テレホン法話 一覧

【第1354話】 「八月や」 2025(令和7)年8月1日~10日

住職が語る法話を聴くことができます


 お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第1354話です。

 「八月や 六日九日 十五日」詠み人多数といわれる句だそうですが、戦争の重みを訴える力が感じられます。広島と長崎に原爆が落とされ日、そして終戦となった日が詠み込まれているからです。

 先日檀家のAさんがお出でになりました。終戦から80年という節目なので、戦死したお父さんの供養をお願いしますというのです。昭和100年の今年は、昭和20年の終戦から80年になります。Aさんのお父さんは昭和20年8月26日に亡くなっています。この年の過去帳を見ると201人の戒名が記されています。戒名から察するに、戦死と思われる方は97人で、全体の約半数です。更に小学生以下と思われる子どもさんも、約30人います。戦中戦後の過酷な生活環境がもたらした数でしょうか。

 Aさんは当時5歳で、弟さん妹さんの3人兄妹です。妹さんはお母さんのおなかの中にいる時なので、お父さんの顔を知りません。夫を亡くしたお母さんは乳飲み子を抱え、苦労しながらも3人の子どもを無事育て上げました。20年ほど前に90を超えて天寿を全うされました。この度戦死したお父さんと一緒にお母さんの供養も行うことになりました。

 Aさんのような境遇の方は、檀家さんには勿論、全国にもたくさんいらっしゃいます。戦争は何ひとつ得になることはありません。失うことばかりです。何万何十万という掛け替えのない尊い命が失われています。戦争が終わっても、遺族の方の人生には、想像を絶する悲しみ苦しみ絶望が、日常的に渦巻いていたはずです。

 人の愚かさの中でも戦争はその最たるものです。お釈迦さまは『法句経』の中で次のようにお示しです。「すべてのもの 刀杖(つるぎ)を怖れ すべてのもの 死をおそる おのれを よきためしとなし ひとを害(そこな)い はた そこなわしむるなかれ」つまり、誰もが武器におののき、死を恐れるものである。だから、他人を吾が身にひきくらべて、決して殺してはならぬ、傷つけてはならぬ、ということです。「戦え」と命令する人に、吾が身に引き比べる想像力があれば、決して戦争は起こらないはずです。

 我が国は幸いにして、80年間戦争のない時代が続いています。しかし、今も世界各地で惨い戦争が絶えません。パレスチナ自治区ガザでは、餓死する子どもが日に日に増えています。まだ武器も死も知らない幼き子が真っ先に犠牲になっています。こんな事があってはなりません。それでなくても、地球上は、温暖化の影響でしょうか。どこもかしこも連日猛暑日が続いています。これは人類生存の危機という自然界からの警鐘と思うべきです。戦争などしている場合ではないのです。人類の英知や財力を戦争ではなく、地球の環境保全にこそつぎ込むべきです。そうでなければ異常気象という自然の武器は、万人の命を脅かしてくることでしょう。「八月や 三十 三十五 四十度」(詠み人 誰でも)。
 
 それでは又、8月11日よりお耳にかかりましょう。

 

【第1353話】 「同事」 2025(令和7)年7月21日~31日

住職が語る法話を聴くことができます

 お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第1353話です。
 
 ドウジはドウジでも「同じ事」と書く「同事」について、『修証義』というお経に「同事というは不違なり、自にも不違なり、佗にも不違なり」とあります。「同事とはたがわぬことで、自分にも他人にもたがわず,そむかぬこと」つまり、自分と他人が同化して一体となることとも言えます。
 
 先日若い住職さんの結婚披露宴にお招きいただきました。結びの彼の挨拶は、この同事に触れたものでした。「父である前住職は、私が中学生の時亡くなりました。昨年17回忌を終えました。父から僧侶として指導を受けることは叶いませんでした。だから檀家さんにどんな法話をしていたのか知る由もなく、住職になったとはいえ、檀家さんにどのように接していいのかわからないことばかりです」と、素直に語り始めました。
 
彼はある時、1本のビデオテープを見つけたと言います。再生してみると、そこには檀家さんに法話をしている父である前住職が映っていたのです。「同事とは相手が悲しんでいる時には、親身になって慰め励まし、相手が喜んでいるときには、我がことのように心から称えることですよ」。同事ということについて分かりやすく説いていました。
 
