テレホン法話 一覧

【第1196話】 「お経がいい」 2021(令和3)年3月11日~20日


 お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第1196話です。

 ほんとうならそこは緑の絨毯が広がって、のどかな田園地帯だったはずです。しかし当時は黒いヘドロに覆われ瓦礫が散乱していました。10年前の東日本大震災で遺体安置所になったところから見えた景色です。

 町内の葬祭会館の広い駐車場に、何棟もの大きなプレハブが建てられ、そこに身元が判明した遺体が次々安置されました。連日そこに通ってお経のお勤めをしました。20体を超える棺がひとつの建物の中に整然と並べられている様は、想像を超えた異様な雰囲気でした。

 しかし、現実は現実です。棺の上に記された名前を見て、この人も亡くなったのか、この人もか、と暗澹たる気分に陥りました。限られたスペースの簡便な焼香台の前でお経を挙げます。本来なら自宅でお勤めをすべきところでしょうが、たいていの方はその自宅も流されているのです。安置所の窓から見渡す先に自宅があったろうに、今は変わり果てた黒い大地です。もしかしたら、この人もあの辺りで発見されたのかもしれないと思うと、胸が詰まりました。

 目の前には地獄のような景色。足元には何十もの棺。そこでお経を挙げても、何ほどの功徳があるだろうかと正直思いました。更に遺族の方は重い苦しみ悲しみを背負っているのです。お経を終えて遺族の方と向き合った時、その背中を少しでも軽くする言葉をかけなければと思いながらも、とうとう一言も発することができず、無言で挨拶をするだけでした。和尚としての非力を痛感する日々でした。

 しかし最近こんな言葉に出会って少し救われました。フランス文学者奥本大三郎は言いました。「ただの慰めの言葉より、お経がいいときもある」。圧倒的な心の痛手を抱えた人に、何を言ってもほとんど届かないかもしれません。心の奥のことはその人自身にしか納得できなしでしょう。

 お経は唱えている我々もすべてを理解しているわけではありません。ましてや聞いている人はちんぷんかんぷんです。しかしお経は得も言われぬ力を秘めているはずです。千年を超えて脈々と伝えられているのが何よりの証です。「お経は全身で唱えよ、聞く人は単に耳で聞くのではなく、全身の毛穴からもお経は入っていくのだから」と、老僧に教えられたことがあります。

 確かに遺体安置所で慰めの言葉ひとつかけることはできませんでした。ただ、全身全霊でお経を挙げたつもりです。たとえ地獄のようなところで亡くなっても、その人に仏さまになっていただければ、仏さまが亡くなったところを、誰も地獄とは言わないはずだと信じたからです。ひたすらに成仏を願って唱えたお経でした。もしかしたら、そのお経で私が一番救われたのかもしれません。

 ここでお知らせいたします。2月のカンボジアエコー募金は、170回×3円で510円でした。ありがとうございました。

 それでは又、3月21日よりお耳にかかりましょう。


遺体安置所(写真提供:山元町)

【第1195話】 「10年ひと昔」 2021(令和3)年3月1日~10日


 お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第1195話です。

 「10年ひと昔」という言葉は、一時代前ということです。しかし東日本大震災に限っては、10年前も今も、つながっている現在と思わなければならないのでしょう。そんな2月13日に起きた震度6の「東日本大震災の余震」です。それでも時の流れは確かで、現在の小学生のほとんどは、大震災のことを実感としてわからない世代です。

 さて、地元の坂元中学校は10年前の3月11日は、午前中に卒業式を終えて、午後には大震災の避難所になりました。少し高台にある学校から東側の海岸線を望めば、松林も民家も線路も流され、一面黒いヘドロの大地に変り果てました。これは現実なんだろうかという光景が広がっていました。

 今や10年前と同じところに立っても、昔の故郷を偲ぶ景色は見られず、人が住んでいたところは広い畑や田んぼになっています。道路や河川も整備され、歳月なりの復興した姿です。しかし、その復興に反比例するかのように、過疎化と少子高齢化は進みました。震災がなかったとしても早晩危惧されたことが、大震災で加速したようです。

