テレホン法話 一覧
【第1348話】 「いやしきおどけ」 2025(令和7)年6月1日~10日
住職が語る法話を聴くことができます

お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第1348話です。
今からちょうど30年前、時の総務庁長官が、日韓関係を巡り「植民地時代、日本は良いこともした」と発言。韓国政府の反発を招き辞任に追い込まれました。その長官は江藤隆美(たかみ)氏です。その後、隆美氏亡き後、宮崎県の地盤を世襲したのが息子の江藤拓(たく)氏です。
先般、時の江藤拓農林水産大臣は、講演会で「コメは買ったことがない。支援者の方々がたくさんくださる。まさに売るほどある、私の食品庫には」という発言をしました。米価高騰のさなかに、米価を下げる効果的政策も示せずに、「買ったことがない、売るほどある」とは、庶民感情を逆なでして余りあります。しかも「わざとじゃないだろうけど、いろんな物も混じっている。石とかが入っている」とまで言い放っています。まるで米を作っている方に対する感謝の気持ちがないばかりか、手落ちを責めるかのようです。
これほどの心無い言葉を発しながら、当初は撤回もせず、修正を主張していました。「講演はちょっとウケを狙って、強めに言った。消費者に対する配慮は足りなかった」。更には「宮崎ではたくさんいただくと『売るほどある』とよく言う。宮崎弁的な言い方でもあった」と、苦しい弁明を重ねました。もはや何を言ってもアウトがセーフに覆るわけはありません。結果、更迭ということになりました。
しかし、その辞任の弁も「身を引くことが国民にとってもいいことだと判断した」と、まるで自分の身は守り、国民に恩を売っているかのようです。自分が悪かったと素直に認めたくないのでしょう。30年前のことも忘れ、米も買わず、人の痛みを感じる眼差しを持てないまま今日まで生きてきたとしか思えません。
さて、ご存じ良寛さんは子どもとは無邪気に戯れ、苦しんでいる人の前では共に涙を流すような方でした。常に自分というものを無くし、子どもにも大人にも素直な心で接していたからこそ、親しまれたのです。しかし自分には厳しく、「言葉についての戒め」として「『戒語』90カ条」を書き残しています。手柄話など、自分がそんな風に言われたら嫌だなと思うことは言うべきではないという戒めが示されています。その中に「いやしきおどけ」というのがあります。「おどけ」とは「おどけた仕草で笑わせる」などと言う、ふざける意味があります。今で言えば「ウケを狙う」に当たります。
この度の江藤大臣のウケ狙いは「いやしきおどけ」そのものです。一線を越えた失言は、人を笑わせるより、自分が笑われています。人々が求めていたのは、ウケよりもコメです。更に「戒語」には「悪しきと知りながら言い通す」戒めもあります。自分に厳しく素直に非を認める政治家こそ、人々にはウケるはずです。
それでは又、6月11日よりお耳にかかりましょう。
【第1347話】 「ひきくらべる」 2025(令和7)年5月21日~31日
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お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第1347話です。
八つ当たりの「八」は「四方八方」の意味で、誰かれなく時ところを選ばず、当たり散らすことです。自分自身の四苦八苦の苦しみを、どうにも解決できずに、自暴自棄になっているふるまいです。
5月1日大阪市で、下校中だった小学2年・3年の児童7人が、学校近くの道路で、突っ込んできた車にひかれました。1人はあごを骨折する重傷で、他は打撲などの軽傷でした。殺人未遂で現行犯逮捕されたのは28歳の東京の男性。「苦労せず生きている人が嫌だった。全てが嫌になり人を殺そうと車で突っ込んだ」という供述をしていて、無差別に児童を襲ったようです。わざわざ東京から大阪まで来て、レンタカーを借りてまでするようなことでしょうか。身勝手にもほどがあります。
5月7日には東京メトロ東大前駅で、大学生の男性が刃物で切り付けられる事件がありました。殺人未遂で現行犯逮捕されたのは、長野県の43歳の男性。「親から教育虐待を受け、不登校になり苦労した。東大を目指す教育熱心な親たちに度が過ぎると、私のように罪を犯すことを世間に示したかった」と供述しています。これまた自分勝手な思い込みを、どうにも処理できなくて、他に八つ当たりしている姿です。
