テレホン法話 一覧

【第1235話】 「立派な悪人」 2022(令和4)年4月11日~20日


 お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第1235話です。

 ある和尚さんのところに、檀家さんが悩み事相談に来ました。「うちの家族は、争いごとが絶えなくて困っています。どうしたらいいでしょう」「お宅では良い人ばかりいるから、争いがあるのでしょう。悪人がいれば、そんなことはないはずです」「ハッ?」「私は正しい、悪いのはあなただ、という自分が良い人だと思っている人ばかりいると、必ず争いになります。私が悪いという悪人がいれば、丸くおさまります」

 自分が正しいとなれば、どこまでもその主張を通そうとしてしまいます。Aという正しさや、Bという正しさがあって、自分の方が絶対正しいとなれば、争うしかなくなります。戦争を題材にした映画にこんなセリフがありました。「答えが一つなら、紛争など起きないよ」。自分が悪いとは言いたくないものです。非を認めることには勇気がいります。ロシアのウクライナ侵攻には、どれほどの正しさがあるのでしょうか。ごめんなさいの一言なら、3歳の子どもでも言えます。本物の悪人とは、謝ることができない人を指すのでしょう。

 さて、お釈迦さまは今から2500年ほど前の、4月8日にお生まれになりました。生まれてすぐ、7歩あるかれて、「天上天下唯我独尊」と叫ばれました。勿論これはお釈迦さまの生涯や教えを象徴的に示したお話でしょう。7歩は6プラス1の意味が含まれています。つまり六道という迷いの世界を超えて、7歩目を踏み出しなさいということです。2つも3つも正しさを抱えて迷う事しきりの人生です。ごめんなさいをためらう程、謝りにくくなります。気づいたら迷わず謝ることです。それでこそ立派な悪人です。

 そして「天上天下唯我独尊」を、間違って解釈して、この世で自分ほど偉い者はいないのだから、何をやっても許されるなどと思いあがってはいけません。ほんとうの唯我独尊とは、「唯だ、我、独りとして尊し」ということです。自分の命はふたつとないのだから、これ以上尊いものはありません。世界中の誰もがそう思っているし、そう思える世の中でなければなりません。そして、たった一つの命とはいえ、数えきれない命の関りの中から生まれたものです。その命が失われた時に、どれだけの人が悲しむかということに思いを馳せることができる人こそ、ほんとうに偉い人です。

 お釈迦さまは『発句経』の中で次のようにお示しです。「己が身にひきあてて、殺してはならぬ、殺さしめてはならぬ」。何事も我がこととして判断するなら、自ずと争いごとはなくなるはずです。想像してみてください。自分が殺されることを、自分の家族が殺されることを。とても堪えられません。己が身にひきあてて、本物の悪人ではなく、立派な悪人になりましょう。そんな悪人ならお釈迦さまも、天上天下誓ってお咎めはしないでしょう。。

 ここでお知らせいたします。3月のカンボジアエコー募金は、562回×3円で1,686円でした。ありがとうございました。

 それでは又、4月21日よりお耳にかかりましょう。

【第1234話】 「偶然を見逃さない」 2022(令和4)年4月1日~10日


 お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第1234話です。

 私がテレホン法話を始めたのは、それまでやっていた前住職から突然にバトンタッチされたからです。曲がりなりにも、月3回の更新を14年間続けたら、50歳最後の日に500話を迎えました。50年という人生と500話の巡り合わせを感じました。

 そして1000話を達成してすぐ、前住職の17回忌を迎え、遺志を継いでいることを報告できました。また、1111話という一並びは11月1日に迎え、嘘のようですが一づくしでした。今回は4月1日エイプリルフールですが、嘘ではなく1234話で、1・2・3・4というきれいな並びになりました。

 すべては偶然かもしれません。それでも節目節目の回数の日が、何がしかの意味を持っているように感じさせてくれました。わずか3分間の電話による法話の意義は、それなりのものです。しかし、継続する中で、巡りくる日付に意味があったりすれば、単なる偶然とは思えなくなる時もあります。

 「偶然を見逃さない」とは、ノーベル賞の本庶佑(ほんじょたすく)さんの言葉です。確かにこの世は偶然に満ちています。その偶然に関心を抱かなければ、そのまま見逃してしまうだけです。そこに驚いたり、こじつけでも何がしかの意味を見出したりすれば、次のステップに進むきっかけになるかもしれません。

