テレホン法話 一覧

【第1038話】 「風に吹かれて」 2016(平成28)年10月21日-31日

1038.JPG お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第1038話です。
 「歌は3分間で涙を流させることができるが、私たちが30分お話をしてもそうはなりません」とは、ある布教師さんの言葉です。いくら言葉を尽くしても、伝わらないこともあります。しかし、何行かの歌詞に曲がついて歌われると、感動すら与えられます。
 今年のノーベル文学賞を、アメリカのミュージシャンのボブ・ディラン氏が受賞しました。歌手の文学賞受賞は初めてであり、異例な出来事として驚きと共に、世界の大ニュースになりました。授賞理由は「偉大な米国の歌の伝統に新たな詩的表現を作り出した」ということです。更に「彼は偉大な詩人であり、選考基準にふさわしい」とも言われています。
 この受賞に対して、歌手の加藤登紀子さんは「歌詞は、人々が歌い、反復されて力を持つ」と言っています。ディラン氏の歌詞には、メッセージや物語が綴られていて、そのことに多くの共感が集まったのでしょうか。何行かの詩があって、それが読み継がれるということもないわけではありません。しかし、歌になればこそ、日常的に口ずさんだり、演奏されたりして、大きな広がりとなります。
 それにしても、初めに言葉ありきです。代表曲である『風に吹かれて』の日本語訳の一節にはこうあります。「何回砲弾が飛ばねばならないのか?武器が永久に禁じられるまでに。その答えは、友よ、風に舞っている」。戦争をしてはいけないと誰もがわかっています。しかし、ディラン氏から友と呼びかけられた私たちは、戦争をなくすために何かをしなければならないのですが、ただ、風に吹かれっぱなしだったのかもしれません。歌う心地よさだけに酔うのではなく、その中に込められた想いをしっかり汲み取ることを、この度のノーベル賞は示してくれたような気がします。
 さて、お釈迦さまの時代に文字はあったものの、その神聖なお言葉を文字に表すことは畏れ多いとして、口から口へ伝えられていたといいます。そのため、暗記しやすいように、リズミカルな詩の形になっていました。『法句経(ほっくきょう)』として今に伝えられています。例えばその54番のお言葉「華の香(か)は 風にさからいては行かず 栴檀(せんだん)も多掲羅(たがら)も 末利迦(まりか)もまた然り されど 善人(よきひと)の香(かおり)は 風にさからいつつもゆく 善き士(ひと)の徳(ちから)は すべての方(かた)に薫る」。どんなに香しい花の香りも、逆風では届きません。しかし、善き人の行いや徳は、どんな風が吹こうとも伝わり、人々の心に響くものであるということでしょう。
 どんな風にも負けないで、日々善き行いを心がけるなら、周りの人々もそれに倣おうとして、争いのない安らかな世界が築けるよと、2500年前にお釈迦さまは、ボブ・ディラン氏の歌に答えているような気がします。ノーベル賞のない時代でしたが、お釈迦さまも偉大な詩人と言えるでしょう。
 それでは又、11月1日よりお耳にかかりましょう。

