テレホン法話 一覧
【第1218話】 「二面石」 2021(令和3)年10月21日~31日
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お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第1218話です。
先般、奈良県明日香村にある天台宗の橘寺をお参りする機会がありました。付近に聖徳太子が生まれた場所があります。橘寺も聖徳太子が建てた寺院のひとつです。当然の如く本尊には、聖徳太子像を祀ってあります。建立年代は不明ですが、「日本書紀」に寺の存在が記されているので、1500年以上の歴史があるようです。
そこに「二面石」と呼ばれる不思議な石があります。高さ幅とも約1メートルほどの大きな石です。左右の面に人の顔が彫ってあります。明日香村には石舞台や亀石とか、どうしてこんなものがあるのかと、不思議に思われる大きな石がいくつかあります。二面石も飛鳥時代の石造物と言われます。その二面とは、善相と悪相つまり人の心の二面性を表現しています。向かって右が善の顔、左が悪の顔だそうです。心なしか悪の顔の方が大きく見えます。それはどんな聖人君子でも、生涯悪事は働かなかったと言いきれないということでしょうか。犯罪にならないまでも、ちょっとした嘘をつくとか、誰かを憎んだとか、隠れた悪意はどこかにあります。
ところで聖徳太子と言えば「十七条憲法」です。二面石との関りのほどはわかりませんが、その第六条には「悪しきを懲らし善(ほまれ)を勧むるは、古(いにしえ)の良き典(のり)なり」とあります。つまり「悪いことをすれば懲らしめて、善いことをするよう勧めるのは、古来よりのよるべき教えである」ということです。それは仏教を含めて、大方の宗教も説いていることです。悪いことはひとつでも少なくして、良いことはひとつでも多く重ねるという教えです。
更に「十七条憲法」の第二条には「篤く三宝を敬え、三宝とは佛と法(のり)と僧なり」と示し、仏教を敬い信じるたいせつさを説きます。そして仏教に帰依しないで、どうしてよこしまな心を正すことができようかとまで、言いきるのです。人には善悪の二面性が宿っていることを認め、だからこそ仏教がなくてはならないという聖徳太子の宣言でもあります。
人は裏の心が悪で、表が善という意識があり、裏を隠そうとします。その結果反省の機会を失うことになります。隠しているから分からないと思っているのは自分だけで、他人様はお見通しです。いっそ、二面石のように左右並列に善悪を晒しておきましょう。そうすれば仏の教えに照らし合わせたとき、私にはこんな嫌な面があるから、これ以上悪くならないようにと反省しやすくなります。その心は洋服でいえば、リバーシブルのようなもので、表も裏もなく我が身を着飾ることができます。これってリーズナブルではありませんか。
ここでお知らせいたします。10月24日(日)午後2時 徳本寺にて「第15回テレホン法話ライブ」を開催致します。ゲストは津軽三味線日本一の織江響さん。入場無料です。
それでは又、11月1日よりお耳にかかりましょう。

二面石
【第1217話】 「品位(ひんい)と品位(ほんい)」 2021(令和3)年10月11日~20日
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お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第1217話です。
「皇室経済法6条」には、皇族が身分を離れる際には、品位保持のため一時金を支給する旨が定めれています。渦中の眞子さまが小室さんと結婚するにあたり、その一時金を辞退しました。1憶3725万円という額です。「小室家の金銭トラブル」ゆえのことなのでしょう。二人の結婚の意思は固いものの、このままでは国民の理解が得られないということで、皇族としての結婚の儀式や結婚式も行わないというのです。
一時金よりも自由が欲しい、という眞子さまの叫びのように、聞えないわけでもありません。しかし、どこでどんな生き方をしようとも、皇族という生まれはついてまわります。その立場を汚さないための担保として一時金があるのでしょう。皇族という極めて特別な生まれには、「品位の保持」は当然のことかもしれません。たとえば雨漏りする家に住んだり、みすぼらしい格好をすることは許されないでしょう。では一時金だけで保てるのが、本来の品位でしょうか。