5月11日千葉市では、自宅近くを歩いていた84歳の女性が突然刃物で背中を刺されて死亡しました。殺人容疑で逮捕されたのは、市内に住む中学3年の15歳の少年です。少年と被害者には面識がなかったようです。そして「誰でもよかった」という供述をしています。少年は祖父母と父親と同居しています。しかし、家出をしたり、夜遅く帰宅したりという問題を抱えてはいました。祖母は言います。「誰でもよかったなら私を殺してほしかった」。切ない言葉です。
さて、お釈迦さまの言葉である『法句経』に、「すべての生きものにとって生命(いのち)は愛おしい 己が身にひきくらべて 殺してはならぬ 殺さしめてはならぬ」とあります。殺すことは勿論、殺させるべきではないということです。「己が身にひきくらべて」つまり自分の身を殺される側に置いて想像してみればわかります。殺される人はどれほどの恐怖を感じるか、そして周りにどれだけ悲しむ人がいるのかを思えば、殺す側に立てるわけがありません。犯人だって自分の命は愛おしいはずです。
八つ当たりというには、あまりにも惨い事件が続きましたが、どうしても自分だけが辛いとか苦しいという思いに凝り固まると、八方塞がりになってしまいます。その壁はどんな八つ当たりを以ってしても突き破ることはできません。ならば壁を飛び越えることです。そのためには、己が身にひきくらべる想像力というエンジンと、どんな命をも愛おしむ翼と相手の痛みを共感できる翼を備えましょう。そして飛行機に滑走の時間が必要なように、八つ当たりする前に、冷静に周りを見渡すことです。空が見えたらしめたものです。さあ飛び立つ時です。
それでは又、6月1日よりお耳にかかりましょう。
【第1346話】 「五体投地」 2025(令和7)年5月11日~20日
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お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第1346話です。
大阪・関西万博が始まって間もなく、警備員が土下座している様子が報じられました。カスタマーハラスメントいわゆる客からの不当な迷惑行為を疑われました。来場者男性に駐車場を尋ねられた警備員が、その応対のとき身の危険を感じて、自ら土下座したということでした。
土下座は本来、目上の人や神仏に対して敬意を払う最上の礼法です。大名行列で大名の籠が通るとき土下座をしたことでもわかります。それが大正・昭和にかけて、謝罪やお願いをするときの姿勢になってきました。現在では土下座を強要すると強要罪という立派な犯罪です。
さて、土下座の原点は古代インドにあります。五体投地という最高の敬礼法です。相手の足元にひざまずき、頭を地につけ、両手で足先を手に取り、額に接触させるというものです。まさに額づいて最大の敬意を表すわけです。
私たち僧侶も仏さまや祖師に対しては、単なる合掌だけでなく、五体投地の礼拝をします。両膝・両肘・額の5点を地に付けてお拝をします。最初に膝を折り、肘と額を地に付けます。その時、手のひらを上向きにして、耳のあたりまで上げて、何かを戴くような作法をします。仏足つまりお釈迦さまのおみ足を戴くつもりで、恭しく行うのです。この一連の動作を「一拝」と数えます。基本は「三拝」をして、ひとつのお拝となります。法要の前後に三拝をしますし、丁寧な法要であれば間にも三拝が入ります。「三拝九拝して頼みごとをする」と言いますが、繰り返しお拝をして礼を尽くすわけです。大法要になれば一日に何度も三拝をしなければなりません。かなりの修行です。
五体投地という身を投げ出して、全身全霊で仏足を戴くとは、仏さまの頭のてっぺんからつま先まで、全てを有難く頂戴いたしますという、これ以上にない意思表示です。そして「南無帰依仏」とお唱えしますが、「南無」はサンスクリット語の「ナモ」を音写したもので、尊敬を込めて礼拝する意味があります。「帰依」は日本語で、深く信仰し教えに従うということを表します。「南無帰依仏」は、まさに五体投地の心でもあります。
よく老僧が言っていました。「お拝ができなくなったら和尚をやめるときだ」。確かに歳と共に足腰や膝が弱ってくれば、五体投地の三拝も難行苦行になってきます。しかし五体投地ができなければ、土下座して仏さまに謝ることもできません。つまり死ぬまで和尚をやめられないということでしょうか。もっとも仏さまは決して無理難題を押し付けるようなカスタマーハラスメンはしません。だから心を無にして信じればいいのです。「右ほとけ左はわれと 合わす手の 中にゆかしき 南無のひとこえ」