【第1037話】 「十年かけた一夜」 2016(平成28)年10月11日-20日

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 お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第1037話です。
 「一夜にして成功するには十年かかる」これはハリウッドスターのウッディ・アレンの言葉です。目が覚めたら、大金持ちになっていたなどというシンデレラストーリーは、現実には夢の又夢です。成功した人は、そこに至るまで人知れず苦労や精進をしているということでしょう。
 さて、このテレホン法話を直接本堂で聴いていただく「第10回テレホン法話ライブ」が、10月2日に行われました。山元町のゆるキャラ「ホッキーくん」がお祝いに駆けつけてくれたり、たくさんの着物姿の女性から花束を贈呈されたりと、心に残るライブでした。10年間苦労も精進もしていませんが、テレホン法話の愛聴者や、ライブに参加された方に支えられてのことです。
 この度のテレホン法話ライブは「拍手が響く新しい舞台に」というテーマを掲げました。東日本大震災から5年半が過ぎ、個々人においても新しい舞台が整いつつあります。例えば、被災者支援のちょっと短めで、首にも頭にも巻けないが大震災にも負けないという「まけないタオル」も、この春終止符を打ちました。「まけないタオル」がなくても大丈夫という雰囲気になってきたということです。そんな内容のお話で最後を結びました。
 そして当日のゲストは「まけないタオル」の歌を歌って、全国にタオルを広めて下さった"歌う尼さん"やなせななさんでしたので、その歌で締めていただきました。普通やなせさんは、カラオケのCDをバックに歌うのですが、今回は自分の歌声が入ったCDをそのまま流して、それにまた自分の声をかぶせるようにして歌い出したのです。つまり「まけないタオル」の合唱曲の男性パートの部分をハーモニーとして入れて、一人二役で合唱曲として披露して下さったのです。
 「まけないタオル」を合唱曲にしてコンサートを開き、復興支援をしようということで、企画し合唱指導をしたのは池田弦さんというクラッシク音楽家です。「まけないタオル」の発案者である三部さんが住職を勤める山形県最上町で始まりました。復興支援の大きなうねりにもなりました。しかし、残念ながら池田さんは、今年7月病気の為突然亡くなりました。48歳という若さでした。そのお別れ会が法話ライブの前日に最上町で行われました。やなせさんもそこに参列され、みなさんと一緒に「まけないタオル」を歌って来られ、ライブでも再現して下さったのです。
 新しい舞台が見えてきたとはいえ、復興はまだ道半ばです。これから5年もかけずに完全復興という成功の一夜を迎えることができるようにしなければなりません。池田さんは言っていました。「言葉だけでは伝わらないことも、音楽や歌なら伝えられる」と。法話ライブは言葉も音楽も備えています。いつの日かカーテンコールの拍手で、池田さんを新しい舞台に呼んで、復興合唱曲を指揮してもらいたいのですが・・・。
 ここでお知らせ致します。9月のカンボジア・エコー募金は、208回×3円で624円でした。ありがとうございました。
 それでは又、10月21日よりお耳にかかりましょう。

【第1036話】 「借りを返す」 2016(平成28)年10月1日-10日

1036.JPG お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第1036話です。
 「家族葬」最近よく聞く言葉です。要するに小ぢんまりと葬儀を行うということを、もっともらしく「家族葬」と言っているとしか思えません。その背景にあるのは、できるだけ他人と関わりたくないという現代の風潮かもしれません。故人の遺志でそうすることもあるでしょうが、葬儀を執り行う喪主の意向が大きいような気がします。
 「周囲にご迷惑をおかけすることなく、ご希望に沿ったしめやかなお別れを執り行います」これは某葬儀社の宣伝文句です。勿論「家族葬」を想定したものでしょう。何を以って「ご迷惑」なのでしょうか。確かに赤の他人であまり付き合いもないのに、隣組というだけで、葬儀の手伝いをお願いしたり、参列の労を煩わせるのは心苦しいというのは分かります。しかし、尊い人生の最期をお見送りすることに、「ご迷惑」という感覚を持たれたら、死ぬこともできなくなります。
 「村八分」を肯定するわけではありませんが、火災と葬儀の二分は、例外とされてきたので「村八分」なのです。火災は延焼すれば我が家にも被害が及ぶから当然です。では葬儀はどうしてなのでしょう。遺体をそのままにされては困るし、それなりの人手がなければ埋葬の儀式ができないという現実問題があります。加えて死者に対する尊厳ではないでしょうか。死者に鞭打つことなく成仏を祈って手を合わせるという極めて人間的な気持ちの現れでしょう。
 死はどなたにも訪れます。残されたものは何らかの形でお別れをすることになります。先日友人の弟さんが病気の為、63歳で亡くなりました。訃報が届いたのは葬儀が終わってからでした。しかし故人の遺志で生前お世話になった方や友人に声をかけて、葬儀とは別にお別れの会を開いて欲しいということで、その案内をいただきました。音楽と酒を愛した弟さんは、とても明るく楽しい人でした。それにふさわしい和やかな会で、改めて故人の人生が浮き彫りになりました。亡き人も私たちにお別れをしたいだろうし、私たちも生前の出会いに感謝したいのです。自分が亡くなったらこうして欲しいと願っても、その意を汲んでくれる人がいなければ、叶いません。このようなお別れの会を開いていただけるのは、故人の人望を何より裏付けています。弟さんのあまりに早い旅立ちとはいえ、参加した人は心からのお別れをすることができ、悲しみにひとつの区切りが付いたような気がしました。
 葬儀が誰かに迷惑をかけるというのは、当たり前のことです。というより生きていることそのものが既に何らかの形で迷惑をかけていると思わなくてはなりません。人はひとりでは生きられません。多くの人やものに支えられて生きています。だから自分も支える存在であればいいのです。永六輔さんのお別れの会にも出席しましたが、その時の記念品の藍染タペストリーに自筆の詩が染め抜いてありました。「生きているということは 誰かに借りをつくること 生きてゆくということは その借りを返してゆくこと」葬儀におけるお別れは、亡くなった人も見送る人も、「その借りを返す」最後のチャンスなのです。喪主が迷惑を考えるのは、そのチャンスの芽を摘んでしまうことになるのではないでしょうか。
 それでは又、10月11日よりお耳にかかりましょう。