 生徒数52人の坂元中学校は、町内での学校再編に伴い、3月末で74年の歴史に幕を閉じることになりました。その閉校式を2月20日に行う予定でした。ところが「震度6の余震」により、体育館のボルトの落下や照明器具の故障、屋根も破損し雨漏りもする状態になりました。式は延期したものの、体育館の復旧の見通しが立たず、会場の変更を余儀なくされました。

 大震災の時は多くの避難者を受け入れ、極限の被災状況から、その命を守ってくれた学校です。中学校としての使命を終えて、生徒や関係者、故郷の方々から、感謝とお別れの言葉をかけていただけるはずだったでしょう。大震災からの10年間は、特別な経験をした子どもたちを、暖かく包み、励ます存在だったかもしれません。そして、これからも校舎としてあり続けたら、大震災を知らずに育ってきた子どもたちに、何がしかの教訓を残せたかもしれないのです。

 それが何という巡り合わせでしょう。大震災の時は敢然と困難に立ち向かって、避難所となったというのに、中学校という役目を全うし、閉校式会場として有終の美を飾るはずが、10年目の余震の被害で、それを果たせないとは。10年間、少しづつ減っていく子どもたちを見守りながら、必死で耐えてきて、とうとう力尽きたかのようです。

 昔ある先生が卒業式の最後の学級会でこう言いました。「幸せになりなさい。先生からの最後の宿題です。但し、提出期限は生きている間」。坂元中学校も、せめてあと10年も存続し、人々の関心を集め、「10年人向かし」続けてくれたら、人生の宿題を解いて、故郷を愛する子どもたちが、たくさん訪ねて来てくれたろうに、残念です。残された校舎に、しあわせな第二の人生はあるのでしょうか。

 それでは又、3月11日よりお耳にかかりましょう。

【第1194話】 「10年目の余震」 2021(令和3)年2月21日~28日


 お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第1194話です。

 「平成28年熊本地震」は、4月14日午後9時26分に震度7を記録しました。その2日後の午前1時46分にも震度7の地震が発生。震度7が2度も続くのは史上初めてといわれました。そして前に起きたのが「前震」で、後からのが「本震」だったというのです。震度7もの地震が、次に起こる地震の前触れとは誰も思わないでしょう。十分に「本物の地震」です。前震で何とか助かったと思った矢先に、また同じ程度の地震に襲われ、心が折れた人がたくさんいました。被害も拡大しました。

 一方、2月13日午後11時7分に、福島県沖を震源とする震度6の地震が発生しました。震源地に近い徳本寺あたりは、大きな被害に見舞われました。家の中の散乱状態を見れば、10年前の東日本大震災が蘇ります。本堂の仏具類は倒れたり落ちたり、位牌堂の何百という位牌がすべて壇から落ちました。

 そして驚くことに、今回の地震は、東日本大震災の「余震」だというのです。あの大震災から間もなく10年というタイミングで、まだ余震が、しかも普通の地震より大きなものが襲ってくるとは想定外でした。熊本で日を置かず大きな地震が発生したことも驚きですが、10年経っても威力の衰えない余震が襲ってくるとは、自然の脅威におののくばかりです。

 この度は、津波がなかったので幸いでしたが、真夜中に起きたにもかかわらず、10年前の教訓が活かされたのか、意外と冷静に対応できました。人的被害がほとんど聞かれませんので安堵しています。大震災以降、地震に対する備えは、様々な面で進んでいます。例えば墓石の被害です。昔ながらの背の高い竿石や灯篭は、地震に一番弱いと言われてきました。徳本寺の墓地でも多数の被害がありました。そんな中で、ここ10年間で新しく建てた墓石や、補強が施されたところは、被害の程度が少ない印象です。当然家屋の建築においても、その事は当てはまるでしょう。

 余震という言葉に惑わされてはいけません。本震で余った力だからとか、10年も経てばその元は消えてしまうなどと思わないことです。私はよく問いかけます。「余生を楽しむ」といいますが、余生という余った生命など、どこにありますか。私の命は少し余計だから、あなたに上げますと言えますか。私はもう少し長生きしたいので、あなたの命を譲ってくれませんか、とも言えないのです。

 第一線を退いての、余生を楽しむということはわかりますが、命に余りはありません。いつも100%の我が命です。余震とて同じでしょう。100%地震という自然現象の力を秘めたものなんだと強く意識しなければなりません。常に100%の備えを心がけるべきでしょう。ああ、余生を楽しむことができなくなってしまいますね。