 数字はわかりやすいのです。1と言えば、2でも3でもなく1です。それ以下でも以上でもありません。4月1日は一年でこの日だけで、たった1日です。そこに偶然とはいえ、2つ3つと事柄が重なったりすれば、もはや偶然ではなく、必然と思えるようになります。

 34年前偶然のようにして、始めたテレホン法話。よもや1000話を超え、更に1234話にまで至るとは思ってもいませんでした。しかし、今思うことは、偶然に甘えてはいけないということです。これまでは偶然に始まったことだから、いつ終わっても偶然で済ませればいいだろうという気持ちがありました。もはや継続は必然という使命でしょうか。

 とは言えこれからも、肩ひじ張らずに平常心を貫いてまいります。平常心でいられるのは、いろいろなおかげがあるからです。お聴きいただいているみなさまのおかげ、電気電波が通じているおかげ、何とか健康を保っているおかげ、このおかげは、偶然なのか必然なのか、少なくとも当然・あたりまえではないでしょう。有ることが難しいのに、ここに有る有り難さに感謝です。

 ところで、1・2・3・4はエンゼルナンバーと言って、天使のサポートがあり、物事の始まりや前向きな挑戦にふさわしい数字だそうです。時恰も4月新年度、今一度このテレホン法話を12時34分にお聴きになってはいかがでしょうか。ふたつのエンゼルナンバーのおかげで、1・2・3・4と目標に向かってスタートすれば、願いが叶うかもしれません。

 それでは又、4月11日よりお耳にかかりましょう。

【第1233話】 「当たり前という彼岸」 2022(令和4)年3月21日~31日


 お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第1233話です。

 正直言って、コロナ禍もウクライナ侵攻も、よそ事としか思えなくなりました。徳本寺の本尊さまが消えたのです。16日深夜に発生した福島県沖を震源とする震度6強の地震により、本堂内の仏像仏具が散乱しました。本尊さまは台座から落下して、須弥壇上で埋もれていました。

 6日前の3月11日東日本大震災の日に、復興祈願法要を終えたばかりです。それより、1年前の昨年2月13日に発生した東日本大震災の余震と言われる震度6強の地震被害から、やっと立ち直った矢先のことです。心が折れてしまいます。

 昨年も11年前も本堂の惨状は目を覆いたくなります。それでもこれまで本尊さまは、ほとんど動かなかったのですが、今回は台座が空座になったのです。位牌堂は昨年、位牌落下防止にテグス糸を回らしました。ある程度の効果はあったものの、かなりの位牌がまた落ちました。墓地も彼岸を迎えるというのに、墓石全体が大きくずれ、お骨が見えるところもあります。灯篭などはかなり倒れています。

 東日本大震災の震源域で次々発生している地震のようです。昨年はその余震と言われ、今回はその兄弟のような地震とか。地震のくせに、その絆は強く、ひび割れがないのです。ともかく周辺では活発な地殻変動が続いているといいます。コロナ禍と同じように、まだまだ終息には至らないのでしょうか。

 今回の地震発生時刻は夜11時36分です。間もなく日付が変わろうという頃です。私は夢の中にいましたが、飛び起きました。すぐ本堂等を点検しましたが、昨年の惨状の再現ドラマを観ているようでした。ちょっとの作業で元通りになるような状況ではありません。夜明けを待って本腰を入れようと仮眠しました。

 起きてびっくりです。朝5時前に新聞が届いていました。更にその新聞の一面から、「宮城・福島 震度6強」と3段抜きの見出しが目に飛び込んできました。本文は「第一報」程度で簡潔なものでしたが、地震発生時にはすでに予定の新聞は、印刷を終えていたのではないのでしょうか。それなのにギリギリの原稿を差し挟み、新たな紙面の新聞をいつものように販売店に届けるという離れ業、日ごろの鍛錬の賜でしょう。どんな事態であれ、その新聞を時間通り配達して下さる方がいるということに、今更ながら頭が下がりました。