【第1035話】 「負んぶに抱っこ」 2016(平成28)年9月21日-30日

1035.JPG お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第1035話です。
 「負んぶに抱っこ」は辞書によれば、「すべて他人に頼りきりになること」とあります。その通りですね。念のため別の辞書を引くと、「子供を負んぶすれば抱っこと言う」ことから、転じて、「図にのってつけ上がること」とありました。なるほどそういう意味もあるのですね。
 台風10号で甚大な豪雨被害を受けた岩手県岩泉町を、今月1日に政府調査団が視察に訪れました。団長は務台俊介・内閣府政務官兼復興政務官です。その際、入所者9人が亡くなった高齢者グループホームの現場に向かう時、何と務台政務官は政府職員に負んぶされて水たまりを渡っていました。長靴を履いていなかったためです。新聞に掲載されたその写真を見た読者は、「被災地のお年寄りが救助されたものかと間違えた」という投書を寄せています。
 調査団というからには、一人二人ではないはず。その団長たる者が何たる体たらく。団体観光旅行の感覚で被災地を訪ねているかのと勘ぐりたくなります。被災地に対する思いやりのかけらも見えません。自分が被災してみなければ、実際の辛さや悲しさは分からないかもしれません。しかし、国の使命を帯びて被災地を訪れているなら、すべの困難を我がことと思って立ち向かっていただかなければ、被災者の為にはなりません。他人事という思いがどこかにあったからの失態です。
 「菩提心を発(おこ)すというは、己(おの)れ未(いま)だ度(わた)らざる前(さき)に一切衆生を度(わた)さんと発願し営むなり」と修証義というお経にあります。「度(わた)す」とは、迷いある現実の世界から、悟りの世界である彼岸へ渡してあげることです。つまり、仏の教えに適う行いとは、自分が救われるより先に、周りの人々を救うべく力を尽くそうと願いをたてることであるというのです。被災地という現実でいえば、犠牲になった方を悼み、困難に陥っている人の為に、自分も泥にまみれて、少しでも力になろうとすることが、仏の心だということでしょう。自分が負んぶされて先に渡るなどあり得ません。
 務台政務次官は調査団団長とはいえ、すべてがお膳立てされた中での行動ともなれば、負んぶに抱っこと図にのってしまわないとも限りません。自分では何もしようとしないから、長靴などはなから眼中になかったのでしょう。これからはご自分の足元をしっかり見つめ、行いを顧みる「脚下照顧」という禅語も長靴と一緒に持ち歩くことをお勧め致します。負んぶしたいのも、負んぶに抱っこしたいのも、被災者こそです。
 ここでお知らせ致します。第10回テレホン法話ライブを、10月2日(日)午後2時徳本寺にて開催致します。特別ゲストは"歌う尼さん"やなせななさんです。入場無料。ピアノ演奏に合わせてテレホン法話を語ります。ご来場をお待ち申し上げます。
 それでは又、10月1日よりお耳にかかりましょう。