 それでは又、3月1日よりお耳にかかりましょう。



散乱した位牌堂の位牌


倒壊した墓地

【第1193話】 「吾唯足知」 2021(令和3)年2月11日~20日


 お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第1193話です。

 「吾唯足知(われ ただ たるを しる)」という4つの漢字には、全て「口」という字が含まれています。穴あき硬貨のように真ん中に「口」を置き、それを囲むように上から右回りに、「吾 唯 足 知」という4文字を配置した粋なデザインを見たことはありませんか。

 「足るを知る」とは「少欲知足」というお釈迦さまの教えに通じるものでしょう。お釈迦さまは約2500年前の2月15日に、沙羅双樹の林の中でお亡くなりになりました。その時の最期の説法が『遺教経(ゆいきょうぎょう)』というお経です。そこには「八大人覚(はちだいにんがく)」という修行者が実践すべき8つの徳目が述べられています。その1番目に少欲、2番目に知足が説かれています。

 少欲の反対は欲深いです。利得の追及は苦悩の元です。欲に患うことがなければ、少しのことでも満ち足りた気持ちになり、何ら憂いもなく穏やかに過ごせます。しかし、私たちが現実に生きていく限りは、食欲・睡眠欲などの基本的な欲は必要です。様々な欲望実現は人類の発展に寄与してきたところもあります。そこで求められるのが、ブレーキとアクセルの塩梅です。

 知足即ち足ることを知れば、苦悩から抜け出せると説きます。知足の人は地面に身を横たえても安楽と思えますが、不知足の人は、天上界の宮殿に住んでも不満を覚えるものです。どんなに裕福であっても、心の貧しさを補うことはできません。「知足の人は貧しといえども、しかも富めり」足りていると知る人は、暮らしは貧しくとも、心は裕福で安楽に過ごせます。

 ここで誤解しないで下さい。一般的な生活を営む中で、どんなに貧しくても、辛抱していれば心は豊かに暮らせますよという事ではありません。不自由な生活を強いられても我慢することが美徳ですよという事でもありません。八大人覚とは、あくまで仏道修行者に求められている行です。修行者は生産性がありません。だから、もともとアクセルの必要はなく、ブレーキのみの操作で十分なこともあります。

 一方、一般の生活では生産性も求められます。ブレーキを踏むだけでは、生きていけません。アクセルの操作も必要な点では、修行者よりも、心の疲弊は激しいかもしれません。ある人が言いました。「終活することと あなたの成仏とは 無関係です」。最近自分の最期を想定して、いわゆる断捨離などをする終活が盛んです。そこで見えてくるのが「捨てきれない自分」です。これはいらない、これはもう少し取っておこうなどと、我が出てきます。

 究極の「少欲知足」は、捨てるという思いさえも捨ててしまうことです。何も持っていないという事をひけらかしてはいけないのです。「吾唯足知」というからには、その4つの口からあらゆる欲を吐き出すことでしょう。2月15日のお釈迦さまの命日を涅槃会といいますが、涅槃とは煩悩の炎が吹き消された状態を表すニルバーナというインドの言葉が語源です。

 ここでお知らせいたします。1月のカンボジアエコー募金は、146回×3円で438円でした。ありがとうございました。それでは又、2月21日よりお耳にかかりましょう。

【第1192話】 「コロコロ コロナ・ン」 2021(令和3)年2月1日~10日


お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第1192話です。

今年の節分は2月2日です。節分は2月3日が固定の日だと思っていましたが、そうではないことを初めて知りました。立春の前日を節分というのですが、立春は太陽と地球の位置関係で決まります。地球が太陽を1周する時間が365日ちょうどでないために、立春の位置がずれることもあるのです。現在の日本人では誰も2月2日の節分を経験した人はいません。明治30年以来124年ぶりのことだからです。

節分といえば鬼です。鬼という漢字は象形文字で、大きな丸い頭をして足元の定かでない亡霊を描いています。そこから、目に見えない恐ろしいもの、人間の想像を超えた出来事の象徴として鬼を当てています。節分の鬼は、季節の変わり目に生じると考えられていた疫病や災害などを指すのでしょう。

