸けの修行です。過ぎた道のりを振り返るより、次の一歩を踏み出すしかない前向きな気概が伝わります。どなたさまも卑怯でない正々堂々とした正月を迎え新しい自分に出会えますように・・・。
それでは又、新年1月1日よりお耳にかかりましょう。
【1331話】 「肘を断つ」 2024(令和6)年12月11日~20日
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お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第1331話です。
お釈迦さまは菩提樹の下で坐禅を続け、12月8日にお悟りを開かれました。仏教の誕生でもあります。その因縁により、修行道場では12月1日から8日まで坐禅三昧の摂心という修行に入ります。明けて9日には断臂摂心(だんぴせっしん)というこれまた夜中までの坐禅が続きます。
断臂とは肘を断つということです。何と物騒なと思うでしょうが、こんな話があるのです。今から1500年ほど前、達磨大師がインドから中国に渡り、真の仏法である坐禅の教えを伝えました。とは言っても達磨大師が、みなさんにすぐに受け入れられたわけではありません。諦めずいつの日か正しい仏法を中国に根付かせようと、揚子江を渡り嵩山少林寺(すうざんしょうりんじ)に入ります。洞窟で壁に向かって、ひたすら坐禅に励みます。壁に向かったその後ろ姿は、手も足もないかのように見え、みなさんご存じの達磨さんの姿に重なるわけです。
さて、達磨大師が少林寺に入った翌年の12月9日のこと。その日はあいにくの大雪でした。神光(しんこう)という修行僧が弟子入りを志願して、達磨大師を訪ねます。しかし何としても入門を許されません。降りしきる雪の中、寒さに堪えながら外で立ち尽くしました。「道を求めるのに容易(たやすい)いことはないのだ。これしきの事で挫けるものか」と、自分を奮い立たせました。そして、夜が明けた時、神光は渾身の力で決意の程を示すのです。右手の刀で左腕の肘を切り落とし、達磨大師の下に差し出したのです。それを見て、達磨大師は神光の弟子入りを許しました。
達磨大師は面壁九年と言われるように、長いこと壁に向かって坐禅を修行しました。神光もおそばに仕えて、その教えを会得して、達磨大師より跡を継ぐべくお袈裟を授けていただきました。達磨大師はお釈迦さまの弟子としては28代目ですが、中国では初代の祖師です。その弟子神光は二祖となり太祖慧可と称されています。達磨大師亡き後、太祖慧可は30年以上も中国で教化を続け、禅の教えを広められました。
断臂摂心は太祖慧可の命を懸けた仏道を求める心意気を、万分の一でも感じ取る時です。太祖慧可の言葉に「了了として常に知る」があります。了了とは了解の了と書き、明らかではっきりした様を言います。どんな時も迷いや煩悩が消えてなくなり、ほんとうに大切なものが何であるかがはっきりわかりましたということでしょう。坐禅をすると清々しい気持ちになります。宇宙とひとつになった気分で、日ごろの不平不満や自分をよく見せようという驕りが何とちっぽけかを実感します。私たちは肘を断つほどの覚悟はできなくとも、肩肘張らない生き方を心がけることは大事です。
ここでお知らせいたします。11月のカンボジアエコー募金は、749回×3円で2,247円でした。ありがとうございました。
それでは又、12月21日よりお耳にかかりましょう。
【1330話】 「茶室とサンドウィッチマン」 2024(令和6)年12月1日~10日
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お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第1330話です。
「大條家茶室には僕の祖父・祖母が新婚の折に泊まったりもしたようです」これはサンドウィッチマン伊達みきおさんが、先月24日に行われた大條家茶室の修復完成記念式典に寄せたお祝いメッセージの一部です。
サンドウィッチマンがどうして大條家茶室につながるのでしょう。実は歴史上伊達政宗は2人います。仙台藩の独眼竜政宗は伊達家17代です。それより古い9代目にも政宗がいて、その弟の孫三郎宗行は福島県伊達市の大枝邑(むら)の領主となったため、大條姓を名乗ります。そして大條家菩提寺として徳本寺を開きました。今から583年前の室町時代初めです。その後、国替えとなり宮城県山元町坂元に移り、徳本寺も移転し現在に至ります。約400年前、政宗が仙台藩を築いた頃です。
そして大條家は仙台藩の重臣を担います。その間2つの大きな手柄を挙げます。ひとつは大條家15代道直の時、伊達家の殿様が若くして亡くなったために、跡目騒動がありました。その時道直が尽力して、伊達家の血筋を守ったのです。そのご褒美として伊達家の茶室を拝領しました。それは伊達家血筋が途絶えなかった生き証人ともいうべきものです。もうひとつは大條家17代道徳(みちのり)の時、明治維新により伊達家存亡の危機があったものの、道徳の活躍で伊達家を守ることができました。この功績により、大條から伊達姓に戻るようにとの命を受け、伊達宗亮(むねすけ)と名乗ることになりました。その4代後の子孫が伊達みきおさんなのです。