【第1034話】 「琴線感覚」 2016(平成28)年9月11日-20日

1034.jpg お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第1034話です。
 「永さん、私が亡くなったら、葬儀委員長を務めると言っていたのに、当てが外れてすみません」と、黒柳徹子さんは語り始めました。先月30日東京の青山葬儀所で行われた永六輔さんのお別れの会でのことです。60年来の友人ということで、発起人代表の黒柳さんが、真っ先にお別れの言葉を述べました。
 永さんとのこれまでのご縁で、私もご案内をいただき参列致しました。司会の北山修さんから、次々とお別れの言葉を述べる方が紹介されます。下重暁子さん、久米宏さん、中山千夏さん、遠藤泰子さん小林亜星さんなど錚々たる方が、永さんとの濃密な時間の一端を披露し、故人を偲んでいました。みなさんは一様に、永さんのいない世の中はつまらない、こんな時代だからこそ、もっと永さんに生きていて欲しかったというような想いを伝えていました。
 現代は様々な災害が日常的に起き、争いの絶えない世の中です。身体の不自由な方は、普段でも弱い立場にあります。事が起これば、更に追い打ちをかけられることがあります。永さんは、そんなとき弱い立場の人たちにも、すぐに手を差し伸べられるようにと、「ゆめ風基金」を作り、障害のある方へのボランティアにも力を尽くしました。便利さや数字を追い求めることが、生きるすべてではないよ、見過ごされていることにもっと目を向けようよと、いつも警鐘を鳴らしていました。
 親族を代表して、娘の永麻理さんは「本日は本会場に入りきれない方は、第二会場にも大勢参列をいただいております。本会場の方には申し訳ありませんが、父がこの場にいたら、きっと第二会場の方により心を向けていたはずです。父はいつも不自由を強いられている方や弱い立場の方を支えたいという生き方をしていました」と挨拶なさっていました。
 永さんの言葉に「文明は、人間がここまで出来るということを示し、文化は、ここまでやってはいけないと教える」というのがあります。私早坂文明は、ここまで出来るという何ものも示すことはできません。しかし、世の中は今お聴きいただいている電話をはじめ、文明の利器は進化し続けています。ロボットに人間と同じような感情を吹き込むことさえ可能になるかもしれません。さて、僧侶たる早坂文明はどのように対応したらいいのか、永さんにお聴きしたいのですが、もう叶いません。
 お別れの言葉の最後は、ピアノ演奏に合わせて歌うジェリー藤尾さんの「遠くへ行きたい」でした。歌い終わってジェリーさんは言いました。「だめだ、泣けちゃったよ」。確かに歌の後半は、声が上ずっているように聞こえました。永六輔さんが作詞した歌という文化がこれだと思いました。人は、心の琴線に触れる行いを目指し、琴線を錆びつかせない「琴線感覚」を養うことで、人間らしさを見失わずにいられるのでしょう。
 ここでお知らせ致します。8月のカンボジア・エコー募金は、226回×3円で678円でした。ありがとうございました。
 それでは又、9月21日よりお耳にかかりましょう。

【第1033話】 「移転400年」 2016(平成28)年9月1日-10日

1033.jpg お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第1033話です。
 歴史上に伊達政宗がふたりいることをご存じですか。お馴染み独眼竜政宗は伊達家17代目で仙台の伊達藩主です。号を貞山と言います。そして伊達家9代目にも同姓同名の伊達政宗がいます。号を儀山と称します。伊達家中興の祖とも言われています。伊達家は福島県伊達郡がその発祥の地のようです。
 9代政宗の弟に宗行なる人物がいます。彼は伊達家より大條村に所領を与えられ、大條の姓を名乗ります。現在の福島県伊達市梁川にその城跡はあります。この大條宗行こそが、徳本寺を開かれた開基様です。徳本寺は大條家の菩提寺として、今から575年前の嘉吉元年(1441)に建立されたのです。
 ところが伊達家17代政宗が慶長6年(1601)に仙台を治め伊達藩主になると、伊達家の仇敵・相馬氏の中村藩の最前線を治めるようにと、大條家に宮城県坂元の地を与えます。こうして、大條家8代目の時、梁川から坂元に知行替えとなり、坂元の蓑首城主に納まります。元和2年(1616)9月のことです。その時、徳本寺も現在の坂元に移転建立されました。今年がちょうど移転400年になります。
 大條家は代々蓑首城主として継承されますが、大條家17代道徳の時、幕末から明治維新にかけての激動の時代に歴史は変わります。戊辰戦争に敗北した伊達藩はお取り潰しの危機に陥りました。大條道徳が新政府代表の木戸孝允(たかよし)と交渉の末、伊達家と藩の存続が認められました。道徳はこの功績により、伊達家29代慶邦(よしくに)より、大條から伊達の姓に戻すように命じられ、伊達宗亮(むねすけ)と改めます。余談ですが、この宗亮の4代後の子孫に「伊達みきお」なる人物がいます。今をときめくサンドウィッチマンその人です。
 大條家は今から約600年前に伊達家より分家して興されました。以来20代続いています。徳本寺も575年の歴史を刻み、私で25代目になります。3代目の洞観曹大和尚の代に現坂元に移転し400年。巡り合わせを感じます。因みに400年前の1616年には、洋の東西で巨星が没しています。徳川家康とシェークスピアです。人生80年と言われる時代に、百年単位で物事を考えたりすることはあまり日常的にはないかもしれません。しかし、一人ひとりの一日一日の積み重ねが、いつの日か歴史と呼ばれるようになります。ただ、それをしっかりと伝えていかなければ、「歴史に埋もれた」の一言で、片づけられてしまいます。
 たとえば千年に一度の東日本大震災と言われながらも、わずか5年半程度で、4年に一度のオリンピックの興奮に飲み込まれてはいないでしょうか。大震災で家屋敷の移転を余儀なくされた方がたくさんいます。移転の初代として、100年後200年後にも伝えられるような精進の日々を送りたいものです。
 それでは又、9月11日よりお耳にかかりましょう。