 そのことにほぞ落ちした彼は、檀家さんへの接し方に迷いがなくなったようです。そして「これからは寺の住職として、檀家さんへの同事行と併せて、今日結婚した妻とも、彼女が困っているときはやさしく寄り添い、うれしい時は共に喜び合えるような日々を築いてまいります」と頼もしく宣言して、万雷の拍手を浴びたのです。
 
 彼の小さい時からの夢は「坊さんになること」でした。それは父の姿を見ていたからでしょう。その父から直接指導を受けられなかったのは無念極まりないことです。しかし、時を超えてもビデオの中から前住職は、息子である現住職に、伝えるべきことを伝えています。更に忘れてならないのは母親の存在です。中学生の息子が一人前の坊さんになる夢を叶えるまでには、並々ならぬご労苦があったはずです。住職がいなくても檀家さんの葬儀や法事は待ったなしです。その都度他の住職さんに依頼しなければなりません。檀家さんへの対応も住職という立場でないので、戸惑うこともあったことでしょう。それもこれも乗り越えて晴れの日を迎えたのです。
 
 『修証義』には同事について次のようにも説いています。「海の水を辞せざるは同事なり。是故(このゆえに)に能(よ)く水聚(あつま)りて海となるなり」。海はどんな川の水も拒むことがないので大海になるということです。小さな川も大きな川も、きれいな川もそうでない川もすべて受け入れます。若き住職の母も、息子の夢の実現を思い描き、喜び悲しみ辛さ悔しさすべてを受け入れて、同事行に励まれたはずです。若いふたりの門出を祝福すると同時に、海より深い母の慈しみに対して心から敬意を表しました。
 
 それでは又、8月1日よりお耳にかかりましょう。

【第1352話】 「陰を忘れず」 2025(令和7)年7月11日~20日

 お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第1352話です。

 7月7日七夕の日、猛暑日が今年最多の210地点になりました。岐阜県多治見市では38.8度、北海道大樹町(たいきちょう)でも36.3度という体温よりも高いのですからから驚きです。

 私が初めて体温以上の気温を体験したのは、今から33年前カンボジアを訪れた時です。カンボジアは内戦がようやく収まりかけていました。その当時宮城県曹洞宗青年会では、カンボジア難民に衣類を贈る運動をしていました。日本からの衣類をカンボジアの人たちに直接手渡し、今後どのような支援ができるか視察を兼ねての訪問でした。

 日中はかなり暑く体温を超えていると、この時言われました。なるほど埃っぽい町中のせいばかりではなく、顔面に熱のカーテンでも下がっているかのようです。身体がついていかず何をする気にもなれませんでした。地元の人も、暑い時は木陰のハンモックなどで身体を休めているとか。その頃熱中症などという言葉も知らず、少し昼寝をしてから、午後の行動に移ることもありました。

 そんな時、珍しい光景に出会いました。カンボジアでは自動車もバイクもそれなりに走っていましたが、牛に荷車を引かせている人も当たり前にいました。それこそ牛の歩みでのんびりと走る荷車の下を見ると、一匹の犬がすまし顔で歩いているのです。荷車の下は完全に日陰です。荷車の速さに合わせて歩いていけば、強い日差しを避けて、涼しい道をどこまでもいけるわけです。犬だって涼しいところがいいのです。賢い犬だと感心しました。

 自然界において暑さを避けるためには、日陰にいるのが一番です。カンカン照りの時、ふと日陰に入ると、生き返る気がします。日陰のありがたさを感じる時です。しかし、こんな言葉があります。「暑さ忘れて 陰を忘れる」。この暑さもいつまでも続くわけではなく、やがて季節が移れば、日陰なんかとんでもない、日だまりが恋しいと、人間の勝手な思いが働きます。勿論この陰には「おかげ」という意味も含まれています。暑さでたいへんな思いをしたときのように、苦しい時誰かのおかげで助かっても、ちょっと好転してくれば、あっという間に、そのおかげを忘れてしまうということです。

 さて、宮城県曹洞宗青年会は30年以上に亘って、衣類や学校・絵本などをカンボジアの子どもたちに贈り続けています。その贈呈式でのことです。カンボジアは年中暑い国です。日陰は常に必要です。それなのに子どもたちは、日陰のない炎天下の校庭で、おかげを忘れず私たちを待っていてくれます。そして手を合わせた澄んだ瞳の子どもたちに「コンニチハ コンニチハ」の大合唱で迎えられると、さわやかな涼風に吹かれた気持ちになるのでした。