曹洞宗では、品位と全く同じ字を「品位(ほんい)」と読むことがあります。「何々大和尚品位」という風に、和尚の位階を表す言葉です。和尚が修行して悟る段階を52に分けた「菩薩五十二位」というのがあります。最高位の五十二位は妙覚と言ってお釈迦さまです。お釈迦さまに近づくまでには、果てしない段階を踏まなければならないのです。和尚になろうと発心して、仏弟子となった時点で、五十二位の一番下の十信位に就いています。つまり仏の教えを信じて疑いの心を抱かない位のことです。
しかし何年住職を勤めようが、まだまだ上には登り切っていないので、その住職が亡くなった後も、残された弟子が、師匠には五十二位を少しでも高く登ってもらいたいと願い、年忌法事を営みます。そのとき品位を増崇すると言います。増崇とは「ふやしてたっとぶ」という意味で、品位を増崇するとは、亡くなってもなお、修行を重ねて、位を上げてくださいということです。その法事のためには、本堂やお墓の掃除は勿論のこと、大勢の和尚さんを招きお経を挙げいただき、参列者をもてなしたりという勤めがあります。それは弟子としての修行でもありますが、その功徳を全て品位増崇のために回らし向けるのです。
和尚の世界では、生きているときは勿論亡くなっても修行を加えていくことが品位(ひんい)を保つということです。皇族であれ一般人であれ、品位とは単に外見だけではなく、心を磨き続けることで保たれるものでしょう。たまたま10月11日は前住職文英大和尚の23回忌に当たります。まさに品位(ほんい)を増崇し和尚の品位(ひんい)を保つ日でもあります。
ここでお知らせいたします。10月24日(日)午後2時 徳本寺にて「第15回テレホン法話ライブ」を開催致します。ゲストは津軽三味線日本一の織江響さん。入場無料です。
また、9月のカンボジアエコー募金は、767回×3円で2,301円でした。ありがとうございました。
それでは又、10月21日よりお耳にかかりましょう。
【第1216話】 「念仏」 2021(令和3)年10月1日~10日
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お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第1216話です。
「念仏申すより田を作れ」という諺があります。極楽往生を願って念仏を唱えるより、田んぼに出て米を作れということで、直接利益になることに精を出せということでしょう。我が町には各地区ごとに念仏講がありましたが、今や風前の灯となってしまいました。米の収穫が増えたからではなく、念仏講員が少なくなったためです。
ひとつの大きな原因は、東日本大震災です。比較的念仏が盛んだった沿岸部が、大津波で壊滅状態になりました。集落がなくなり、人々はバラバラに住まいせざるを得なくなったのです。もはや念仏どころではありません。しかし、兼務する徳泉寺の笠野地区では、檀家さんが離れ離れになっても、念仏講だけは絶やさず続けてきました。
本来念仏は、不幸があった家の通夜や出棺の際の「おたち念仏」として唱えてきました。その他に正月16日や春秋の彼岸の中日とかお盆に寺に集まり、熱心に行じていました。さすがに震災後は個人の家で唱えることはなくなりました。本堂等すべてが流された徳泉寺ですが、プレハブの仮寺務所で続けてきました。昨年からは再建した新しい建物の中で念仏を唱えることができ、改めて復興を噛みしめています。
今年の秋彼岸の中日にも、輪になって大きな数珠を回しながら念仏を唱えました。昔と異なるところは、どなたも正座が適わないということで、椅子に座っていることです。それからコロナ対策として、全員白マスクで念仏を唱え、その上白手袋をはめて数珠を回しました。
口伝の「十三念仏」を独特の節で、数珠を回しながら唱和し、カンカンと鉦(かね)をたたく人がリードします。不動明王・釈迦如来や虚空蔵菩薩まで、十三の仏が雲に乗って迎えに来る来迎図の掛軸を掲げます。十三仏は人の死後、初七日から三十三回忌までの十三の忌日を司る仏です。亡き人が各忌日で迷わないように、死後の世界を案内する役を担うと信じられてきました。曹洞宗以前の室町時代に定着した信仰です。念仏そのものは浄土宗の信仰形態ですが、この地域でも土着の信仰として宗派に関係なく、伝わってきました。