【第1032話】 「メダルを語る」 2016(平成28)年8月21日-31日

1032.JPG お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第1032話です。
 「銅という漢字を分解すれば、金と同じという字になります」とは、リオデジャネイロオリンピックの卓球女子団体で銅メダルに輝いた福原愛選手の言葉です。接戦を苦しみぬいて勝ち取った涙のメダルは、何色であっても金以上の重みがあることでしょう。
 オリンピックのメダルは、選手は勿論のこと応援する我々にとっても、独特の存在感があります。たとえ4位入賞を果たしても、入賞の喜びよりも、メダルに一歩届かなかったという無念さの方が勝ることもあります。銅や銀のメダルを勝ち取っても、もっと違う色のメダルであったらとの思いが募るのも、勝負に生きる者の性(さが)です。金メダルを獲得すれば、誰もが無条件で称賛し、すべてが報われるというものです。一度も負けないというのは、気が遠くなるような話です。
 それなのに、レスリング女子フリースタイル58キロ級で、伊調馨(いちょうかおり)選手はオリンピック4連覇を達成しました。全競技を通じ個人種目の4連覇は、女子では史上初めての事です。男子でも4人しかいません。オリンピックでの連覇は、4年に一回の開催ということを考えるまでもなく、並大抵のことではありません。それを4連覇とは恐れ入りました。
 伊調選手は2004年のアテネオリンピックで初めて金メダルに輝いたときは、20歳でした。以来北京・ロンドンを経て、この度のリオデジャネイロと12年間金メダルを守り続けてきました。絶対的な女王と言っても過言ではないでしょう。しかし、そんな彼女も今年1月に行われたロシアでの国際大会で思わぬ敗北を喫しています。モンゴルの若手選手にテクニカルフォール負けをしたのです。それは13年ぶりの黒星で、連勝も189で止まってしまいました。オリンピックが始まるという年の初めに、暗雲が漂いました。「あんな自分は初めてだし、あんな自分もいるんだとビックリもしている」と彼女は語っていました。
 不死身のように見えても、実は弱みがあるということを納得し、負けたことをしっかり受け入れられなければ、次へは進めません。伊調選手は「強くなるために必要な負けだったんだ」と気持ちを立て直し、オリンピックに向けて弛まぬ調整を続けて、見事に4連覇を果たしたのです。
 「この負けが、必要だったと言える野球人生を送りたい」これは、今年の全国高校野球選手権西東京大会準々決勝で敗れ、甲子園に出ることが叶わなかった早稲田実業高校の清宮幸太郎選手の敗戦の弁です。清宮選手は高校生離れをした注目の強打者です。オリンピックと高校野球では舞台が違いすぎますが、まだ高校2年生の言葉だとすれば、末恐ろしさを感じます。いずれ誰をも納得させる野球人生を送ることでしょう。私たちは自慢できる「負け試合」を持っているでしょうか。負けたことを他人のせいだと責任をなすりつけて、狐と狸の如くの「化かし合い」をしているようでは、メダル語る資格はありません。
 それでは又、9月1日よりお耳にかかりましょう。