医学や科学が未発達のその昔にあって、ひとたび疫病や災害が起きれば手の施しようがなかったことは想像に難くありません。鬼の力を少しでも鎮めたいと、お呪いのように祈りを込めて、「福は内 鬼は外」と叫んだのでしょう。自然の摂理に添って、人間の力の分をわきまえたとき、最後に残されたのがお呪いなのかもしれません。

ところで、お呪いとは悪魔の魔という事がない「魔事がない」が転じて、「呪い」になったという説があります。『法華経』に「魔事あることなけん。魔及び魔民ありといえども皆仏法を守らん」という一節があります。人を迷わせ苦しめる悪である魔事をなくすための行為が「魔事ない(呪い)」だというのです。

新型コロナウイルスが発生してから、1年が経ちます。世界全体の感染者は、累計で1億人を超えました。死者も215万人を超えて、収束の見通しが立たない現状です。節分で豆を撒き無病息災を願っての呪い事も、焼け石に水かもしれませんが、今年は124年ぶりに巡って来た特別な日の節分です。それなりに気合を入れる価値はあります。

呪いには呪文がつきものです。仏教では陀羅尼という梵語の中で、特に仏の教えや功徳を秘めている言葉を原語のまま呪文のように唱える真言というものがあります。コロナにはどのような呪いが効くのか、マジで考えてみました。それはこうです「オン コロ コロ コロナ・ン(コロナ難) サンバラ ソワカ」。意訳すれば「おお 除きたまえ 除きたまえ コロナという難を 難を逃れて めでたし」となります。「コロ」とは「除く」ということで、「サンバラ」は「難を逃れる」、「ソワカ」は「成就する、めでたい」という意味があります。

「鬼は外」の豆が、コロコロ転がってどこかへ行くように、コロナという厄病も一日も早く去っていくよう、みなさんで日々呪文を唱えましょう。「オン コロ コロ コロナ・ン(コロナ難) サンバラ ソワカ」

それでは又、2月11日よりお耳にかかりましょう。

【第1191話】 「ハッピータイムス」 2021(令和3)年1月21日~31日


 お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第1191話です。

 「幸せだから笑うんじゃない 笑うから幸せになるんだ」といった人がいます。その理屈をあてはめれば、幸せだから「ハッピータイムス」という新聞ができるのではなく、「ハッピータイムス」という新聞を発行しているから幸せになるのだといえそうな家族がいます。

 知り合いのK子さんは、今から39年前長男が幼稚園を卒業した年に、旦那さんの勧めで家族新聞を作り始めました。その名も「ハッピータイムス」です。折に触れ発行される新聞を毎回届けてくださいました。最初はB4版一枚の両面刷りで手書きのものでした。途中からA4版4ページを、パソコンでの編集という進化も見られました。

 内容は当然子どもさんの成長に関わることが中心でした。当時まだ字が書けなくて、絵を描いて新聞に載せていた子どもさんも、今や母となり自分の子どもについて記事を書くまでになっています。ともかく写真が豊富で、よくぞこんなに記録しているものだと感心していました。

 白黒の紙面ではありますが、幸せ家族を極彩色の絵に描いて拡大コピーしたかのような、うらやましさ120パーセントの記事で溢れていました。そのころGoToトラベルもないのに、至る所に出かけて見たり聞いたり食べたりという見聞録は、まさにハッピータイムスです。その新聞に載せようと思えば、幸せな行いを次々と実行しようと心がけることでしょう。新聞が幸せを呼び込む所以です。

 そしてこの正月に年賀状代わりの「ハッピータイムス」が届きました。最後のページを見てびっくりです。「ハッピータイムス100号です!」という大きな見出し。とうとうやったねと心から拍手を送りました。しかし、次のような記事でまとめられていました。「私も歳を重ね68歳になりました。今まで思い付きでいろいろなことを始めてきましたが、ものには『終わりがあっていい』と思うようになりました。100号でピリオドと決めました」。

 丸38年間かけて発行し続けてきて100号という大台に乗せました。いくら幸せ家族とはいえ、笑いもあれば、涙もあったことでしょう。それらを一つひとつ丁寧に掬い上げて紙面にまとめるのは、並大抵のことではありません。しかし、そんな姿は微塵も見せず、「節目の100号でバイバイ!」と言って恬淡(てんたん)としています。