ここでお知らせいたします。4月のカンボジアエコー募金は、1,165回×3円で3,495円でした。ありがとうございました。
それでは又、5月21日よりお耳にかかりましょう。
【第1345話】 「草も木もありがとう」 2025(令和7)年5月1日~10日
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お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第1345話です。
先日「私が愛した野草園―高橋都作品展―」という案内状が届きました。そこには次のような一文が添えてありました。「いろいろお世話になりました。母は94歳で昨年8月17日に永眠しました。母の作品をこのような形で展示することになりました」。差出人は高橋都さんの息子さんです。先ずお亡くなりになったことに、びっくりしました。そして、様々な作品を制作されていたことを少しも存じ上げていませんでしたので、作品展にも驚きました。
都さんは数年前からこのテレホン法話をお聴き下さっていました。しかもかなり熱心にです。感想などを書いたお便りを何通もいただきました。毎朝あるいは日に何回も聴くこともあったようです。毎日繰り返し聴くことで、3分間の法話の全体がつながりますということでした。直接お会いしたこともお話をしたこともありませんでしたので、その人となりについては知る由もありません。
ともかく、仙台市の野草園にある展示会場を尋ねました。ちょうど息子さんがいらして、いろいろお話を伺うことができました。都さんは女子高校で長年家庭科の教師を勤めて、70歳を過ぎてから絵を始めたと言います。自宅が野草園の近くだったこともあり、毎日のように通い、そこの草木を描き続けました。また仙台近郊の山々をモチーフにした作品も多数残されました。創作意欲は絵画に留まらず、染織や裂き織で仕立てた作品は、斬新でその色遣いがとても若々しく感じられました。すべての作品には草花や木々の命をいとおしみ、芸術的な風合いを織りなす都さんの心が見事に表現されていました。
息子さんは次のように語っていました。「母は、亡くなった自分の母親が着ていた襦袢の一部で裂き織のタベストリーを作り、部屋に飾っていました。位牌代わりに手を合わせていたようです。あれが母の作品の原点かもしれません」
こんな歌があります。「恋しくば おのが躰に触れてみよ かたみにのこる 母の温もり」亡き母を拝むとき、合わせた手と手の間に伝わる温もりは、まさに母よりいただいたものです。都さんも、母親が身につけていた襦袢に母の温もりを感じていたことでしょう。古くなった着物は捨ててしまえばそれまでです。しかし、いま一度工夫を凝らせば、再び命を吹き込むことができます。草花も枯れてはしまいますが、都さんの作品の中で命を輝かせています。自分という命は両親はじめ、どれだけ多くの命に支えられているかを常に思い描き、感謝の心を忘れなかったご生涯だったのでしょう。
「地球さんありがとう 草も木もありがとう みんなありがとう 94年を生きました」展示会場に掲げられていた言葉です。母の日を前に改めて、都さんのご冥福をお祈りいたします。合掌
それでは又、5月11日よりお耳にかかりましょう。

高橋都さんの作品
【第1344話】 「懺悔という姿勢」 2025(令和7)年4月21日~30日
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お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第1344話です。
「あなたは仏教徒ですか」と尋ねられて、「ハイそうです」と答えられる人は幸いです。たいていの人は「お寺にお参りはするけど、仏教徒という自覚はちょっと・・・」と答えるかもしれません。
曹洞宗には授戒会という法要があります。1週間かけて修行を重ね、仏弟子となった証の血脈(けちみゃく)を授かるのです。授ける人を戒師、授けられる人は戒弟といいます。血脈の中にはお釈迦さまの教えを受け継ぐインド・中国・日本の歴代の祖師の名前が系図のように記されています。一番最後が戒師様で、次に新たに仏弟子となった戒弟の名前が入ります。