口移しに伝えられた念仏は、一様ではありません。笠野地区の念仏の一節には「往生なされしその時は お念仏唱えし間もないし ただいま申せしお念仏 末期の最後と思召し」とあります。死ぬ間際では、念仏を唱えている時間もないので、今が末期の念仏のつもりで、真剣に唱えなさいということでしょう。最後の一念によって来世の良し悪しが決まるという「念は生を引く」との諺もあります。今いま私たちが念じたいのはコロナの終息でしょう。念仏講員であってもなくても、緊急事態宣言はこれが最後と一心に念じて、それなりの日常生活を心がけるよう念のため申します。
それでは又、10月11日よりお耳にかかりましょう。

念仏講
【第1215話】 「持戒というブレーキ」 2021(令和3)年9月21日~30日
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お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第1215話です。
被告は「踏み間違いの記憶はない」と一貫して無罪を主張してきましたが、裁判官は「アクセルを最大限踏み込み続けた。ブレーキは踏んでない」と認め、禁固5年の実刑判決を言い渡しました。いわゆる池袋暴走事故の裁判でのことです。
2019年4月に東京池袋で暴走した乗用車が母と子を死亡させ、9人に重軽傷を負わせました。運転手は旧通産省工業技術院元院長という肩書で、現在90歳という高齢のこともあり、その言動が注目されました。車の異常で暴走したなど、あくまでも自分には過失がないとの主張でした。しかし、車の電子データや「ブレーキランプがついていなかった」という目撃証言などを踏まえて判決は下されました。更に判決は、過失を認めない姿勢を「事故に真摯に向き合い深い反省をしているとはいえない」と批判まで加えています。そして、期限の今月16日までに検察と被告が、控訴しなかったため、実刑判決が確定し、被告は収容されるとみられます。
アクセルとブレーキの踏み間違いによる人身事故は、過去5年間で2万1千件を超えて、248件が死亡事故につながっています。事故を起こさないように、細心の注意を払うのは当然のことです。しかしふたつ並んであるペダルを、何かの拍子に踏み間違えることがないとはいえません。
さて、お彼岸ですがその教えには、人間が人間らしく生きていくための道しるべが示されています。そのひとつに「持戒」というのがあります。持つという字と戒律の戒と書きます。戒を保って、節度ある生活態度を習慣づけ、反省することを忘れない生き方をするということです。単にルールを守るというだけではありません。勿論交通ルールを守らなければ、事故につながりますので、それは最低限のことです。そして規則というのは、何々してはならないという罰則が主になっています。
ところが仏教でいうところの戒は、「してはならない」という意味ではありません。その語源はサンスクリット語の「シーラ」という言葉です。それは「人間として、すべきでないことはしないぞ」と常に思い続け、習慣にしていくことです。もっと言えば、仏の教えに生きるものとして、悪いことをしようと思っても、仏に邪魔されて、道をはずれることができないということです。
私たちの心にもアクセルとブレーキはあります。戒を保つている人は、踏むべき時にきちんとブレーキを踏むことができます。人間ですから車のブレーキの踏み間違いによって、事故を起こさないとも限りません。問題はその後に、心のブレーキも踏まずに、反省をしないことです。90年もの輝かしい人生を歩んできた人が、1回目にブレーキを踏まなかったとしても、次回も繰り返しては、シーラという持戒を無視した暴走人生になりかねません。自戒を込めて申し上げます。
それでは又、10月1日よりお耳にかかりましょう。
【第1214話】 「失ったものを数えない」 2021(令和3)年9月11日~20日
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お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第1214話です。
そのラストシーンは感動的で強く印象に残りました。40年前に見た「典子は、今」という映画です。両腕を失ったサリドマイド児として生まれた典子が、船から海に飛び込み、大海原をひとり泳ぐのです。両足だけで力強く泳ぐ姿を、上空のカメラが捉えています。そこに本人も歌っている映画のテーマソングが流れます。彼女の行く末に無限の可能性が広がっていくことを暗示するかのようなエンディングでした。