【第1031話】 「蓮の器」 2016(平成28)年8月11日-20日

1031.JPG お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第1031話です。
 お盆は正式には盂蘭盆(うらぼん)と言います。インドの言葉で逆さ吊りの苦しみを表す「ウランバーナ」が、その語源です。お釈迦さまの弟子の目連尊者の亡きお母さんが、あの世で食べ物を口にすることができず苦しんでいました。神通第一と言われた目連尊者の力を以ってしても、母親を救うことができず、お釈迦さまに相談します。インドでは雨期の間、一ヵ所に留まって修行していた僧侶が、修行明けの7月15日に山を下りてきます。その時多くの僧侶に供養して、お経を挙げてもらうように言われます。教えの通りにすると、母親が苦しみから救われました。目連尊者の親を思う孝行心にあやかって、7月15日にご先祖を思い仏と僧侶に供養する行いが、盂蘭盆になりました。8月は単に月遅れのお盆ということです。
 さて、お盆には亡き人をお迎えする意味も込めて、お盆棚に様々なお供えが揃えられます。夏野菜の代表であるキュウリとナスは欠かせません。というのも、キュウリとナスに柳の箸などで足を付けて、馬と牛に見立てます。キュウリの馬に乗って早く帰って来てください。戻るときはナスの牛に乗って、ゆっくりお帰り下さい。そんな意味が込められています。
 また、キュウリとナスをさいの目に切り、洗ったお米を混ぜて、蓮の葉を敷いた器に盛り付けます。これを「水の子」と言います。お盆に帰ってくるすべての精霊にいきわたるようにという思いと、特に縁(ゆかり)のない方にも広く供養するという、まさに盂蘭盆の心のあらわれからです。その他に、我が故郷では、餅やそうめんなどをやはり蓮の葉にのせてお供えします。その昔は、お供えしたものを16日の送りお盆に、蓮の葉に包んで川に流したこともあったようです。
 蓮はインド原産の水生植物で仏教のシンボルの花です。仏像や位牌の台座も蓮の花の形をしています。「泥中の蓮」のたとえの如く、泥水が濃ければ濃いほど、大輪の花を咲かせるそうです。仏教では泥水を、人間の持つ煩悩や困難や悲しみと捉えています。泥の中にあっても、仏の教えを信じて、清らかな心を持ち続け、いつかは大輪の花を咲かせましょうということです。大輪の花とは、今自分は幸せだと実感できることではないでしょうか。勿論自分の周りの人も幸せだから、自分の幸せも感じられるということです。
 ウランバーナという苦しみから救った因縁が盂蘭盆即ちお盆になりました。お盆はお供えをするとき使う器でもあります。そして中国ではこのお盆を「救器」と解釈して、苦しんだり困っている人を救うために、然るべきものを載せて差し出す器とみなしています。蓮の葉という器にお盆のお供えをすることは、普段自分勝手でわがままな行いをして、さかさまの心になっている我が苦しみこそ救ってくれるものなのかもしれません。そのことにやっと気づいたかとお盆で帰って来られたキュリー夫人やナスの与一のようなご先祖さまに、喜んでもらえるでしょうか。
 ここでお知らせ致します。7月のカンボジア・エコー募金は、202回×3円で606円でした。ありがとうございました。
 それでは又、8月21日よりお耳にかかりましょう。

【第1030話】 「己が身に引き当てる」 2016(平成28)年8月1日-10日

1030.JPG お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第1030話です。
 10年以上前のこと、ある神父さんがこう言っています。「『どうして人は人を殺すのか』というのは普通の質問だが、『どうして人を殺してはいけないのか』と言われるようでは、その社会がおかしくなっている」。人は生涯のうち、一度や二度は殺したいほど人を憎むようなことがあるかもしれません。しかし、実行に移す人は稀です。人を殺してはいけないということに疑問すら持たないからです。
 世界各地で自らの政治色・宗教色を誇示するが如く、闇雲に何の落ち度もない人々を殺害する無差別大量殺人が勃発しています。そして、我が国では無差別ならぬ、明らかに差別をした大量殺人が起きました。7月26日未明、相模原市の障害者施設で、入所者19人が刺殺され、職員を含む26人がけがを負うという事件です。犯人は元職員の26歳の男性でした。彼は日頃「障害者は周りの人を不幸にする。いない方がいい」という持論を掲げていました。そして、明らかに障害者を差別し標的として殺人に及んだのです。
 身の毛が弥立ち、血も凍る犯人の所業と言わざるを得ません。そんな人間こそこの世から抹殺しなければと、世の中から思われたらどうでしょう。そのことを犯人は想像したことはないのでしょうか。「人殺し」という極端な例を挙げるまでもなく、自分が人からされて嫌なことは、人にもしないという人としての押さえ所が確立していないのは未熟な証拠です。或いは自分勝手な思い上がり人生を歩んでいる人でしょう。
 お釈迦さまの言葉に「すべての者は鞭に怯える すべての者は死に怯える 己が身に引き当てて 殺してはならぬ 殺させてはならぬ」というのがあります。誰しも暴力や死を恐れない人はいません。「己が身に引き当てる」とは、自分が怯えていることは、他の人もそうなんだから、自ら手を出さない。私は殺されたくない、だから殺しもしないということです。
 「どうして人を殺してはいけないのか」という問いに対して、「命はかけがえのないものだから」というのも答のひとつです。殺す人も殺される人も命のスペアはありません。死んだ命は二度と生き返ることができないのです。そして私たちの命は授かった命であり、自分で作り出したものではありません。その人なりの命の使い方をして、やがてお返ししなければなりません。それまでは自分の命を誰にも脅かされず、精一杯命を輝かせるように生きることがその人の人生です。輝いている人は幸せです。障害のあるなしに関わらず。その幸せを「己が身に引き当てて」みて下さい。幸せと思えたらそれで良し。そう思えなくても心配はいりません。「幸」という漢字を書いて、さかさまにしてよく見て下さい。やはり「幸」という字に見えませんか。
 それでは又、8月11日よりお耳にかかりましょう。