 ここでお知らせいたします。6月のカンボジアエコー募金は、1,181回×3円で3,543円でした。ありがとうございました。それでは又、7月21日よりお耳にかかりましょう。

【第1351話】 「明月院ブルー」 2025(令和7)年7月1日~10日

 お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第1351話です。

 「紫陽花や きのふの誠 けふの嘘」正岡子規の句です。紫陽花の色の変化を、人の心の変わりようや迷いに喩えているのでしょうか。紫陽花の季節、アジサイ寺・鎌倉の明月院を拝観する機会がありました。

 山門に至る緩やかな石段の両脇に咲く夥しい紫陽花に迎えられました。境内も紫陽花の海という感じです。「明月院ブルー」と称されるように、一面淡い青色の紫陽花です。2500株もあるそうです。戦後間もなく垣根の代わりに植えられたのが始まりと言いますから、その歴史はまだ浅いのですが、日本で最初にアジサイ寺と呼ばれたところです。寺の歴史は古く、今から865年前の平安時代末期永歴(えいりゃく)元年(1160)の創建です。臨済宗建長寺派に属します。本尊は聖観世音菩薩です。

 さて、紫陽花に圧倒されながらも、お寺へのお参りですので、方丈と言われる本堂に入って本尊さまに手を合わせました。境内の賑わいが嘘のように、堂内は静かです。紫陽花の美しさに心を奪われて、仏さまを拝むことを忘れているかのようです。しかし、本堂を出ると長い列をなしている人々の姿がありました。その列は本堂の脇の間に向かっていました。そこは壁が丸くくり貫かれた円窓(まるまど)があるのです。そこから本堂の後ろの庭を臨むことができ、季節の花々が円窓の中に納まって、絶好の撮影スポットなのです。2列に並んで最前列の者から次々にシャッターを押していきます。込んでいるときは1時間待ちになることもあるとか。四角い窓ならここまでのことはなかったかもしれません。丸がミソなのです。「悟りの窓」といわれているようですが、丸は禅の世界で宇宙を表しています。

 円窓から数メートルも離れていない本尊さまを拝む列はなく、悟りの窓の列は何を物語るのでしょう。誤解を恐れずに言えば、明月院を訪れる人は、本堂で手を合わせるというより、本堂は紫陽花の背景としての景色なのかもしれません。悟りの窓も、宇宙を感じるといより、丸く切り取られた風景の非日常性にひと時、心洗われるからでしょうか。見栄えが信仰心に繋がるといいのですが・・。

 悟りの窓からは見えませんが、本堂の後ろの庭には、青い毛糸を纏った「青地蔵」が祀られていました。そこの立て札に「青は不思議な色 見上げる空も青色 悠久の海も青色 だけど青地蔵は言う 透明な青色はどこにも存在しない」と書いてありました。空や海のように広い心は悟りの心です。究極は透明つまり何らこだわりや迷いもなくなったまっさらな心の人が仏さまです。紫陽花の花の色のように誠や嘘と移り変わる世の中にあっても、本物の青色に出会った今日の感動を忘れずに、心豊かに過ごしてください。そして今度お参りの時は、本堂で手を合わせ、透明な心になれますようにと、青地蔵は偉ぶるーことなく、やさしく語りかけているようでした。

 それでは又、7月1日よりお耳にかかりましょう。



悟りの窓



青地蔵

【第1350話】 「欲と水」 2025(令和7)年6月20日~30日

住職が語る法話を聴くことができます

 お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第1350話です。

 46億年前、地球ができたころ、まだ海はありません。3億年ほど経って、地球の表面が冷めると雨が降り始めました。何と千年間も降り続けたそうです。現在のような海になるまでには、更に7億年を要します。こうして36億年前に生命の起源が海に生じたと考えられます。ヒトの出現はずっと後のことで、400万年前です。そして、地球全体の70㌫が海です。奇しくもヒトの体の70㌫も水分です。