当時19歳で熊本市役所に勤務する辻典子さん本人の主演です。彼女は言います。たとえば健常な赤ちゃんに言葉は教えますが、手を使うことは特別に教えたりしません。でもいつの間にか手を使うことを覚えます。わたくしは足が手、足が足なのです。人が手でやることを足でやる、それは生きるための本能だと思います。
足だけで車の運転をする免許取得日本人第一号にもなりました。結婚もし2児の母親にもなりました。健常者から見れば当たり前にできることを、典子さんも当たり前にできるように、何事においても前向き取り組んできました。それにしても、すごいことだと思うのは差別の裏返しになるかもしれませんが、東京パラリンピックでも、映画と同じような感動がいくつもありました。
女子100㍍背泳ぎで銀メダルを獲得した山田美幸さん。パラリンピック日本勢で史上最年少の14歳11カ月のメダリストです。生まれつき両腕がなく足にも障害があります。それでも陽気な性格で物怖じしない新潟県の中学3年生です。小学1年から水泳教室に通っていました。両腕がないので足だけが頼りです。元々脚力は強かったそうですが、パラリンピックを目指して、特訓を重ねました。それは重さ3キロもあるプールの四角い排水溝の蓋を、体にくくりつけたベルトで引きずって泳ぐというものです。そのレースを見て、40年前の典子さんに重なるものがありました。
現代のパラリンピックの原点は、イギリスのグットマン博士が、負傷した兵士の治療回復にスポーツを活用したことです。障害を負った人も、車いすで卓球やバスケットボールに打ち込み、リハビリ効果を上げて、社会復帰につながっています。その博士の理念は「失ったものを数えるな。残されたものを最大限に生かせ」ということです。
全て揃っていてもやろうと思わなければ、1ミリも前に進みません。何か不足があったとしても、1ミリでも可能性があるならやってみようと思える人は、どんどん前に進んでいきます。そして揃っている人に限って、他と比べがちです。「だれか」とではなく「昨日の自分」と比べることが、成長の秘訣とある人が言いました。典子さんも美幸さんも、昨日より今日よくできた自分を素直に喜んで成長してきたのでしょう。
ここでお知らせいたします。8月のカンボジアエコー募金は、803回×3円で2,409円でした。ありがとうございました。
それでは又、9月21日よりお耳にかかりましょう。
【第1213話】 「一茎菜の命」 2021(令和3)年9月1日~10日
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お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第1213話です。
時恰も宮城県で緊急事態宣言が発令された8月27日、仕出し業者から封書が届きました。「コロナ禍で仕出しの形態も様変わりし、新しい生活様式に適応すべく様々な経営努力を行ってまいりました。しかし厳しい状況は続き苦渋の決断として、廃業することになりました」という挨拶状でした。
長年、葬儀や法事の供養膳の仕出しでお世話になってきた業者でしたので、驚きました。確かに参列者が揃って供養膳を囲むことは、ほとんどなくなりました。今や折詰め供養膳を持ち帰ってもらい、各自で召し上がってくださいというまるで弁当感覚です。お膳をはさみながら故人を偲び、供養する貴重な時間が失われつつあります。
現在コロナ禍が一因で経営破綻している企業は約2千社で、ここ10年間の東日本大震災における震災関連倒産に匹敵する数字とか。わずか1年半で全国の都市に広がっています。業種別では飲食業が最多です。休業・時短営業・酒類の提供停止となれば、当然のことでしょう。
そんな中で開催された東京オリンピックで、とんでもないことが起きていました。開会式があった国立競技場で1万食発注したスタッフ用の弁当のうち、約4千食分が廃棄されました。需要予測を誤った結果だそうです。大会組織委員会の最終的な発表では、7月3日から1カ月間で、全42会場中20会場で調べたところ、約13万食が廃棄され、廃棄率は25%ということです。まさか仕出し業者の廃業に配慮して、水増し発注したわけではないでしょうが・・・。せっかく作っても食べてもらえないのでは、レースに出る前に失格したようなものです。廃業にも通じる無念さがあります。そして食べ物の命を軽んじた、あまりにもずさんな対応です。