茶室は当初、仙台の大條家屋敷にありましたが、昭和7年に大條家の領地である山元町坂元の蓑首城_(みのくびじょう)三ノ丸跡地に移築されました。一説には伊達政宗が豊臣秀吉から賜った茶室とか。実際はそこまでの裏付けはできないものの、江戸後期の建物で、仙台藩の茶の湯文化を伝える唯一の茶室と言われる、貴重な建物です。現在は山元町指定文化財になっています。
しかし、老朽化に加えて、東日本大震災等の被害により、存続の危機にさらされました。町全体が甚大な被災状況にあり、文化財の復旧にまで至りませんでした。令和に入りやっと町の復興が落ち着き、本格的復旧計画が始まりました。全国からのクラウドファンディング等のご支援も受けて、この度無事修復が完成したのです。この呼びかけには、サンドウィッチマンの働きも大きかったのです。大條家は伊達家の血筋を守り、伊達家の存亡の危機を救いました。そしてその子孫である伊達みきおさんも、伊達家の歴史的遺産の茶室を復興する一翼を担ったのです。
文化財の修復は可能な限り元の部材を利用しなければなりません。土台部分が一番傷みが激しいのですが、腐った部分だけを新たな部材で補修する「根継ぎ」という工法を用います。釘は使いません。まさに大條家は伊達家の土台となって、傷みに耐えて遺産を守りました。それは我々に歴史を軽んぜず、先祖を大切にしなければいけないと釘を刺しているかのようです。
それでは又、12月11日よりお耳にかかりましょう。
【1329話】 「色褪せない思いやり」 2024(令和6)年11月21日~30日
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お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第1329話です。
個人的な話で恐縮ですが、11月21日で74歳になりました。古稀と喜寿の中間で、特別な意味はありません。またこのテレホン法話を始めて、今年で37年になります。これも40年にも満たず、特別感はありません。しかし、37年の倍が74年ということに気づきました。つまり我が半生はテレホン法話と共にあったということです。袈裟を纏った僧侶ゆえの、少し大袈裟な話です。
37年前の昭和62年12月21日より、突然前住職よりテレホン法話のバトンを渡されました。返事は「イエスかハイ」しかない待ったなしです。当時の心境についてはほとんど覚えていません。ただ、最近古い新聞記事の切り抜きを目にしました。
それは私がテレホン法話を始める4日前の出来事の記事です。昭和62年12月17日に千葉県で震度5を記録した地震がありました。成田市の26の公立の小・中学校でも、ガラスが割れたり壁が崩れる被害がありました。そしてある小学校の3年生のクラスでの話を紹介しています。
激しい揺れがおさまって、みんな机の下から出てきました。1人の男の子がいつまでも泣き止みません。担任の先生がなだめながら訳を聞きました。「4つの妹が、ひとりで部屋にいます。お母さんは働きに行っていない。家に帰りたい」と言うのです。先生はその子の家庭が母と子の3人暮らしだったことに気づきました。あわてて男の子の手を引いて家に駆けつけました。ドアを開けると、緊張しきった女の子の顔がありました。次の瞬間、4歳の妹は「お兄ちゃん・・・」と叫んで駆け寄ってきました。たちまち笑顔が戻ったのです。
その昔どうしてこの記事を切り抜いて保存していたのか、これまた説明に窮します。ただ37年も経った今も、心惹かれる内容であることは間違いありません。第一に地震は今も日常的に各地で発生しています。そんな中でいざというときに家族の絆が大切なことは、誰もが感じてきたことです。4歳の女の子は、1人家に残されて激しい揺れの中、どれほど恐怖を覚え、心細かったことでしょう。そこにやってきたお兄ちゃんは、まさに救世主です。お兄ちゃんは3年生とはいえ、自分もこんなに怖い思いをしているのだから、妹はもっとたいへんなはずだ。早くそばに行ってあげたいという健気な思いやりが、先生の行動を促したのでしょう。
私は常々思いやりは想像力だと思っています。自分のことしか考えられない人は想像力が乏しいのです。特に困っている人に対して、心から寄り添える人は想像力が豊かな人ではないでしょうか。何の志もなく始めたテレホン法話ですが、それは反省しつつ、我が半生をかけて伝えたかったことの根底にあったのは、この男の子のような心やさしさだったような気がします。時代を越えても色褪せない思いやりには、大袈裟などということはありません。
それでは又、12月1日よりお耳にかかりましょう。