 地球にも人間にも水はなくてはならないものです。「人は水にかれても死ぬが おぼれても死ぬものである」大正時代の社会経済学者河上肇の『貧乏物語』にある言葉です。水は生命の源です。だからなくてはならないものです。同じ水が人をおぼれさせ、命を奪うこともあるわけです。これは単なる水の話ではなく、人間の欲望の例えとも言えます。命を養うために食欲は必要です。しかし、暴飲暴食は命を縮めます。欲に溺れて自滅しないよう、欲望を制御する自制心が大事です。

 さて実業家としても知られるアメリカのトランプ大統領は、世界で一番裕福な大統領かもしれません。そして古き良きアメリカを取り戻したいのでしょうか。自国の車が売れないのは、外国からの車が売れているからと、法外な関税を課してきました。外国の車の方が安くて性能が良いから売れているのです。それに対抗する努力もしないで、自分の国だけが豊かになればいいと、欲望丸出しの姿は、水に溺れる寸前に思えてきます。

 一方5月13日に89歳で亡くなったホセ・ムヒカ元ウルグアイ大統領は、「世界で最も貧しい大統領」と言われました。2010年~15年に大統領を務めました。公邸には住まず、収入の9割を貧困層に寄付して、自分の生活費は毎月15万円程度でした。そしてこう言うのです。「私は質素なだけで、貧しくはない。貧乏とは少ししか持っていないことではなく、無限に欲があり、いくらあっても満足しないことである」

 物質的豊かさに反比例して、心は貧しくなってしまいます。そして私はダライ・ラマの言葉を思い出しました。「欲望は海水を飲むことに似ています。飲めば飲むだけ、喉が渇くのです」。喉が渇く度に、次々と高い関税をかける大統領の愚行を指すかのようです。渇きを癒すためには、「自分だけが良ければ」という貧しい根性を捨てることです。真水を求める苦労をせずに、手近な海の水を飲んでは、喉が渇くだけです。真水を分け合う心の豊かさがある人こそ、まさに真のリーダーです。

 何十億年の彼方から繋がってきた私たちの命、計り知れない命のおかげで今の私が存在しているのです。自分一人が突然この世に存在したわけではなく、ひとりでここまで生きてこられたわけでもないのです。だから自分だけがと欲に溺れて海の水を飲んだら、人生はしょっぱい否、失敗です。

 それでは又、7月1日よりお耳にかかりましょう。

【第1349話】 「背番号3の背中」 2025(令和7)年6月11日~20日

 お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第1349話です。

 好きな数字はと訊かれたら、迷いなく「3」と答えます。勿論長嶋茂雄さんの背番号だからです。小学生の頃その背中に憧れました。ユニフォームなど買ってはもらえないので、「3」という背番号を手作りした覚えがあります。

 当時まだテレビはなく、たまにラジオで野球中継を聴くぐらいでした。そして伝説の天覧試合を聴いていた覚えがあります。同点で迎えた9回裏先頭打者の長嶋さんがサヨナラホームランを打った時の興奮は、忘れられません。天皇陛下は9時15分に帰られる予定でした。陛下が立たれる直前に劇的な一打を放ったのですから、神懸かりのようなものです。

 永光の背番号3の背中は、あまりにもドラマチックです。立教大学から鳴り物入りで巨人軍に入ってデビュー戦。プロ野球屈指の金田投手から4連続三振という洗礼を受けます。翌日の第一打席も三振でしたので、5打席連続バットにボールが当たらなかったのです。その後雪辱を果たすべく闘志を燃やし練習を重ね、新人の年を終わってみれば、全イニング出場、29本塁打と92打点でそれぞれタイトルに輝きました。躓いても立ち上がる背中の強靭さを感じました。

 現役引退後、1974年に巨人軍の監督に就任。しかし1年目は球団として初めて最下位という屈辱を味わうも、めげずに翌年は優勝を果たします。1980年一旦ユニフォームを脱ぎますが、1992年に監督に復帰。そして1994年10月8日、プロ野球史上初の同率首位同士の最終戦での優勝決定戦。天覧試合に勝るとも劣らない自ら「国民的行事」と称した中日との試合です。長嶋さんは試合前のミーティングで「勝つ、勝つ、勝つ」と3度言って選手を奮い立たせました。その結果見事、勝利監督になったのです。勝負師の背中は、全幅の信頼を得ていました。実はその年の7月24日92歳の母を亡くしています。幼い頃夜なべをして、布のボールを縫ってくれた母です。しかし、チームに迷惑をかけるからと、密葬にも帰らず隠し通しました。そして日本シリーズで日本一の監督になって本葬を行い、布のボールに報いる何よりの親孝行の背中を示したのです。