1週間の修行は早朝から夜まで、合掌し仏の名を唱えお拝をしたり、お経を読み、仏の教えを聞くことに始まり、食事も作法に則って行われます。中でも大事なことは懺悔道場における儀式です。一人ひとり戒師様と相対して、「小罪無量」と書かれた小さな紙を、懺悔の想いを込めて差し出し、受け取っていただきます。小罪無量とはいつしか重ねたたくさんの小さな罪のこと。つまり嘘や悪口を言ったり、腹を立てたりと、相手に嫌な思いをさせたことなどです。戒師様は預かった紙片を儀式の中ですべて焼却して下さいます。戒弟の罪科(つみとが)を消し去ってくれるのです。その戒弟の周りを戒師様はじめ大勢の和尚さんが、仏名を唱え鈴(れい)を鳴らしながら賛嘆して回ります。この時、戒弟はこれまでの修行は、全て仏になるためのものだったと納得するわけです。
「はじめに姿勢をつくり 次いで 姿勢が人をつくる」という言葉があります。懺悔もひとつの姿勢です。小罪無量を懺悔した戒弟の背筋はぴんと伸び、心も真っ直ぐになっています。わがままな心に替わり、素直な心が顕れます。それは本来持っている赤子のような無垢清浄な心に立ち返った姿です。仏という人がつくられるわけです。
懺悔道場の翌日、戒弟は戒師様より仏として守るべき戒法を授けていただきます。そして仏になった人しか登ることのできない須弥壇に登り、仏として拝まれます。つまり諸役の和尚さん方が「衆生仏戒を受くれば、即ち諸仏の位に入る、位大覚に同うし已(おわ)る、真(まこと)に是れ諸仏の子(みこ)なり」と唱え、須弥壇上の戒弟を再び賛嘆して回ってくださるのです。その後須弥壇を下りて、戒師様より直にそれぞれの戒名が記された血脈を授かります。
こうして「私は仏教徒です」と自信をもって宣言できます。そして仏なのだから悪いことをしようと思ってもできない、仏なのだから善いことは進んで行おうという自覚が芽生えます。たとえ授戒会の縁に恵まれずとも、寝る前に一日を振り返り、目覚めたら姿勢を正して新たな一日を始めてみれば、みなさんも立派な戒弟です。自分の人生を改定つまりより良く改めるチャンスです。
ここでお知らせいたします。3月のカンボジアエコー募金は、1,134回×3円で3,402円でした。ありがとうございました。
それでは又、5月1日よりお耳にかかりましょう。
【第1343話】 「武士道と茶室」 2025(令和7)年4月11日~20日
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お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第1343話です。
「武士道とは、死ぬことと見つけたり」『葉隠』の冒頭にある一節です。これは実際に死ぬというより、常に死を覚悟すべしということです。それにより一切の迷いがなくなり、思う目的に力を尽くせます。
そんな武士道を思わせる講談を聴く機会がありました。社会人講談師村田琴之介の「伊達の血筋を守った男」です。徳本寺開基大條家15代道直(みちなお)は、仙台伊達藩の若年寄を担っていました。文政10年(1827)、伊達家11代藩主斉義(なりよし)が、30歳の若さで急死。妻芝姫(あつひめ)は数え13歳で、子どもはいません。跡目問題が起きました。程なく、幕府老中水野忠邦より、伊達家へ呼び出しの沙汰がありました。
道直が伊達家の命を受け、江戸の水野家を訪れます。水野曰く「残された芝姫殿に婿を迎えては如何か。将軍家斉(いえなり)公の10番目の男の子で18歳になる虎千代殿が似合いではないか思う。一端、斉義公の養子として入れ、そのあと縁組をすれば良い。将軍家から養子を迎えたとなれば、大きな後ろ盾ができ、悪い話ではなかろう」
道直は仙台に戻り御一門に報告してから、結論を出すことにします。そして道中冷静になって婿養子の話を検討しますが、はたと気づきました。婿に入り伊達の姓を名乗ったとしても、所詮徳川。伊達はいいように扱われてしまうのではないか。第一、虎千代が斉義の養子に入るとなれば、斉義の妻芝姫は、母にあたる。母を奪って妻にするという不義不貞を世に示すことになり、禽獣に等しい。これを見逃すことはできないということです。
率直に御一門に道直の見解を申し上げ、吉報を反故にすべきと進言し、受け入れてもらいます。しかし、老中の提言を断るのですから、それなりの覚悟が必要です。再び江戸に参上の折は、白無地の小袖に浅黄色の裃、腰には短刀という出で立ちで、水野忠邦に対面。事の顛末を話し「老中からのお役目を果たすことができなかったのは、某の不手際、この腹を掻き切ってお詫び申し上げまする」と、短刀で腹を刺さんとしたとき、水野忠邦の大きな笑い声が響きました。「さすが伊達の家臣。その若さでその気骨。その気迫に免じて、この度の話はなかったことにする」。こうして伊達家では登米の伊達家より、斉義の従弟を跡継ぎとして迎えました。伊達家12代藩主斉邦(なりくに)です。この時のご褒美として、道直は伊達家より茶室を拝領しました。