 道元禅師の言葉に「諸縁を放捨して 万事を休息す」というのがあります。すべての縁から解き放たれて、心緩やかにして、万事のいとなみを休めてみるというような意味です。K子さんの「ものには『終わりがあっていい』」との思いは、自分の思うことはやり切ったという満足感とそれに引きずられることのないさわやかさを感じます。これからは毎日が終わりの一日という覚悟をもって、軽やかな足どりでハッピータイムを刻んでいくことでしょう。

 それでは又、2月1日よりお耳にかかりましょう。

【第1190話】 「駅伝が伝えるもの」 2021(令和3)年1月11日~20日


 お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第1190話です。

 100メートルを10秒で走れたら一流のランナーです。18秒なら鈍足と言われかねません。しかし、100メートル18秒のペースを20キロ以上も保てたら一流です。箱根駅伝の選手並みです。彼らは1キロ3分前後のペースで走り続けます。時速約20キロで、我々が自転車でやっと追いつけるくらいです。

 第97回箱根駅伝は、最終10区23キロの残り2キロというところで、駒澤大が創価大を逆転して、劇的な優勝を飾りました。駒澤大はそれまで一度もトップに立つことなく、10区で襷を受けた時は2位で、創価大とは3分19秒差がありました。戦後、最終区で3分以上の差を逆転したは例はなく、絶望的と誰もが思いました。

 3分以上の差は、距離にすれば1キロ以上もあるので、前を走る選手の影も姿も見えません。駒澤大の選手も監督も、優勝という意識は正直薄らいでいたでしょう。ただ残された最後の区間を誰よりも早く走るんだ、いわゆる区間賞を目指すんだ、ということでひたすら前を向いていました。

 一方、創価大の選手や監督は、1キロ3分の普段のペースで走れば、逆転されることなく余裕で初優勝できると安心していたことでしょう。レースを中継するアナウンサーや解説の方も、そのような論調で放送していました。ところが駒澤大の意気込みが、勝っていました。5キロを過ぎたあたりで30秒差を縮め、10キロ過ぎでは1分以上詰めて、その差は2分ほどになりました。

 こうなると追う選手に力が湧いてきます。逆に追われる選手は、いままでの安心が不安に変わります。初優勝というプレッシャーも加わり、いつもの体の動きができません。15キロ過ぎから、明らかに創価大の選手の足が鈍ってきました。駒澤大の選手の視界には、その姿が入ってきたことでしょう。いつもの体の動き以上の力が出て、みるみる差は縮まりました。そして、残り2キロというところで追いつき、一気に抜き去ってゴールしました。

 創価大の監督は、レース前にいみじくも言っていました。「タイムが走るんじゃない。人が走るんだ」。創価大の選手たちの1万メートルの持ちタイムは、ずば抜けて良くはなかったのです。しかし、レースになれば走るのはその人なんだから、決して見劣りすることなく、自分の力を発揮しなさいという励ましだったのでしょう。

 まさに「走るのは人」です。その置かれた状況によって、人の心は揺れます。委縮することもあれば、飛躍することもあります。足で走りますが、そのエンジンとなるのは前向きな心でしょう。常にベストを尽くせるようにと、弛まぬ練習をすれば、不安や心配は少なくなります。心配停止になるほどの練習が、諦めない強い心の源です。

 ここでお知らせいたします。12月のカンボジアエコー募金は、133回×3円で399円でした。ありがとうございました。
 それでは又、1月21日よりお耳にかかりましょう。

【第1189話】 「牛に引かれて」 2021(令和3)年1月1日~10日


 お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第1189話です。

 あけましておめでとうございます。今年1年も耳障りではなく、耳寄りな話をお届けできるよう努めてまいります。よろしくお付き合いください。

 十二支1番目のネズミ年から、今年は2番目の牛年です。その順番にまつわる話があります。神様は12匹の動物をその年の代表にし、順番を決めるために競争させました。足が遅いことを自覚している牛は夜中に出発して、見事1位でゴールしたと思ったら、こっそり牛の背中に乗っていたネズミが飛び降り、逆転1位で牛は2位に甘んじました。