 「『雨ニモ負ケズ 風ニモ負ケズ』 そんな人生はつまらない せっかく雨が降ってくれたんだ 『雨を喜び』 せっかく風が吹いてくれたんだ 『風を楽しみ』 という生き方がいい」と長嶋さんは言っていました。ファンを裏切らないことを信念に、雨風に負けない努力の姿は見せずに、いつもひまわりのような明るさを以って、プロとしての矜持を貫いたのです。

 さて幼い頃背番号3に憧れたおかげで、今僧侶として「3」という数字には縁を感じます。仏教で大切な仏法僧という3つの宝「三宝」を日々敬うことができているからです。仏はお釈迦さま、法はその教え、僧はその教えを実践する者を言います。その三宝について3分間のテレホン法話で敷衍しているつもりです。「国民的テレホン法話」にはなれませんが・・・。

 ここでお知らせいたします。5月のカンボジアエコー募金は、1,100回×3円で3,300円でした。ありがとうございました。それでは又、6月21日よりお耳にかかりましょう。

【第1348話】 「いやしきおどけ」 2025(令和7)年6月1日~10日

 お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第1348話です。

 今からちょうど30年前、時の総務庁長官が、日韓関係を巡り「植民地時代、日本は良いこともした」と発言。韓国政府の反発を招き辞任に追い込まれました。その長官は江藤隆美(たかみ)氏です。その後、隆美氏亡き後、宮崎県の地盤を世襲したのが息子の江藤拓(たく)氏です。

 先般、時の江藤拓農林水産大臣は、講演会で「コメは買ったことがない。支援者の方々がたくさんくださる。まさに売るほどある、私の食品庫には」という発言をしました。米価高騰のさなかに、米価を下げる効果的政策も示せずに、「買ったことがない、売るほどある」とは、庶民感情を逆なでして余りあります。しかも「わざとじゃないだろうけど、いろんな物も混じっている。石とかが入っている」とまで言い放っています。まるで米を作っている方に対する感謝の気持ちがないばかりか、手落ちを責めるかのようです。

 これほどの心無い言葉を発しながら、当初は撤回もせず、修正を主張していました。「講演はちょっとウケを狙って、強めに言った。消費者に対する配慮は足りなかった」。更には「宮崎ではたくさんいただくと『売るほどある』とよく言う。宮崎弁的な言い方でもあった」と、苦しい弁明を重ねました。もはや何を言ってもアウトがセーフに覆るわけはありません。結果、更迭ということになりました。

 しかし、その辞任の弁も「身を引くことが国民にとってもいいことだと判断した」と、まるで自分の身は守り、国民に恩を売っているかのようです。自分が悪かったと素直に認めたくないのでしょう。30年前のことも忘れ、米も買わず、人の痛みを感じる眼差しを持てないまま今日まで生きてきたとしか思えません。

 さて、ご存じ良寛さんは子どもとは無邪気に戯れ、苦しんでいる人の前では共に涙を流すような方でした。常に自分というものを無くし、子どもにも大人にも素直な心で接していたからこそ、親しまれたのです。しかし自分には厳しく、「言葉についての戒め」として「『戒語』90カ条」を書き残しています。手柄話など、自分がそんな風に言われたら嫌だなと思うことは言うべきではないという戒めが示されています。その中に「いやしきおどけ」というのがあります。「おどけ」とは「おどけた仕草で笑わせる」などと言う、ふざける意味があります。今で言えば「ウケを狙う」に当たります。

 この度の江藤大臣のウケ狙いは「いやしきおどけ」そのものです。一線を越えた失言は、人を笑わせるより、自分が笑われています。人々が求めていたのは、ウケよりもコメです。更に「戒語」には「悪しきと知りながら言い通す」戒めもあります。自分に厳しく素直に非を認める政治家こそ、人々にはウケるはずです。

 それでは又、6月11日よりお耳にかかりましょう。

【第1347話】 「ひきくらべる」 2025(令和7)年5月21日~31日

 お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第1347話です。

 八つ当たりの「八」は「四方八方」の意味で、誰かれなく時ところを選ばず、当たり散らすことです。自分自身の四苦八苦の苦しみを、どうにも解決できずに、自暴自棄になっているふるまいです。