【第1029話】 「返信への変身」 2016(平成28)年7月21日-31日

1029.JPG お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第1029話です。
 「三途の川に流されて、あの世にも、この世にもいないというのが、永さんらしい『大往生』だと思います」とは、永六輔さんに寄せられた弔辞です。この弔辞の主は永さん自身です。240万部の大ベストセラーとなった『大往生』の最後に、「私自身のための弔辞」ということで記されています。今から22年前のことです。
 永六輔さんが7月7日83歳で亡くなりました。作家・作詞家という域に留まらない多才なまさにタレントでした。永さん自身を知らない若い人でも、「上を向いて歩こう」の歌はご存じでしょう。今から55年も前のヒット曲で、作詞は永さんです。爆発的なヒット曲は数あれど、50年以上も、事あるごとに人々に歌い継がれている歌は稀でしょう。
 浅草の浄土真宗の寺の次男として生まれた永さんは、父親の生き方を頑なに信奉していたところがありました。それは「手紙の返事も書けない忙しさは、人間として恥ずかしい」ということです。ですから、どんなに忙しくても永さんは直筆の返信を下さいました。25年前に郡内の曹洞宗寺院で永さんを山元町にお呼びして講演会を開きました。以来永さんと何度も書簡のやり取りをするご縁がありました。「御手紙が毎日百通を超えています。御返事の乱筆をお許し下さい」というゴム印が押してあり、その横に直筆の署名があるのです。
 返信を含めて借りを返すことが、永さんの人生観です。「生きているということは 誰かに借りをつくること 生きてゆくということは その借りをかえしてゆくこと」と永さんは歌っています。遠い日のはがきに、いつか徳本寺に行きますと書いて下さいました。お世辞と思い、ほとんど忘れかけていたのですが、永さんは忘れてはいませんでした。東日本大震災犠牲者合同一周忌法要の折、徳本寺の本堂で、遺族の方々に切々と語りかけました。それはご自分のこれまでの借りを返すかのような、東京大空襲で背負った深い悲しみのことでした。大震災の理不尽さと重ね合わせた心情だったのでしょう。
 そして、徳本寺の末寺である徳泉寺が津波で流されたこと、それを復興するのに「はがき一文字写経」を全国のみなさまにお願いすることを知るや、真っ先に賛同して「はがき一文字写経」第一号を届けて下さいました。更に色紙には「大津波 全部持ってけ 馬鹿野郎」と力強い文字が躍っています。「大津波の馬鹿野郎、何もかも持って行っても、復興する志までは流されないぞ、いまに見ておれ」そんな怒りを感じます。
 大津波を見返してやるための「はがき一文字写経」の目標数まで、あと少しです。あの世にもこの世にもいない永さん、復興の暁には、徳泉寺にお出で下さい。その時檀信徒一同まだ返していない借りを返します。永さんの一文字写経はがきに対する返信は、復興により堂々と変身した徳泉寺をお見せすることです。その時まで、うつむかないで上を向いて歩き続けます。
 それでは又、8月1日よりお耳にかかりましょう。