さて修行道場には、食事を司る典座(てんぞ)という重要な役職があります。修行僧の命を預かるといってもいいでしょう。曹洞宗を開かれた道元禅師は、典座がなすべき事柄を微に入り細に入り『典座教訓』に著わしました。その中に、「一茎菜(いっきょうさい)を拈じて丈六身(じょうろくしん)となし、丈六身を請して一茎菜と作せ」と記されています。一茎菜とは1本の野菜、丈六身は仏のからだをいいます。つまり、1本の野菜でも仏のからだとしてたいせつに扱い、仏のからだを1本の野菜に込めて大切に生かしなさいと食材に対する心がまえを説かれています。
ひとつと数えた弁当にもにも多くの命が詰まっています。ひとつでも弁当(十)とはこれ如何に。ひとりでも選(千)手というが如し。選手の命と記録を支えてきた限りない食材の命に改めて思いを馳せています。コロナやオリンピックがあってもなくても、私たちは食べなければ生きていけません。近い将来に飲食業が復活することを願ってやみません。
それでは又、9月11日よりお耳にかかりましょう。
【第1212話】 「ヒマワリ」 2021(令和3)年8月21日~31日
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お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第1212話です。
昔のこと、田植え前の田んぼ一面にレンゲの花が咲いていたのを覚えています。米が実ったり花が咲いたり、田んぼはすごいと思ったものでした。しかし、あれは自然発生のレンゲではなく、栽培していたものだったのです。いわゆる「緑肥」です。植えた植物を肥料として土壌に入れたまま耕すものです。
その緑肥としてヒマワリが人気を集めています。山元町では東日本大震災で沿岸部が災害危険区域になってしまいました。人々は新天地での生活を余儀なくされました。昔の宅地跡や農地は集約整備されて広大な農地になりました。地元の農業生産法人がそこを管理して、タマネギなどを生産しています。その農地の肥料としてヒマワリを植えているのです。
4年前から、毎年場所を代えて広大なヒマワリ畑を一般公開しています。今年は震災遺構の中浜小学校の北側です。近くにある震災慰霊塔の日本最大級古代五輪塔の「千年塔」や全国から寄せられた黄色いハンカチがはためくポールも望めます。東京ドームの約1.5倍の4.7ヘクタールの広さに、約170万本のヒマワリが咲き誇っています。一面黄色のヒマワリ畑と震災遺構や慰霊塔の風景は、如実に復興を物語っています。
もっとも、ヒマワリ畑になっているところは、10年前は普通に人々が生活していた中浜地区という集落です。海から数百メートルですので、全ての家屋は流されました。犠牲者も百人を超え町内でも一番多い地区です。初めて中浜地区を訪れてヒマワリ畑を見た人は、それだけで十分に感動するでしょう。一方昔を知る人は、その変わりように複雑な思いを抱くかもしれません。また10年かけてここまで来たぞと感慨深げに過ぎし日を思う人もいるでしょう。
それやこれやの思いを抱きつつも、ヒマワリ畑を見渡せば、活力が湧きます。ヒマワリはその花を見ただけで、ワクワクします。「百万本のバラ」以上の数は、圧倒的な迫力があります。どんな言葉よりも、復興を示す説得力があります。そして緑肥の効果というのは、地力(ちりょく)を与えるだけでなく、保水力を高めたり、塩類障害を防止します。更には、害虫の発生を抑制したり、作物の病気の低減も望めるそうです。ヒマワリを見ていれば、私たちの心にも、良い肥料が蓄えられるかもしれません。相手を思いやる包容力を高めたり、けがや病気の障害を克服する精神力を養ったり、怠け心を省みる地力(じりき)が付くなどの効果です。
今年のお盆は雨にたたられ一度も太陽を拝むことができませんでした。しかし、ヒマワリは元気に咲いています。日々災害や「過去最多」の感染者数が報じられ、滅入ってしまいます。せめて「今日咲いた」ヒマワリを見て、明日へのエネルギーを培い前に進みましょう。イッチニ・イッチニ、今回の法話は1212話でした。
それでは又、9月1日よりお耳にかかりましょう。
【第1211話】 「空蝉」 2021(令和3)年8月11日~20日
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お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第1211話です。