以上が講談のあらましですが、件の茶室は現在山元町の指定文化財になっています。伊達家の茶の湯の文化を伝える唯一の遺構として歴史的価値が高いものです。しかし、老朽化等で朽ち果てかけていましたが、昨年修復されました。それを記念してその茶室で、道直の英断を講談仕立てで語ってもらったものですから、これ以上の演出はありません。それにしても水野忠邦にその若さでと言わしめた道直30歳の時のこと。死を覚悟し一切の迷いなく、伊達の血筋を守り切った武士道の見事さ。茶室はそのことを知る生き証人とも言えます。
それでは又、4月21日よりお耳にかかりましょう。

講談師 村田琴之介 (切腹の場面)
【第1342話】 「無憂樹」 2025(令和7)年4月1日~10日
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お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第1342話です。
お釈迦さまが生まれたところにあった木は、無憂樹。悟りを開いた所にあった木は、菩提樹。亡くなった所にあった木は、沙羅双樹。これを三大聖樹と言います。無憂樹はインドでは、字の如く憂いの無い木ということで、乙女の恋心を叶えるなど、幸福の木とされます。
さて、4月8日はお釈迦さまがお生まれになった降誕会です。父は釈迦族の王でスッドーダナ、母は釈迦族の隣のコーリア国の王女で、マーヤー妃。結婚してしばらく子宝に恵まれず、30歳過ぎてからの受胎でした。臨月が近づき、出産のため生家へ帰ることになります。途中ルンビニ―という花園で、美しい花をつけている無憂樹の下で小休止されました。あまりの花の美しさにマーヤー妃が、枝に手を添えた時に、急に産気づき、お釈迦さまを出産されました。
この時、お釈迦さまの誕生をお祝いして、空から龍王が甘い香りの雨を降らせ、お釈迦さまを産湯につかわせ洗い清めたと伝わります。降誕会で花御堂の誕生仏に甘茶を灌ぐのは、この時の因縁によるものです。そして無憂樹も幸福の木として、お釈迦さまの誕生にふさわしいものでした。
しかし、母マーヤー妃は出産一週間後に亡くなってしまいます。ルンビニ―という花園での出産は、ドラマチックではありますが、出産に適した環境とは言えないでしょう。当時としては高齢出産という無理が祟ったとしても不思議はありません。ともかく、お釈迦さまは母の姿を知らず、その後、養母となったマーヤー妃の妹マハーパジャパティに育てられます。無憂樹の木に祝福されながらも、決して憂い無き人生の始まりではなかったのです。
「私がこの世に命をいただいたが故に、母は若くして命を終えたのではなかろうか」と、苦悩することになります。そして生老病死という人間の根源的な悩み苦しみからの解脱を目指し、29歳の時出家します。6年間の修行の後、35歳で菩提樹の下で悟りを開かれ、仏陀となられました。母の死があったればこその悟りと言っても過言ではありません。
そして人々の憂いを除き、幸せを願い説法の旅を続けられました。80歳の時、沙羅双樹の林の中で、涅槃に入られました。お釈迦さま最期の涅槃の図には、雲にのった母の姿が描かれています。母はお釈迦さまを産んだ功徳により、忉利天(とうりてん)という天上界に生まれ変わっていました。臨終の知らせを受けて、お釈迦さまの下に降りられるところなのです。無憂樹の下で生まれても、母の死という憂いは生涯消えることはなかったことでしょう。生きてま見えることはなかった母をどれほど慕っていたか分かりません。母からいただき、仏陀として生きた80年の命を、今こそ何ら憂いも無く母にお返しするという思いが、涅槃図の母の姿に込められているような気がします。
それでは又、4月11日よりお耳にかかりましょう。
【第1341話】 「復興というコマーシャル」 2025(令和7)年3月21日~31日
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お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第1341話です。