 全ては当たり前のことです。当たり前のことが当たり前にできるまでには、そこに携わる人々が、どれだけ当たり前以上の努力をしているかを思い知らされました。道元禅師は「修行の彼岸に到るべしとおもふことなかれ。彼岸に修行あるがゆゑに、修行すれば彼岸到なり」とお示しです。修行により彼岸に到るのではなく、修行し続けているところに彼岸の世界が実現するということです。ぎりぎりまで新しい情報の紙面と格闘する記者、それを届けようという一念を貫く配達員、みな彼岸の世界を生きています。徳本寺の本尊さまも、今は何事もなかったかのように、きちんと鎮座ましましていらっしゃいます。この当たり前こそが彼岸の世界です。

 それでは又、4月1日よりお耳にかかりましょう。

【第1232話】 「生きねばと」 2022(令和4)年3月11日~20日


 お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第1232話です。

 今年は東日本大震災慰霊行事を、沿岸部の町や市においても、開催を見送るところが多くあります。昨年震災から10年という節目を終えたというのも、その大きな理由でしょう。確かに10年という数字は区切りのいいものではあります。ただ11年目も特別な年です。10年という積み重ねがあって始まる新たな1年目なのですから。そのおかげを忘れたくありません。

 実は昨年3月からの1年間で、徳本寺・徳泉寺の檀家さん合わせて71人の方が亡くなりました。そのうち90歳を超えた人の割合は、63㌫を超えています。つまり、この1年で亡くなった半数以上の方は、10年前は80歳を超えていたのです。そのお歳で、大震災という未曽有の被害を目の当たりにして、どう感じたのでしょうか。営々と築き上げてきた家屋敷や田畑などすべてが流されてしまいました。生まれ育った故郷が災害危険区域になって、二度と住まいすることができないなどと、誰が想像できたでしょうか。長年連れ添った伴侶との別れや、頼りにしていた子や孫との理不尽な別れもあったことでしょう。

 人生80年も過ごせば、来し方を振り返り悠々自適の暮らしを思い描いても不思議はありません。それが一瞬にしてなくなり、どれほど心が折れたことでしょう。しかし、どっこい挫けない高齢者が、この10年間たくさんいらっしゃいました。その代表ともいえる一人に、徳泉寺の檀家さんの島田啓三郎さんがいます。短歌・俳句に長けて、震災後数えきれない作品を新聞に投稿されました。一際印象的な歌があります。〈生きねばと 仮設の隣り 荒れ地借り 季節後れの 野菜種まく〉震災当時80半ばを超えた島田さんでしたが、いちご作りをはじめとする、農家ひとすじの人生を見事に詠いきった秀作です。

 何もかもなくなっても、助かった命を生きていこうという気概に満ち溢れています。そしてただ生きながらえるというのではなく、荒れ地を整え、野菜の命をも育んでいこうとする、あくまでも前向きな姿には、頭が下がります。島田さんのような方はたくさんいらっしゃったはずです。若い人の何倍ものエネルギーを費やし、やっとここまで来たのです。だからこそ、新しい1年目を元気に迎えて、これからの被災地を見届けて欲しかったのです。

 震災で亡くなった霊を慰めるのは勿論のこと、震災後に亡くなった方にも、被災地の現状を報告する意味においても、大震災を伝える催しは継続していくべきです。「老婆汝が為に血滴々たらん」という禅語があります。仏の老婆心が血を流すようにして手を差し伸べ、菩提心を起こせと促していることを言います。まさに震災後の老人たちが老骨に鞭打って、我々に日常を取り戻してくれたことに思いを馳せなければなりません。

 ここでお知らせいたします。2月のカンボジアエコー募金は、413回×3円で1,239円でした。ありがとうございました。

 それでは又、3月21日よりお耳にかかりましょう。

【第1231話】 「大きな笠の中」 2022(令和4)年3月1日~10日


 お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第1231話です。

 お寺には山の名前を冠した山号があります。徳本寺の末寺の徳泉寺は「笠野山」で、笠野という地名が由来です。山はありませんが海があります。そのため、11年前の東日本大震災の大津波で、本堂も何もかも流されました。周りの檀家さんの家も全て流出です。現在は災害危険区域になって、人が住まいすることができません。

 しかし、徳泉寺の本尊さまは、寺から2㌔ほど離れた所で、奇跡的に無事発見されました。どんな災難に遭っても、みなさまの心の拠り処となる一心で踏み止まったと信じて、「一心本尊」と名付けました。その本尊さまの下に、全国のみなさまが「はがき一文字写経」を納経して下さったおかげで、寺を再建することができました。