コロナのせいで聞きなれない横文字ばかりか、日本語でも珍しい言葉が日常化しています。人の流れを指す「人流」などは、辞書にも載っていないのにです。「無観客」という言葉も、気の毒な響きしかありません。そのほぼ無観客の東京オリンピックも終わりました。しかし、徳本寺境内は喧しいまでの声援で溢れています。蝉の声です。
地面の至る所に蝉の幼虫が出てきた穴が確認できます。鐘撞き堂には、一時22匹分の蝉の抜け殻がそこかしこにへばりついていました。体操競技でいえば、D難度級のアクロバティックな姿で、屋根の垂木の先に止まっているものなども見られました。一本の南天の枝に5匹分の抜け殻がまとまっていたりと、実に多彩な蝉の競演です。
蝉の抜け殻を「空(から)の蝉」とかいて「空蝉(うつせみ)」と言います。なるほどと思わせる字ですが、空蝉にはもうひとつ意味があります。「この世の人」とか「人間が生きているこの世」という意味でです。元々はこの世に存在する人間は、空しく儚い存在ということで、現にいる人と書いて「現し人(うつしおみ)」から転じた言葉です。
蝉の一生は、幼虫で土の中にいる期間が、数年から5年で、その後地上に這い出して、殻から羽化して成虫になります。抜け殻を残して、やっと蝉となって一人前に鳴くことができたと思っても、せいぜい1週間から3週間の寿命です。無常を象徴するような存在です。
人間は蝉と比べたら何千倍もの命を生きることができます。ただその中身において、蝉と比較したときはどうでしょう。蝉は確かにごく限られた期間の命とはいえ、一心不乱に鳴き尽くして生涯を終える潔さは、賞賛に値します。一方人間は、今日さぼっても明日やればいい、来年までには何とかしようなどと、先延ばしをすることが多々あります。命に限りがあることに目をつぶっているからです。
さてお盆お季節です。私たちのご先祖さまは、コロナ禍をものともせず、人流というか霊流というか大きな流れに乗って、故郷に帰って来ます。そしてこんなことを言うかもしれません。「あの世に行ってみると、この世の儚さが身に染みてわかるよ。生きているときはそのうちやろうと思っていた。結局できないでいるうちに、制限時間が来てしまった。人生に延長戦も敗者復活戦もないのだからね」
「空蝉にひとしき人生吹けば飛ぶ」(阿部みどり女)。境内の蝉の声援は、「蝉の抜け殻は吹けば飛ぶかもしれないが、人間が蝉以下になってはいけない。それには私たち蝉と同じように命には限りがあることを自覚して、常に力を尽くすことです」と言っているかのようです。「人間の底力をば蝉に見せ」(文明)
ここでお知らせいたします。7月のカンボジアエコー募金は、728回×3円で2,184円でした。ありがとうございました。それでは又、8月21日よりお耳にかかりましょう。

ぶら下がっている抜け殻と蝉
【第1210話】 「ウルトラC」 2021(令和3)年8月1日~10日
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お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第1210話です。
「ウルトラC」という言葉は、1964年の東京オリンピックの体操競技で、日本選手が最高難度Cを超える技を披露したことから生み出されたものです。現在は、男子はAからIまでの9種類、女子はAからJまでの10種類の難易度で評価され、ウルトラCという技はありません。ただ、一般には奥の手などの意味で使われます。
さて、この度の東京オリンピックの体操で内村航平が、得意の鉄棒で演技開始30秒余りで、まさかの落下。予選敗退となりました。失敗したのは難易度Dのひねり技で、昔ならウルトラCだったかもしれません。ただこれまでミスをしたことがなかった技です。そして彼は体操について言います。「失敗したことのない技でも失敗する。これだけやってきても、まだ分からないことがある。おもしろさしかないですよね」
その彼が今までで一番うれしかったことは、小学校1年の時に、鉄棒で「けあがり」ができたときとか。「周りはみんなできているのに、自分だけできなかった。やっとできたときは誰も見ていないかった。みんなに知ってほしくて体育館中を走り回った」そうです。オリンピックで金メダルを取った喜びすら、この時のけあがりを超えられないとまで言うのです。何にも染まらないひたむきな子ども心で成し遂げた技が、彼の体操人生の原点でした。