今年1月フジテレビは不祥事により、番組のスポンサーに続々撤退されました。そのようなテレビで企業や商品を売り込むのは、イメージダウンになるという判断からです。空いた枠はACジャパン公共広告機構のコマーシャルで穴埋めをしました。
ACジャパンといえば、東日本大震災の時を思い出します。あの時も、普通のコマーシャルがなくなり、ACジャパン一色になっていました。たくさんの人が亡くなり、家屋や家財道具など、ありとあらゆるものが流されたり破壊されたりして、瓦礫と呼ばれたのです。地獄のような光景が広がっていました。避難所では一本の割りばしを折って使い、ギリギリの食事をしなければならないのです。そんな惨い現実に向かって、生命保険や電化製品・自動車、住宅や食品などの華やかなコマーシャルを流したら、逆宣伝もいいところでしょう。そのような配慮で、一般のコマーシャルは自粛したわけです。
大震災1週間で1万3千本以上のACジャパンのコマーシャルが流れたそうです。もっとも、大震災から1週間以上は停電状態でしたので、私はテレビもラジオも視聴することはできませんでした。その後もしばらくニュース以外の番組はなかったような気がします。お笑いや歌舞音曲の番組も控えていました。
ある人が言いました。「普通のことが普通でなくなり、普通でないことが普通になった」。まさにその通りです。時にはしつこい、やかましいと思うことのあるコマーシャルが消えるなど普通ではありません。私が毎日遺体安置所や火葬場に通って供養のお勤めをしたことも異常ですが、その時カーラジオから流れて来るニュースは、死んだ、壊れた、流されたという情報ばかりでした。間にACジャパンのコマーシャルが入るのでした。それが普通の日常と化していたのです。
大震災から14年が経ち、今はテレビ・ラジオから普通に、賑やかなコマーシャルが流れ、笑いも歌も溢れています。普通のことが普通になりました。当たり前の日常が戻ったのです。あの時のACジャパンのコマーシャルが懐かしいと思えるほどになりました。「あゝ 懐かしいと思ったとき 復興ができている」シンガーソングライター松任谷由実さんの言葉です。
「懐かしい」という漢字は「ふところ」とも読みます。「目から垂れる涙を衣のふところで囲んで隠すさま」を表す会意文字です。あの時の涙を忘れず、それぞれの懐に大事にしまい込みましょう。つまり、あの困難を何とか乗り越えられたことを、これからの人生の肥やしとすることです。更にこれまで被災地を支えてくださった多くの方の、懐の深さのおかげに感謝することでもあります。その時、復興という名のコマーシャルがそれぞれの心に響き、被災地のイメージアップになることでしょう。
それでは又、4月1日よりお耳にかかりましょう。
【第1340話】 「彼岸の人」 2025(令和7)年3月11日~20日
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お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第1340話です。
八木澤克昌さんは、誕生日を2日後に控えた1月7日、66歳で急逝しました。私も顧問を務める公益社団法人シャンティ国際ボランティア会(SVA)で、タイ・ラオス・カンボジア・ミャンマーの事務所長を歴任した方です。アジアにおけるNGOの先達として、困難な人々のために生涯を捧げたのです。その功績により、外務大臣賞・読売国際賞やカンボジア国王勲章を受章しています。
1980年SVAの前身である「曹洞宗東南アジア難民救済会議」に入職し、タイ・バンコク事務所に赴任しました。カンボジアから戦争を逃れてタイで難民キャンプ生活をしているカンボジアの子どもたちに、絵本を届けることが活動の始まりでした。リュックに何十冊もの絵本を詰めて、30キロの道のりをヒッチハイクで届けたと言います。現在のSVAの移動図書館活動の原点です。大学時代にお兄さんを亡くし、お父さんから「人は自分のためにだけ生きていてはいけない。人のために生きなさい」と言われたたことも、大きな転機となったようです。
さて、私が曹洞宗東北管区教化センターの責任者だった時、センター設立30周年記念事業として、カンボジアに移動図書館車を贈ることになりました。現地での贈呈式のため、一行12名でカンボジアを訪れました。しかし肝心の車がないのです。カンボジアで日本車を輸入するためには、アラブのドバイを経由しなければならないとか。その船が遅れて贈呈式に間に合わないというのです。