 5月1日大阪市で、下校中だった小学2年・3年の児童7人が、学校近くの道路で、突っ込んできた車にひかれました。1人はあごを骨折する重傷で、他は打撲などの軽傷でした。殺人未遂で現行犯逮捕されたのは28歳の東京の男性。「苦労せず生きている人が嫌だった。全てが嫌になり人を殺そうと車で突っ込んだ」という供述をしていて、無差別に児童を襲ったようです。わざわざ東京から大阪まで来て、レンタカーを借りてまでするようなことでしょうか。身勝手にもほどがあります。

 5月7日には東京メトロ東大前駅で、大学生の男性が刃物で切り付けられる事件がありました。殺人未遂で現行犯逮捕されたのは、長野県の43歳の男性。「親から教育虐待を受け、不登校になり苦労した。東大を目指す教育熱心な親たちに度が過ぎると、私のように罪を犯すことを世間に示したかった」と供述しています。これまた自分勝手な思い込みを、どうにも処理できなくて、他に八つ当たりしている姿です。

 5月11日千葉市では、自宅近くを歩いていた84歳の女性が突然刃物で背中を刺されて死亡しました。殺人容疑で逮捕されたのは、市内に住む中学3年の15歳の少年です。少年と被害者には面識がなかったようです。そして「誰でもよかった」という供述をしています。少年は祖父母と父親と同居しています。しかし、家出をしたり、夜遅く帰宅したりという問題を抱えてはいました。祖母は言います。「誰でもよかったなら私を殺してほしかった」。切ない言葉です。

 さて、お釈迦さまの言葉である『法句経』に、「すべての生きものにとって生命(いのち)は愛おしい 己が身にひきくらべて 殺してはならぬ 殺さしめてはならぬ」とあります。殺すことは勿論、殺させるべきではないということです。「己が身にひきくらべて」つまり自分の身を殺される側に置いて想像してみればわかります。殺される人はどれほどの恐怖を感じるか、そして周りにどれだけ悲しむ人がいるのかを思えば、殺す側に立てるわけがありません。犯人だって自分の命は愛おしいはずです。

 八つ当たりというには、あまりにも惨い事件が続きましたが、どうしても自分だけが辛いとか苦しいという思いに凝り固まると、八方塞がりになってしまいます。その壁はどんな八つ当たりを以ってしても突き破ることはできません。ならば壁を飛び越えることです。そのためには、己が身にひきくらべる想像力というエンジンと、どんな命をも愛おしむ翼と相手の痛みを共感できる翼を備えましょう。そして飛行機に滑走の時間が必要なように、八つ当たりする前に、冷静に周りを見渡すことです。空が見えたらしめたものです。さあ飛び立つ時です。

 それでは又、6月1日よりお耳にかかりましょう。

【第1346話】 「五体投地」 2025(令和7)年5月11日~20日

住職が語る法話を聴くことができます

 お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第1346話です。

 大阪・関西万博が始まって間もなく、警備員が土下座している様子が報じられました。カスタマーハラスメントいわゆる客からの不当な迷惑行為を疑われました。来場者男性に駐車場を尋ねられた警備員が、その応対のとき身の危険を感じて、自ら土下座したということでした。

 土下座は本来、目上の人や神仏に対して敬意を払う最上の礼法です。大名行列で大名の籠が通るとき土下座をしたことでもわかります。それが大正・昭和にかけて、謝罪やお願いをするときの姿勢になってきました。現在では土下座を強要すると強要罪という立派な犯罪です。

 さて、土下座の原点は古代インドにあります。五体投地という最高の敬礼法です。相手の足元にひざまずき、頭を地につけ、両手で足先を手に取り、額に接触させるというものです。まさに額づいて最大の敬意を表すわけです。

 私たち僧侶も仏さまや祖師に対しては、単なる合掌だけでなく、五体投地の礼拝をします。両膝・両肘・額の5点を地に付けてお拝をします。最初に膝を折り、肘と額を地に付けます。その時、手のひらを上向きにして、耳のあたりまで上げて、何かを戴くような作法をします。仏足つまりお釈迦さまのおみ足を戴くつもりで、恭しく行うのです。この一連の動作を「一拝」と数えます。基本は「三拝」をして、ひとつのお拝となります。法要の前後に三拝をしますし、丁寧な法要であれば間にも三拝が入ります。「三拝九拝して頼みごとをする」と言いますが、繰り返しお拝をして礼を尽くすわけです。大法要になれば一日に何度も三拝をしなければなりません。かなりの修行です。