 復興の過程で思い続けてきたことは、笠野山という山号額を本堂に掲げたいということでした。今や笠野という地区に住民はいません。でも確かにここに生活していたという証として、地名だけでも残しておきたいというのが、人々の願いでした。おかげさまでその願いが叶い、再建された本堂には「笠野山」という堂々たる山号額が輝いています。

 同じように、笠野という地名を残したいと思っている人がいました。檀家の齋藤順子さん一家は、自宅が津波で床上まで浸水したものの、何とか無事だったので、修復して住まい続けています。周りはポツリポツリ残った家があるだけで、昔の面影はありません。そんなところに順子さんは、何とパン屋とキャンプ場を開いたのです。その名も「CaSaNo-Va」といいます。カサノバはイタリアの小説家でプレーボーイとして有名な名前ですが、バラの品種名にもあり、花言葉はあなたを愛しますとか、力を尽くす献身という意味があります。ともかく、「笠野という場」をアピールしたいということで「カサノ・バ」と名付けたその心意気や良しです。

 キャンプ場には県外から訪れる人もいて、知る人ぞ知りところになっています。トレーラーハウスのパン屋は、ゴボウを載せたものやレーズンバターが入ったものなどユニーク且つ美味しい品揃えです。朝2時に起きて一人で仕込み焼いているその意気込みが伝わる味です。そこで笠野をアピールする者同士、お寺でパン屋を開こうということになりました。試みに3月11日に行われる東日本大震災復興祈願法要の折に、「CaSaNo-Va」の移動販売を行います。

 実は流された一心本尊さんが見つかったのは、順子さんのお宅のまさにパン屋があった辺りだったのです。因縁浅からぬ巡り合いです。本尊さんもパンも大きな笠の中にいるかのようです。まるで相合い傘です。本尊さんは慈悲という愛で人々の心を、パンは滋味という愛でお腹を満たしてくれます。

 それでは又、3月11日よりお耳にかかりましょう。

【第1230話】 「要保護者」 2022(令和4)年2月21日~28日

住職が語る法話を聴くことができます


 お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第1230話です。

 運動が楽しいと思い、続ける動機を得た人は幸いです。引退した体操の内村航平は「今まで一番うれしかったのは、小学1年でけあがりができたこと」と言っています。フィギアスケートの羽生結弦も、9歳の時1回転半飛べたワクワク感で、ずっとスケートを好きになっていたと明かしました。楽しみの先に結果がついてくれば最高です。そのためなら苦しい練習にも耐えられます。

 さて北京オリンピックフィギアスケート女子のロシアのワリエワは、薬物陽性反応が出て、ドーピング違反が指摘されました。ロシアは組織的な薬物使用で制裁を受けたため、国家代表の選手ではありません。「ロシア・オリンピック委員会(ROC)」の名で、潔白な選手のみの出場でした。しかし、違反が露見しました。悩ましいことに、ワリエワの実力は誰もが認め、金メダル候補の筆頭です。そこに15歳という年齢が絡みます。スポーツ仲裁裁判所は、「要保護者」にあたるとして出場を認めたものの、演技の結果は暫定扱いなのです。

 「要保護者」だから、本人が禁止薬物の使用をどれほど把握していたか疑問だというのです。更には彼女の祖父が同じ薬を飲んでいて、同じコップを使用したなどという苦しい言い訳もあります。ともかく彼女を金メダリストにするため、周囲の大人の画策が垣間見えます。何せ「保護者」の力は絶大なのです。

 勿論、オリンピックを愛する世界の人には、不公平と映ったはずです。そんな針の筵が敷いてあるようなリンクで、ワリエワは無心で滑られるわけがありません。結果は、本来の演技にはほど遠く、回転が足りなかったり、手をついたり、転倒するなど、見る影もありませんでした。メダルには届かず、演技後にコーチに叱責され、必要な時「保護者」はどこに行ったのでしょう。

 そもそも禁止薬物使用は、誰であれ、どんな理由であれ、ダメなものはダメという毅然とした裁定をすべきです。他の選手に及ぼす影響は計り知れません。みんなが暫定の結果として受け止めなければなりません。オリンピックという晴れ舞台で、こんな中途半端で終わって誰も納得しないでしょう。何よりわずか15歳のワリエワのこれからの人生はどうなるのでしょう。