ここからが当時カンボジア事務所長八木澤さんの本領発揮です。たまたま日本の大使館が、同じ型の車を最近購入したことを知り、彼の顔で一時借用することができました。車の側面には贈り主の名前を書いた仮のステッカーを張り、贈呈式に間に合わせてくれました。タン・クロサウ村小学校でのお披露目式には千人もの人々が集まり、熱烈歓迎の段取りまで整っていました。彼のこの離れ業は、日頃如何に地元に根差して活動しているかを物語っています。今だから言える18年前の出来事です。
彼ほど現場主義に徹した人を知りません。タイの女性と結婚しタイに暮らしていました。と言ってもクロントイスラムという貧民街にです。「スラムに暮らせば、スラムの問題を自分の問題として関われる」と言うのです。「いつまでスラムに住むの」と高校生になった娘さんに泣かれたこともあったそうですが、信念を貫きました。スラムの人々と泥水に入って柱を建て、困難や苦しみを我がこととして、支援に心血を注いだのです。
「身は泥中に在りと雖も 心は天上の月に似たり」という言葉があります。八木澤さん、あなたこそ人々の困難や苦しみという闇を照らす月のようです。「己れ未だ度(わた)らざる前に一切衆生を度さん」という彼岸の教えそのものです。今頃は彼岸に渡り、また移動図書館を始めているのでしょうか。少しヒッチハイクが早すぎましたけどね。
ここでお知らせいたします。2月のカンボジアエコー募金は、1,029回×3円で3,087円でした。ありがとうございました。それでは又、3月21日よりお耳にかかりましょう。
【第1339話】 「旦過寮」 2025(令和7)年3月1日~10日
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お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第1339話です。
正月元旦の「旦」という字は「あした」とも読み、日の出の頃をいいます。禅宗の道場には旦(あした)に過ぎると書く「旦過寮(たんがりょう)」という寮があります。夕べに来て早朝に去る、つまり行脚僧が寺に一夜泊まるところです。転じて、修行僧が正式に入堂する前に何日か滞在するところも指します。
旦過寮は寺に入ることは許されたものの、まだ本格的な修行に入る前のお試し期間のようなものです。同期の修行僧何人かと寝起きを共にしますが、私語を交わすことはできません。朝の勤行と食事・掃除以外は、一日中坐禅をし続けるだけです。世の中との接点は一切断たれて浦島太郎状態です。
東日本大震災が起きた時、T和尚さんは、福井県の大本山永平寺に入ったばかりで、まさに旦過寮詰めでした。彼の師匠さんのお寺は宮城県の沿岸部に位置し、甚大な被害があったところです。できたばかりの庫裡は津波が2階まで達し、本堂には流木が突き刺さり半壊状態です。しかし、旦過寮の彼は、そんなことを知る由もありません。
ある時、先輩の和尚さんがこっそり大震災が起きたことを教えてくれました。しかも自分が修行を終えて帰るべき寺が、とんでもないことになっているというのです。もはや旦過寮どころではありません。犠牲者もたくさん出ているとか。自分の家族は大丈夫だろうか。先輩が隠して持ってきてくれた新聞を便所に持ち込み、犠牲者に家族の名前がないかを夢中で探しました。
旦過寮を終えて少し落ち着いた頃、先輩和尚さんが師匠さんに連絡を取ってくれました。「家族は全員無事だが、寺も含め町全体がとんでもないことになっている。心配だろうが帰ってきてもどうにもならない。寝泊まりするところもないのだから。修行に専念しなさい」という師匠からの言葉を伝えられました。
旦過寮はそれまでの生活から一変した極限の試練の場です。おまけにTさんは、断片的に耳に入る被災状況にも、想像が追いつかず、不安と心配が渦巻いていました。寺に帰らず自分だけが修行していていいのだろうかと、悶々とする日々を過ごしたそうです。それでも師匠の言葉と同期の修行仲間にも励まされて、今自分は修行に向き合うことしかないと腹をくくって、無事全うすることができました。そしてTさんが寺に戻ってからは、復興が加速しました。師匠さんの住職就任披露とTさんが一人前の和尚になる法戦式という大法要が大震災2年後に営まれたのです。
当時の修行仲間も全国に散って、それぞれ僧侶としての道を歩んでいます。そして彼らは3月11日にはTさんの寺に毎年集まり、今も大震災犠牲者の追悼法要を行っています。Tさんの寺は彼らにとって、大震災に向き合うという第二の修行としての旦過寮なのかもしれません。
それでは又、3月11日よりお耳にかかりましょう。