この度のオリンピックでも子どもが感じる楽しさの計り知れない可能性を示した選手がいます。日本史上最年少の13歳で金メダリストになった西矢椛(にしやもみじ)です。スケートボードストリートと言われても、初めて見た競技は路上での遊びの延長という印象でした。彼女は5歳の時から始めて、その面白さにはまったのでしょう。とにかく楽しいから、ネットなどで仲間同士見せ合いアドバイスし合って、難易度の高い技に磨きをかけてきました。
どの世界でも頂点を極めるには、凡人の想像を超えた探求心や鍛錬がなければならないでしょう。それが辛い苦しいの連続では、挫折するばかりです。辛い苦しいと思う前に、楽しいおもしろいという喜びに出会える人は幸いです。それは大人より子どもの方が可能性があります。素直で純粋だからです。赤ちゃんの笑顔に癒されるのは、ただ笑っているからです。誰かに受けようと思って笑っていないからです。内村少年は鉄棒に、椛ちゃんはスケートボードにただ喜びを感じ、それをずっと続けてきたのです。「しないでいられないことをし続けなさい」漫画家水木しげるの言葉です。
私も「門前の小僧習わぬ経を読む」ように、幼い時にお経のおもしろさに目覚めればよかったのにと今は悔やんでいます。ただ私にはウルトラCの奥の手があります。それは天下の宝刀ともいうべき、仏法の灯である法灯です。お釈迦さまからの法灯をお授けして、これまで何千人も成仏に導いてきました。いまだかつて、仏の世界からこの世に戻った人はひとりもいません。お釈迦さまの奥の手は、深淵なのです。
それでは又、8月11日よりお耳にかかりましょう。
【第1209話】 「コロナオリンピック」 2021(令和3)年7月21日~31日
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お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第1209話です。
薬を与えることを「投薬」と言います。注射することは「注射を打つ」と言います。医療現場では、投げたり打ったり、かなりアクティブです。更にコロナワクチン接種に関連して、注射をしてくれる人を「打ち手」とまで言っています。ワクチン接種とはいえ、狙い撃ちされそうな感じすらします。
おかげさまで、狙い撃ちされて、先日町でのワクチン接種の2回目を済ませることができました。幸いにして接種時の副反応もありませんでした。ただ、打たれただけあって、左腕にかすかな打撲感は残りました。それでも「新型コロナワクチン予防接種済証」が手元にあるのは心強いです。ワクチンで十分な免疫ができるのは、2回目の接種後7日が経ってからだそうです。何とかオリンピックの開会式に間に合うというタイミングですが、今更それはどうでもいいことです。
ただ、オリンピックの理想とするところは、スポーツを通じて、世界の人々が手をつなぎ、世界平和を目指すことでもあるでしょう。そう思えば、私も含め極一部の人だけが、オリンピックに間に合ってワクチン接種が済んだと喜んでいいのでしょうか。国内外を問わず多くの人が、選手のみなさんの活躍は期待しつつも、素直に開催を喜べないでいます。それは純粋に手をつなげないからです。コロナ禍の中で、距離をとれ、声を出すな、挙句に無観客では盛り上がりません。
宮沢賢治は言いました。「世界ぜんたいが幸福にならないうちは、個人の幸福はありえない」。これは理想であり、世界全体の幸福を待っていたら、いつまでも幸福は訪れないかもしれません。しかし、事コロナに関しては、一部の人だけがワクチンを接種しても、ウイルス感染を防ぐことは不可能です。どこの国でも全体の6割くらいの人が接種を終えた時、感染の勢いが弱まるという報告もあります。その意味では、ウイルス感染防止のためのオリンピックこそ今開催すべきでしょう。
元より医療現場では、投げたり打ったりということが行われています。オリンピックのモットーである「より速く、より高く、より強く」ということを感染防止に活かしていくわけです。数多くのワクチン接種を速く済ませられる方法や、感染した重症患者を治療できる高い技術や、1回の接種だけでも感染防止できる強いワクチンや飲み薬の開発などを競うというオリンピックです。そこでメダルを取ったすぐれたものを世界全体で共有していくのです。そのくらいの覚悟をしなければ、コロナ終息は見えてこないかもしれません。
「雨ニモマケズ 風ニモマケズ 雪ニモ夏ノ暑サ二モ マケヌ丈夫ナカラダヲモッテモ コロナニハ カナワヌ」のだから、「アラユルコトヲ ジブンヲカンジョウ二イレズ二」世界全体を見渡す広い心を持ちましょう。
それでは又、8月1日よりお耳にかかりましょう。