 道元禅師は「発心正からざれば万行空しく施す」と『学道用心集』で述べています。金メダルを取るという発心は良しとして、そのために不正を行えば、あらゆる人のオリンピックに懸けた努力も、すべて空しく消えてしまうのです。運動で「楽しい」という発心こそが一流への道です。その上で「要保護者」とは、例えば子どもが悪に走るようなことがあれば、それを止める人を言うのでしょう。ひとりの子どもの運動の楽しみを奪い、心に傷を負わせた大人たちこそが、禁止薬物的存在です。

 それでは又、3月1日よりお耳にかかりましょう。

【第1229話】 「沙羅双樹の静寂」 2022(令和4)年2月11日~20日


 お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第1229話です。

 「度すべき所の者は皆已に度し訖(おわ)って沙羅双樹の間に於て将に涅槃に入りたまわんとす、是の時中夜寂然として聲(おと)無し、諸(もろもろ)の弟子の為に略して法要を説き給ふ」と、『遺教経』の冒頭に示されています。

 今から約2500年前の2月15日に、お釈迦さまは80歳で、お亡くなりになられました。説法の旅を続ける中で、供養の食事の後、腹痛に見舞われ、ご自分の最期を悟ります。そして、説くべき教えは全て説いてきたが、最後に臨んで、仏法の要を伝えておく。そのような心境で残された遺教経の正式名称は『仏垂般涅槃略説教誡経(ぶっしはつねはんりゃくせつきょうかいきょう)』といい、「仏が涅槃に入ろうとするときに、簡略に説いた教え」という意味です。簡略にとは言っても、普通に誦(よ)んでも、30分はかかります。最後の力を振り絞って、諄々と説かれるお釈迦さまのお声に、弟子たちは耳をそばだてたことでしょう。沙羅双樹の林の静寂さが伝わって来るようです。

 さて、お釈迦さまの命日に近い2月11日は、野村克也さんの命日です。45歳まで現役選手を続け、監督になってからは、弱小球団を率いて、頭を使う野球を浸透させ、優勝に導くなど、その手腕は高く評価されています。その野村さんは「私は本当に幸せだった。あとは死ぬだけだ。もう十分生きたよ」と言っています。お釈迦さまと同じとは言いませんが、達観した言葉です。自分が死んでも、伝えるべきものは残した。何ら悔いはないという自負が言わしめたのでしょう。

 野村さんの教えを受けた一人に、現ヤクルトの高津臣吾監督がいます。「僕は全身、野村監督の野球でできている」というほどです。昨年最下位からセ・リーグ優勝を果たし、日本シリーズも制して、日本一にもなりました。昨年12月に野村さんをしのぶ会があり、高津監督が弔辞を述べました。その中で、最下位を率いている時、野村さんに「頭を使え、頭を使えば勝てる。最下位なんだから好きなように思い切りやりなさい」と言われたことを紹介していました。そして、私の役目は野村野球を継承し、残して、更に新しいものを加えて、今の選手に伝えていくことだと述べています。

 お釈迦さまの最期の説法に不忘念(ふもうねん)の教えがあります。「善知識を求め善護助を求めることは、不忘念に如(し)くは無し」つまり「善き師、善き友を求めるならば、正しい教えを念じて忘れないことに勝るものはない」ということです。高津監督はチームのどん底にありながらも、頭を使うという野村さんの教えを忘れず、次に伝える心意気を以って指揮してきたことが実ったのでしょう。十分生きて死に切った野村さんの教えは、着実に伝わっています。今年3回忌を迎えた野村さんも、沙羅双樹の静寂を味わっているような気がします。

 ここでお知らせいたします。1月のカンボジアエコー募金は、751回×3円で2,253円でした。ありがとうございました。

 それでは又、2月21日よりお耳にかかりましょう。

【第1228話】 「カンニングよりランニング」 2022(令和4)年2月1日~10日


 お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第1228話です。

 そのテレホン法話は「神頼み」というタイトルでした。受験生が、どの程度「神頼み」するかという調査結果が元になっています。願を掛ける掛けないは、ほぼ拮抗していました。しかし、そんな結果を嘲笑うかのように、携帯電話を使ってカンニングをした予備校生を紹介しました。かなりの文字数の試験問題を携帯電話で打ち込んで、ネット掲示板に投稿し、解答を求めたのです。携帯電話を神のように信じ、神業の如く操っていたのかという結びで法話を締めました。