 今年はネズミような姑息さが蔓延(はびこ)らないことを願います。そういえば昨年は、国のトップだった方が、会計処理の責任を秘書に擦り付けました。また新型コロナウイルス対応の交付金で、博物館の照明をLEDに切り替えたり、公用車を10台も買い替えたなどという、およそコロナ感染からかけ離れた「便乗した予算行使」をした県もありました。ネズミ年のせいでしょうか。

 さて、「牛に引かれて善光寺」という諺があります。農耕文化の中で牛は大切な家畜でした。現代のトラクターやトラックの役目を果たしていました。しかし、力が強いだけで、その動作は敏捷性には欠けます。それなのにどうしてお寺参りに牛なのかということです。こんないわれがあります。善光寺の近くに不信心で強欲な老婆がいました。ある日、晒しておいた布を、偶然に牛が角に引っ掛けて走り出しました。当然老婆は牛を追いかけました。たまたま牛が駆け込んだところが善光寺でした。そこで老婆は初めて善光寺が霊場であることを知り、後生を願うようになり、以来お参りを続け信仰に目覚めたということです。

 この諺は、思いがけない縁で、良い方に行くことを示しています。その仲立ちとなったのが牛だったというのは、牛の徳分を表しているような気がします。背中にネズミが乗っていることを知ってか知らずか、ともかく自分ののろさは十分に承知しています。だから早めに歩き始めるという計画性は侮れません。ノロノロでも着実に一歩ずつ前進を続ける勤勉さは、見習うところがあります。

 初詣でお寺や神社にお参りなさったことでしょうが、一時のお参りで劇的に人生が変わることはないでしょう。初詣をきっかけとして牛に引かれるように、今年は足繁く寺社参りを続けるならば、少々のことでは牛のように動じなくなるかもしれません。牛の背中に便乗するのではなく、牛のように自らの足をしっかり地に着けて、自分の歩幅と速さで、着実に前に進むことです。そうすれば(たん)のすわった生き方が具わってきます。道中お腹がすいたら、牛タンをいただくのもお勧めです。「に引かれて善光寺」「めしに惹かれて牛タン焼き」。これって、耳寄りの話でしたか。

 それでは又、1月11日よりお耳にかかりましょう。

【第1188話】 「どっさりの砂」 2020(令和2)年12月21日~31日


 お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第1188話です。

 どっさりとは数量が多いさまを言いますが、何グラム以上などという定義はないでしょう。それでもはやぶさ2が持ち帰った小さじ一杯ほどの砂を、どっさりだったと言わしめた背景に興味が湧きます。

 宇宙航空研究開発機構の小惑星探査機はやぶさ2が、小惑星リュウグウからの砂の採取に成功しました。太陽系には、8つの惑星のほかにたくさんの小惑星があります。太陽が生まれるときに周りを回っていたチリが何度も衝突を繰り返し、くっついて大きくなったものです。それ自体が小さいため独自の活動があまりなく、太陽系が誕生した当時の姿をとどめている可能性が高いそうです。リュウグウの砂には、それを裏付ける情報があるかもしれないのです。

 リュウグウは地球から約3.5億㎞ところに位置し、直径わずか900mです。2014年12月に飛び立ったはやぶさ2は、3年半かけ約30億㎞を飛びリュウグウに到着。岩だらけの小惑星に着陸できそうな場所を探して、データを精査すること4カ月。リュウグウは自転周期が約7時間半ですので、かなり高速で回転しています。そこの直径6メートルの平原に、昨年2月と7月に2回着陸し、砂を巻き上げる弾丸を発射して、砂を採取しました。そして12月6日、6年間2195日52億㎞の旅を終えて地球に帰還しました。

 当初、採取する砂は0.1グラムを目標にしていました。「玉手箱」と言われるカプセルには、小さじ1杯ほどの黒い砂が確認でき、数グラムはあるようです。開けてびっくり玉手箱で、最大数ミリの砂もあるとか。はやぶさ2の時間空間を超えた遥かな旅路を思えば、砂の一粒一粒の価値は計り知れません。更にはこれから解明されるであろう、砂に秘められた宇宙の成り立ちや生命の起源に迫れるとすれば、小さじ一杯をどっさりと表現したのは、決して大袈裟ではないでしょう。