 五体投地という身を投げ出して、全身全霊で仏足を戴くとは、仏さまの頭のてっぺんからつま先まで、全てを有難く頂戴いたしますという、これ以上にない意思表示です。そして「南無帰依仏」とお唱えしますが、「南無」はサンスクリット語の「ナモ」を音写したもので、尊敬を込めて礼拝する意味があります。「帰依」は日本語で、深く信仰し教えに従うということを表します。「南無帰依仏」は、まさに五体投地の心でもあります。

 よく老僧が言っていました。「お拝ができなくなったら和尚をやめるときだ」。確かに歳と共に足腰や膝が弱ってくれば、五体投地の三拝も難行苦行になってきます。しかし五体投地ができなければ、土下座して仏さまに謝ることもできません。つまり死ぬまで和尚をやめられないということでしょうか。もっとも仏さまは決して無理難題を押し付けるようなカスタマーハラスメンはしません。だから心を無にして信じればいいのです。「右ほとけ左はわれと 合わす手の 中にゆかしき 南無のひとこえ」

 ここでお知らせいたします。4月のカンボジアエコー募金は、1,165回×3円で3,495円でした。ありがとうございました。
 それでは又、5月21日よりお耳にかかりましょう。

【第1345話】 「草も木もありがとう」 2025(令和7)年5月1日~10日

 お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第1345話です。

 先日「私が愛した野草園―高橋都作品展―」という案内状が届きました。そこには次のような一文が添えてありました。「いろいろお世話になりました。母は94歳で昨年8月17日に永眠しました。母の作品をこのような形で展示することになりました」。差出人は高橋都さんの息子さんです。先ずお亡くなりになったことに、びっくりしました。そして、様々な作品を制作されていたことを少しも存じ上げていませんでしたので、作品展にも驚きました。

 都さんは数年前からこのテレホン法話をお聴き下さっていました。しかもかなり熱心にです。感想などを書いたお便りを何通もいただきました。毎朝あるいは日に何回も聴くこともあったようです。毎日繰り返し聴くことで、3分間の法話の全体がつながりますということでした。直接お会いしたこともお話をしたこともありませんでしたので、その人となりについては知る由もありません。

 ともかく、仙台市の野草園にある展示会場を尋ねました。ちょうど息子さんがいらして、いろいろお話を伺うことができました。都さんは女子高校で長年家庭科の教師を勤めて、70歳を過ぎてから絵を始めたと言います。自宅が野草園の近くだったこともあり、毎日のように通い、そこの草木を描き続けました。また仙台近郊の山々をモチーフにした作品も多数残されました。創作意欲は絵画に留まらず、染織や裂き織で仕立てた作品は、斬新でその色遣いがとても若々しく感じられました。すべての作品には草花や木々の命をいとおしみ、芸術的な風合いを織りなす都さんの心が見事に表現されていました。

 息子さんは次のように語っていました。「母は、亡くなった自分の母親が着ていた襦袢の一部で裂き織のタベストリーを作り、部屋に飾っていました。位牌代わりに手を合わせていたようです。あれが母の作品の原点かもしれません」

 こんな歌があります。「恋しくば おのが躰に触れてみよ かたみにのこる 母の温もり」亡き母を拝むとき、合わせた手と手の間に伝わる温もりは、まさに母よりいただいたものです。都さんも、母親が身につけていた襦袢に母の温もりを感じていたことでしょう。古くなった着物は捨ててしまえばそれまでです。しかし、いま一度工夫を凝らせば、再び命を吹き込むことができます。草花も枯れてはしまいますが、都さんの作品の中で命を輝かせています。自分という命は両親はじめ、どれだけ多くの命に支えられているかを常に思い描き、感謝の心を忘れなかったご生涯だったのでしょう。

 「地球さんありがとう 草も木もありがとう みんなありがとう 94年を生きました」展示会場に掲げられていた言葉です。母の日を前に改めて、都さんのご冥福をお祈りいたします。合掌

 それでは又、5月11日よりお耳にかかりましょう。



高橋都さんの作品