 それは平成23年3月11日の発表でした。その日の午後2時46分に東日本大震災が発生。ほどなく電気も電話も不通になりました。復旧したのは1週間後ですから、この法話はほとんど誰にも聴かれずに終わった幻のテレホン法話です。神頼みをしたくても、神も仏もないのかと思えるような大惨状です。テレホン法話など何の役に立つわけもなく、なくなってもよかったものです。同じように、携帯電話カンニングも、その時だけのような気がしていました。

 あれから11年、良くも悪くも人間の神業は、進歩しています。今年の大学入学共通テストで、「世界史B」の問題が試験中にネットに流出しました。19歳の女子大学生が警察に出頭し、関与を認めました。「別の大学に入り直そうとしたが、成績が伸び悩んでいた」と説明しています。予め家庭教師紹介サイトで接点があった大学生に、時間を指定して待機させ、隠し撮りした問題の画像を送り、解答を依頼したのです。

 その神業は、スマートフォンを上着の袖に隠して撮影したり、文字を打って送信したというものです。勿論、シャッター音が出ない工夫もしています。それほど準備と操作するエネルギーがあるなら、受験勉強に費やすべきでしょう。更にわからないのは、現在大学生でありながら、別の大学に入るために、カンニングに及んだことです。何のために大学に入ったのでしょう。カンニングの技を磨く学科があったのでしょうか。

 件の予備校生の受験が、東日本大震災の後だったら、携帯電話カンニングなどという姑息な手段は思い浮かばなかったでしょう。大震災という圧倒的な惨状を前にした時、人間の非力(ひりき)さを思い知らされました。復興にはカンニングなど通用しないのです。目の前の現実を直視して、今自分ができることをやるしかないのです。

 19歳の女子大学生にしても、コロナ禍でのリモートに慣れ過ぎて思いついた仕業だとしたら悲しいことです。画像だけでは判断できない生の現場があります。匂いや息遣いを感じることで、人の心は動かされます。何より自分の足を動かさなければ、一歩も前に進めないことを実感できるはずです。袖の中でカンニングしても、己の心が一歩も二歩も後退するだけです。勿論いくら袖の下を使っても、コロナは手加減をしてくれないのが現実です。そう思えばカンニングするよりも、ランニングをして自らの足で、世の中を渡っていく気概を持つべきでしょう。

 それでは又、2月11日よりお耳にかかりましょう。

【第1227話】 「千里同風」 2022(令和4)年1月21日~31日

住職が語る法話を聴くことができます


 お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第1227話です。

 「震災は遠くになりても思うもの」という川柳が新聞に載っていました。「27年」という題がついて、阪神・淡路大震災から27年経ったことを詠んだものです。そして、その前日1月16日午前零時過ぎに、太平洋側全域を中心に津波注意報が出されました。真夜中のことで、どなたも驚かれたことでしょう。15日に発生したトンガ沖の海底火山の大噴火によるものです。「震災は遠くにありても不安なり」です。

 思えば1年前の2月13日夜11時7分に発生した地震は、東日本大震災の余震というのですから、驚きました。間もなく大震災から10年の節目を迎えるというタイミングで、余震とはいえ震度6強もありました。被害地域はかなり限られてましたが、たまたま徳本寺周辺で被害甚大でした。人的被害はなかったものの、お墓や家屋の被害は、10年前よりひどいところもありました。「忘れるなと言うかのようにまた地震」です。

 トンガと日本は約8千キロ離れています。しかし、トンガ周辺で沈み込むプレートは、東日本沖と同じ太平洋プレートで、成り立ちがよく似ているそうです。トンガ火山の研究者によれば、900年から1000年に一度のペースで大規模な噴火が繰り返されているといいます。前回は西暦1100年ごろだったといいますから、まさに千年に一度の大噴火といえます。東日本大震災も千年に一度といわれました。発生から10年経ってもその勢いは衰えず、余震をもたらしたのですから、地球に蓄えられているエネルギーは想像を絶するものがあります。