 さて、お釈迦さまには小さじ一杯ならぬ「爪の上の砂」という話があります。ある時お釈迦さまはガンジス河のほとりで、一握りの砂を手のひらにのせ、弟子の阿難に次のように諭します。「ガンジス河の砂が地球上の生き物とすれば、人間に生まれる確率は手のひらの砂のようなものだ」。更にお釈迦さまは手のひらの砂を指でつまんで、親指の爪の上に載せて仰いました。「人間として生まれても、仏法に巡り合える人は、爪の上の砂程稀なのだ」。奇跡のようにして授かったこの命を、より一層輝かしいものにするには、仏の教えに目覚めることが肝要であるとのお示しでしょう。

 12月8日に、はやぶさ2の「どっさりの砂」が、無事相模原市の宇宙航空研究開発機構に届けられました。奇しくもその日はお釈迦さまが、お悟りを開かれた日でもあります。お釈迦さまの爪の上の砂は、命の尊さに目覚めよと暗示しています。はやぶさ2のにも、宇宙の生命を暗示するものが含まれているような気がします。すなおにどっさりの成果を期待しつつ、宇宙の新しい年を迎えましょう。

 それでは又、新年1月1日よりお耳にかかりましょう。

【第1187話】 「マスク托鉢」 2020(令和2)年12月11日~20日


 お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第1187話です。

 「ギブアンドテイク」という英語は、お互いに利益を与え、利益を得ることを言います。托鉢もその根底にあるのはギブアンドテイクだと言ったら、お釈迦さまに叱られるでしょうか。

 実は私たちが托鉢で浄財をいただく時、建て前としてはありがとうとは言いません。その代わり「財法二施 功徳無量 檀波羅蜜 具足円満(ざいほうにせ くどくむりょう だんばらみつ ぐそくえんまん)」という施財の偈を唱えます。財法二施とは、布施には二つあることを示します。財施と法施です。財施は一般的に僧侶に施す金品です。それに対して僧侶がお経を挙げ、教えを説くのが法施です。わかりやすく言えば、まさにギブアンドテイクなのです。

 みなさんはどうして財を施す布施をするのかといえば、その功徳が無量と信じるからです。仏の教えに適った善行を積むことで、清々しい気持ちで毎日を暮らしたいという願いが、そこにはあります。檀波羅蜜の檀はダーナで布施のことです。波羅蜜は悟りに至るための修行を指します。施財の偈を要約すれば「財施法施共に功徳は無量で、布施こそが悟りに至る一番の修行であり、それが具わっていれば、すべての生き方が円満になりますよ」ということです。

 さて、亘理郡内曹洞宗寺院青年会の恒例の行事である歳末扶け合い托鉢を、今年も12月7日に徳本寺界隈で行いました。昭和の終わりから30年以上続けています。東日本大震災の時は、さすがにできませんでしたが、今年はコロナ禍でもそれなりの対応をして実施しました。コロナ感染終息を念じての托鉢でもありましたが、正直言って、マスクをして歩きながらお経を唱えるのは辛いものです。それでも、浄財をいただくときは密にならざるを得ません。面と向かって施財の偈を唱えるのですから、外での行事とはいえ細心の注意を払いました。

 コロナ以前から人口減が進み閑散とした地域ではありますが、有り難いことに今年は例年より多く浄財をいただきました。コロナにより自粛や巣ごもりが日常的になっている中で、みなさんは何かしら清々しいことを求めていたのかもしれません。マスクをしながらでも財法二施を行じるため、ひたすらお経を唱えて歩く姿に、我ながら清々しさを覚えました。浄財を喜捨して下さった方が、施財の偈を聴きながら手を合わせている姿は、更に清々しいものでした。そう浄財を施すことを、喜び捨てると書き、喜捨と言います。まさに清々しさの極みです。そういえば自動車を運転していた人が、わざわざ降りて喜捨して下さったこともありました。自動車でも喜捨(汽車)とはこれ如何に。「ギブアンドテイク」を「寄付安堵で行く(キフアンドデイク)」と読むが如し。寄付して安堵したら悟りに行くばかりとご理解ください。

 ここでお知らせいたします。11月のカンボジアエコー募金は、225回×3円で675円でした。ありがとうございました。

 それでは又、12月21日よりお耳にかかりましょう。