 今年は寅年ですが、虎の勢いを表す諺に「虎は千里行って千里帰る」というのがあります。一日千里を往復できる勢いと行動力のたとえです。千里往復は約8千キロですから、トンガまでの距離です。寅年の私ですが、今すぐトンガまで行き、支援の手を差し伸べることはできません。同じ太平洋プレート上にある者として、運命共同体の思いを込めて、被災者の無事と今後の復興を願うばかりです。

 千里と言えば、「千里同風」という言葉があります。遠く離れた場所でも同じ風が吹いていることを指し、一般的には千里四方がひとつにまとまって、平和であるとの意味です。少し仏教的見地から深読みをすれば、いつどこへ行ってもどんな状況でも、思う心は変わらないということです。時間空間を超えて、心を通じさせるということでもあります。日本なら何とかするが、トンガのことは知らないということではいけないわけです。また、千年経とうが10年過ぎようが、自然の営みに対しては、謙虚に恐れることを忘れてはいけないということでしょう。

 コロナといい、自然災害といい、極く限られたところではなく、地球規模で全人類が我がこととして受け止めていく必要があります。ほんとうの意味での千里同風が一日も早く、地球上に吹き渡るよう祈りましょう。

 それでは又、2月1日よりお耳にかかりましょう。

【第1226話】 「師弟のナビゲーション」 2022(令和4)年1月11日~20日


 お元気ですか。3分間心のティータイム。徳本寺テレホン法話、その第1226話です。

 「お寺でーす」と元気のいい声が、檀家さんの玄関先に響きました。おそらく檀家さんは、「あれ、今年の年始廻りの和尚さんの声が、ちょっと違うな」と思ったことでしょう。実は昨年縁あって徳本寺に弟子を迎えました。仙台市出身の小林信眼さん27歳です。その彼と一緒に年始廻りして、正月のお札を檀家さんにお配りしたわけです。

 信眼さんはまだ地元の地理にも不案内ですし、檀家さんの顔も家もわかるはずがありません。私が道案内をしながら、一軒一軒の檀家さんの家を訪ねてもらいました。若いということは素晴らしいものです。時折雪がちらつく中でも、精一杯挨拶をし、軒並み続いているところは、小走りに移動して、お札を配っていました。

 初対面の方ばかりですので、檀家さんの反応も様々でした。どこの和尚さんなのだろうと訝しがる人もいました。勿論快く迎えてくださる方、気さくに話しかけてくる方もたくさんいらっしゃいました。中にはお寺の後継者が決まったことを喜び、目を潤ませながら手を合わせてくださる方もいたほどです。信眼さんも見るもの聞くもの、全てが新鮮さと驚きに満ちていたことでしょう。一人ひとりの方と実際にお会いして言葉を交わし、多少なりとも家の様子を記憶することができたことは、何よりの財産になります。

 徳本寺の弟子として、寺を護っていくためには、檀家さんのことをしっかり把握して、一日も早くみなさんに馴染み、自分の存在を知っていただくことです。師匠としてその第一歩を示す意味で、年始廻りの行に導いたわけです。ただそれは導いたというだけで、車で言えばナビゲーションの役割を担った程度かもしれません。目的地までの道案内だけなら、師匠という立場でない人でもできるでしょう。

 本来の師匠と弟子には、もっと厳しい関係性が求められます。単なる師匠ではなく、正しい師という「正師」という存在です。道元禅師は「学道用心集」の中で「正師を得ずんば学ばざるに如(し)かず」とお示しです。正しい師匠のもとでなければ、学んでいないと同じことだというのです。そして正師とは「我見に拘(かか)わらず、常識に滞(とどこ)らず、行解相応(ぎょうげそうおう)する人」つまり、個人的な意見や感情に流されずに、言うことと行うことが一致している人だというのです。確かに言行が一致していない人は信用されません。

 師匠は弟子の単なるナビゲーションだけではないわけです。少なくとも、言うことと行うことが一致して、弟子に信用されることが肝心です。それを見習えば、弟子も檀家さんに信用されるわけです。今後徳本寺では、弟子も師匠も「お寺でーす」と言って、みなさんになびいていただけるような、ナビゲーションを心がけてまいります。

 ここでお知らせいたします。12月のカンボジアエコー募金は、489回×3円で1,467円でした。ありがとうございました。それでは又、1月21日よりお耳にかかりましょう。